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器楽的演奏方法と声楽的歌唱方法

 声楽のレッスンに行ってきました。

 まずは発声から。今回はしっかり数えながら発声をやりましたよ。だから、一番高いところが五線の上のシ♭になるとコケたことが自分でもよく分かりました(笑)。先生もピアノを弾きながら、頭、振ってました。「そこは出ないんだから、歌わないでー」といった感じでしょう。

 コンコーネの4番は、松葉の歌い方の確認から。17~18小節のように、同じ音形でディミヌエンドが繰り返されている場合は、後ろのフレーズはエコーと考えて、エコーっぽく歌うこと。最後の4小節のように、高いメロディと低いメロディの二つが用意されている場合は、迷わずに高い方を歌うこと(テノールは、やたらと高い音を出したがるという習性があるので、その習性に逆らわないようにしましょう、ということです)。

 あとは、ブレスは決められた場所以外では、絶対に吸わない。決められた場所では、必ず吸う。この二点をしっかり守ること。

 4番がサラっと終わったので、すぐに5番に突入。13~17小節のように、ピアノの右手が下降音形で、左手が上昇音形の場合、ピアノの音が密集してエネルギーが増してくるので、歌はそのピアノのエネルギーを受けて、クレシェンド気味に歌うこと。

 24小節のように、ピアノが消えたしまった箇所の歌い方について。ここは、器楽的発想で演奏するならば、インテンポで休符をしっかり数えて歌わないといけない。

 しかし、声楽的な見地で歌唱方法を考えるなら、ピアノがいない箇所は、千載一遇のチャンスであると考えるべきで、息が続く限り、高らかに音を伸ばして、声をひけらかす事が大切。たっぷり歌ったら、ゆっくり時間をかけてブレスをして、ブレス後は、ピアニストに目で合図をし、観客が息を揃えられるように、フレーズの出だしの音を長めに歌うこと。そして、再びピアノが戻ってきてからインテンポに戻すこと。

 どこにもフェルマータは書かれていないけれど、すべての音符と休符とブレス記号にフェルマータが載っているものと考えても良しなんだそうです。この一連の動作が「歌心」という奴なんだそうです。ううむ、たしかに、こういう事は、歌では日常茶飯にやるけれど、楽器でこれをやったら、怒鳴られそうだな。合唱でもアウトだと思う。そう考えると、同じ歌でも、合唱って器楽的なのかもしれない。

 ところで、イタリア系の曲の演奏では、歌手が一番エライのだそうです。だから、イタリア系の曲では、歌手のお望み通りの「歌心」あふれる歌が歌えるし「歌心」あふれさせながら歌うべきなんだけれど、ドイツリートなどをやる時は、また状況が違うそうです。ドイツリートでは、一番エラいのは作曲家であり、そのパートナーの作詞家なんだそうです。二番目にエラいのが、ピアニストだったり指揮者であったりして、歌手は順列的には一番下の地位になるそうです。そして、その地位に甘んじながら、その順位の中でできることを精一杯にやっていくのが、ドイツリートの世界なんだそうです。

 ちなみに、キング先生は、そんなドイツリートの世界が大好きなんだそうですが、私は…絶対にドイツリートは歌わないようにしよう(笑)。ビバ、イタリア!だな。

 今回で、コンコーネの4番と5番は終了。6番と7番は宿題になりました。

 伯爵とスザンナの二重唱は、ごく簡単だけれど、動作(芝居の初歩のようなもの)を付けてみました。また、独り言と対話の部分の歌いわけのようなものをサラッとやりました。時間が足りなくなったので、二重唱に関しては、次回、たっぷりやることになりました。

 今回のレッスンも、大変充実していました。ああ、楽しかった。

コメント

  1. Cecilia より:

    歌手が一番偉いイタリア系の曲でも私は最近は作曲者が一番と思って歌っています。
    でも昔は伸ばす長さとか拍子とか本当にいい加減でした。
    ・・・というかCD(テープ)を聴いて真似していただけなのですが、何年も経って楽譜を見ると(ここの部分を楽譜どおりに歌うとこうはならないんじゃない?)と思うことが多くて、最近は歌う時にいろいろと考えてしまいます。
    ・・・ってイタリア物を歌う機会がないのですが。
    歌手が主役って当たり前みたいですが、これもポリフォニーに代わってモノディ様式が発達したおかげなのでしょう。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%87%E3%82%A3

    娘たちのピアノレッスンに付き合ったおかげで”器楽的”な考え方がよくわかりました。
    そこから声楽の人の良くも悪くもアバウトな部分が見えたような気がします。

  2. すとん より:

    >Ceciliaさん

     イタリアもの、ドイツもの、と分かりやすく二つに分けてお話をしましたが、もちろん厳密に考えていくと、世の中そんなに簡単に二分できるわけではないので、例外も生じてしまうのは仕方のないことですが…と前置きをして、イタリアものでも、おそらく近代歌曲の類はきちんと歌わないといけないのでしょうね。でも、オペラとか古典ものは、逆に譜面通りに歌ってはいけないと思います。

