私もかつては平気で「私は楽譜が読めません」と公言していましたし、実際、読めませんでした。
でも、さすがに音楽趣味を数年も続けりゃ、読めないはずの楽譜だって、なんとなく分かるようになりますよ。かつては、ただのインクのしみでしかなかった音符の並びを見て、鼻歌ぐらいは歌えるようになりますよ。
「門前の小僧、習わぬ経を読む」です。
なので、いい年したオトナで、それも音楽趣味を数年も続けていて、なおかつ「楽譜が読めません」と公言している人って、どんな気持ちで音楽趣味を続けてきたのかな?と、ちょっと訝しく思うようになりました。
まさか、学習能力ないの?
いやいや、そこまでおバカちゃんなら、ネットで発言したり、ツイートしたりはできないよね。少なくとも、日本語の読み書きには不自由がないレベルの知能の持ち主であって、音楽趣味を真剣に数年もやっていて、楽譜が全く読めないってのは、ありえないわけだから…音楽趣味を真剣にはやっていなかった…としか思えません。
真剣ではなく、フワフワした気持ちで、音楽に向き合うとも向き合わないとかでもなく、そんな中途半端というか、お気楽極楽な気分で音楽趣味をしていたなら、そりゃあ何年やっていようと、楽譜なんてちっとも読めるようにはならないだろうし、楽譜が読めない以上に、演奏力だって向上しちゃいないでしょう。
どんなモノだって、真剣に取り組まなきゃ上達なんてしないもの。
だから、いつまで経っても「私は楽譜が読めません」って公言している人を見ると、この人の音楽趣味は、ただの見せかけであって、別段、音楽が好きでもなんでもないんだなって思うようになりました。
こんな感想も、たぶん、大きく外してはいないと思うんだよね。趣味だからこそ、より真剣に取り組んじゃうんだよなあ。
↓拍手の代わりにクリックしていただけたら感謝です。
コメント
「私は楽譜が読めません」けど、
歌はうまいです、才能あるからね。
「私は英語ができません」けど、
仕事はできます、頭いいからね。
「私は数学ができません」けど、
物事の本質を即座に捉えられます、感性鋭いからね。
という感じで、
Aはできないけど、Aなんて大した問題ではない、
Bができるから「いいんだ、いいんだ」、
Bができるのは、才能があるから、頭いいから、感性鋭いから、
Aなんて大した問題ではない、
というような論法で、開き直っている人が多いように思います。
今日の「ひとこと」の学歴問題と同じで、
「少し」かつ「正しい方向」で努力すれば、
楽譜も読める、英語も数学もできるようになる、
学歴もついてくる、と思いますが、
「少し」の努力をしない人、
「正しい方向」の努力をできない人が多いように思います。
ただ、まあ、人生=努力×才能×親×運
運の良い人には勝てまへん。
ヾ(・◇・)ノ ヽ( ̄▽ ̄)ノ ヽ(・∀・)ノ
(-A-) (-A-) (-A-) ← ざっくぅ
おしまい
オペラ座の怪人の怪人さん
>ただ、まあ、人生=努力×才能×親×運
確かにこれは否定できません。親ガチャはあるし、運も実力のうちだし…。世界は決して平等ではないからなあ。だからこそ、自分でどうにでもなる努力ってヤツが認められる社会であるべきだし、そういう社会に生まれたのなら、精一杯の努力をするべきだと、私は思うわけです。
その努力も、才能で軽く凌駕されちゃう現実を見ちゃうと、ゲンナリするんだよな。
こんばんは。
>人生=努力×才能×親×運
才能は、ある一つのことにどれだけ寝食を忘れて集中できるか(死語?)、と何となくわかったのは中年以降。10代はいろいろなことに興味をもちすぎて何一つものになりませんでした。
かろうじてギリギリフルートを吹いている今日この頃です。
失礼しました。
tetsuさん
>才能は、ある一つのことにどれだけ寝食を忘れて集中できるか(死語?)
ピアノの才能とか野球の才能とかは、確かにどれだけの時間と労力を捧げたかで身につくような気がします。
“天賦の才能”というものがありますが、それも、もしかすると物心つかないうちからの努力の賜物…なのかな?と思うことがありますが、その一方で、やっぱり最初から持って生まれたものである…のかな?とも思います。
例えば、才能のうちでも感覚と結びついたもの、例えば動体視力の良し悪しとか、聴覚の鋭さなどは努力でどうにかなるものかは、私には不明です。一説によれば、足の速さは遺伝で決まり、努力でどうにかなるものではないとも聞いたことがあります。
DNA由来の才能は、努力だけじゃどうにもならないような気がするんです。