     ここから先はキング先生ではなく、私の考えなんだけれど、私はイタリアって国は、音楽が知的エリートではなく大衆のものになっている国なんだと思います。オペラなんて、受容された歴史を考えると、学術的芸術ではなく大衆芸能だと思いますよ。大衆芸能、つまりはポピュラー音楽なんですよ。作曲家よりも演奏家がエラく、演奏家よりも観客の方がエライ世界ですね。まるで、現代の市場主義のようだね。音楽の市場主義? マーケッティングに左右される世界? これがイタリアっぽい音楽の受け止め方なんだと思います。

     たとえば、オペラアリアなんて、当時の最新の流行り歌。歌手が自分らしさをアピールするための材料だし、観客が望む様に歌うのが、今も昔も当たり前のスタイルでしょう。これは今どきのジャズとかポピュラー音楽を見ても言えることです。

     それにだいたい、当時は作曲家だって、大雑把にしか譜面は書かなかったそうですよ。で、細かい装飾やらなんやらは歌手まかせ。そういう点でも、現代のポピュラー音楽に通じる部分がありますね。

     でも、腕のいい作曲家(モーツァルトとかロッシーニとか)たちは、思いがあふれて、ついついきちんと楽譜を書いてしまうわけだ。でも、それは当時の演奏様式とは異なるわけで、だから始終歌手と衝突したわけだ。「譜面に書いた通りに歌え」「冗談じゃないわよー、あたくしはプリマなのよ、好きにやらせてもらうわよー!」ってね。作曲家からすれば当然の要望だろうけれど、歌手だって人気商売です。生活がかかってますから、そりゃ必死に自己アピールですね。

     その点、ドイツ音楽って、根本の発想が違うでしょ。大衆のための音楽とはちょっと違う。いや、大衆に支持されていたという点では同じだけれど、大衆がその音楽を口ずさんでいたのかと言うとちょっと違う。ある意味、日本におけるクラシック音楽の受容の形に近いのかもしれない。

     音楽が聖なるものって感じで受け入れられていたみたいでしょ。楽譜こそがすべて。楽譜聖典主義みたいな? 分かりやすくイメージで捕らえるなら、ベートーヴェンの交響曲とかワグナーの楽劇とか、ああいった感じ。絶対にして犯すべからずみたいなね。ワグナーなんて、自分専用の劇場まで作っちまう始末だし…。音楽を、100パーセント作曲家のコントロール下に置きたいんだと思います。

     となってくると、音楽性の違いというよりも、国民性の違いかもしれません。チャランポランなイタリア人(失礼)と四角四面なドイツ人? 民俗的な習慣も受け入れちゃうカトリック的なイタリア人と、原典主義的プロテスタントなドイツ人? ロッシーニとベートーヴェン、ベッリーニとシューベルト、ヴェルディとワグナー。ね、やっぱりだいぶ違うと思います。

     でも、本当は、イタリアとドイツという比較で考えるのって、かなりナンセンスで、音楽の受容という事を考えたら、真っ先にパリの音楽状況というのを考えないといけないんだと思います。何と言っても、クラシック音楽の時代、芸術の都はパリだったんだから。

     ベルリオーズの交響曲の標題音楽化とか、ショパンとリストとパガニーニの名人三すくみの構造とか、印象派の台頭とかね。特にフランス革命と二度にわたる世界大戦の間の間の時代は、やっぱり何と言っても、音楽はパリですね。フランスですね。

     ああ、テーマが大きすぎて、とても私では書き切れない(汗)。

  3. かなりや♪ より:

    こんにちは!
    歌う時、いつも思っていたことです!!合唱と独唱の違いにもそういえるでしょう。

    イタリア人の様にまではできなくとも、自分の表現として、歌いたい!!とは思っています。でも、作曲者や、作詞者の想いも大切にしたうえで、・・・というところが、まず、楽譜に忠実に歌えてはじめて、・・・その次に、自分なりのアレンジというか、表現したいように歌うがありかなとも思うのです。
    だいたい、良い曲は、覚えやすく、印象に残りやすいし、間違いにくいともおもうのですが・・・。なかなか、譜読みにまず、苦労している・・・曲想をつかむまでが苦労です。

  4. すとん より:

    >かなりや♪さん

     まあ、我々日本人は、気質的にはイタリア人よりもドイツ人に近い、四角四面でマジメで一途な国民性を持っています。イタリア人というか、ラテン系の人々のように「楽しんじゃた方が勝ち!」みたいにはなかなかできませんね。“殻を破る”というのが我々に課せられたテーマなのかもしれません。

     私だって、イタリア系のあの歌い方は好きですが、じゃあ自分でできるかと言うと、一歩も譜面から踏み出せずに歌ってしまうわけですから、彼らのあの奔放さは、憧れです。でも、きっちりと楽譜通りには歌えないわけで、ううむ、中途半端です。

     個人的には、まずきちんと楽譜通りに歌う事。それができるようになってから、そこから一歩踏み出して、自分流に歌ってみること。こんな順番で考えてます。…考えるだけで、なかなかできません(汗)。

    >良い曲は、覚えやすく、印象に残りやすいし、間違いにくいともおもうのですが・・・。

     …ですね。と言うか、覚えやすく印象に残りやすいから、良い曲、つまり名曲として歴史に残ってきたのだと思います。クラシック音楽にハズレがないのは、そういう、“時の淘汰”を経てきたからだろうと思います。もっとも、ポピュラーソングにも、スタンダードナンバーと言って、それに近い存在の曲がありますが。

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