今回は、ちょっとタイトルが大げさになりました。“本質”と書きましたが、高尚な事を語るつもりはありません。
この場合の“本質”とは“クラシック音楽だけが持つ大きな特徴”といった程度の事だと思ってください。
さて“クラシック音楽だけが持つ大きな特徴”とは何かと言うと…、おそらく専門家の方々に言わせると、あれこれたくさん挙げられる事でしょうが、私が思うには、ただ一点「紙に記録された音楽」である事ではないでしょうか?
つまり、音楽をどのように後世に伝えていくかと考えた時に、紙に書いて記録するという方法に進化していった音楽が、いわゆるクラシック音楽、つまりヨーロッパ古典音楽って奴なんだろうと思います。
別に音楽を演奏していたのは、ヨーロッパ人だけではありません。我々日本人のご先祖様たちだって音楽を演奏していたし、他の民族の方々だって、あれこれ音楽を演奏していきました。でも、それらの音楽の大半は、口伝であったり、聞き覚えの伝承であったりしました。邦楽を始めとする、いくつの音楽には、一応、楽譜がありますが、クラシック音楽の楽譜と比べると、大雑把であり、ザックリとした覚書程度の記録方法であると言わざるをえないと思います。
つまり、クラシック音楽とは、記録されるために発達し、整備されてきた音楽であると言えるのではないでしょうか?
もちろん、記録されるためには、音楽の細かいところまで規定されていないといけません。たとえば、音階や音程、調性と言ったものの発明。リズムの定量化。つまり、時間と音波の周波数を任意に定め、それらを記録する方法を整備してきたわけです。
その集成が、いわゆる五線譜の楽譜って奴なのです。
ですから、クラシック音楽とは何かと言えば、あの五線譜に記載された音楽がクラシック音楽であると言えます。つまり、音楽とは音波の集まりではあるけれど、それを音波のままではなく、一度データに変換して、データで後世に伝えようとしたのです。
だから、クラシック音楽では、データである楽譜から、実際の音波の集まりである音楽への変換作業、つまり演奏という作業が必要になってきます。
クラシック音楽の楽譜は、他の音楽と比べると、かなり緻密なモノですが、だからと言って、完全な記録方法とは言えません。20世紀以降に発達した、録音や録画には敵いません。でもいいのです。それでいいのです。
もしもクラシック音楽が、録音や録画並の再現性の高い方式で記録された音楽であれば、今日のような演奏家の活躍はなかったでしょうし、演奏家の活躍がなければ、愛好者の数も幅もグンと狭まっていたと思います。
クラシック音楽は、演奏家の活躍によって、常にリブートしている…と言えます。
いくらベートーヴェンのピアノソナタが優れた作品だからと言って、現在のように様々な演奏家たちが世界中のコンサートで演奏してくれるから、世に残って、人々に愛されているわけで、もしもベートーヴェン自身の録音が残っていて、みんなその音源を聞くだけで、誰もベートーヴェンのピアノソナタを演奏しないのなら、ベートーヴェンの音楽ですら、すでに消えてなくなっているかもしれません。
クラシック音楽の本質が楽譜にあるから、その楽譜から音楽を再生する際に、演奏家の個性が加わり、演奏家の数だけ演奏される場も広がり、それが今日のクラシック音楽の隆盛につながっていったのだと思います。
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コメント
すとんさん、こんにちは。
「クラシック」って何なのでしょうかね。
多くの日本歌曲は発表された当初は、ポピュラーでも今は名曲としてクラシック歌手が歌っていたりしますしね。
>五線譜に記載された音楽
だとしたら、「ネウマ譜」はクラシックではない?
古楽に出てくる通奏低音は?ベルカント・オペラの即興的なカデンツァは?
「舞台で演奏することを前提としている」と言っていた人もいましたが、それだと、教会音楽は当てはまりませんね。
私なりの解釈では、多くの埋もれたような曲があるのが現実ですけど、「後世の人に受け入れられる」ことを前提とした電気の音響に依存しない曲、というところかな。
ドロシーさん
>多くの日本歌曲は発表された当初は、ポピュラーでも今は名曲としてクラシック歌手が歌っていたりしますしね。
日本歌曲をクラシック音楽の範疇に入れるかどうかは、本当は難しい話だろうと思います。クラシック音楽の手法を取り入れた音楽である事には間違いないけれど、どう言い訳しても“西洋古典音楽”ではないですからね。
かつてポピュラー音楽で、現在は名曲として歌い継がれている音楽は、明らかに“クラシック音楽”ではありません。そういう音楽は“スタンダード音楽”という別ジャンルの音楽です。
ネウマ譜は五線譜の前身ですから、クラシック音楽の範疇に入ると思いますよ。実際、グレゴリオ聖歌はクラシック音楽の範疇に入っているでしょ? 現在我々が使っている言葉も、江戸時代の徳川吉宗が使っていた言葉も、戦国時代の織田信長が使っていた言葉も、平安時代に紫式部が使っていた言葉も、みんなみんな、同じ日本語でしょ? そりゃあ、時代によって使う語彙が違ったり、文法がちょっとばかり違っているかもしれないけれど、でもやっぱり日本語なわけで、五線譜とネウマ譜の関係なんてのも、そういうモンだろうと思いますよ。
>古楽に出てくる通奏低音は?ベルカント・オペラの即興的なカデンツァは?
通奏低音は現代のコードネームのようなもので、楽譜の表記方法の一形態ですし、古楽はクラシックに入れていいと思います。
オペラは総合的な芸術作品ですから、クラシック音楽の部分もあるけれど、当然演劇の部分もあるし、当時のポピュラー音楽の部分もあるわけです。カデンツァなんてのは、オペラの持っているポピュラー音楽的な部分だろうと思います。オペラに関しては、あまりに複雑すぎて、簡単に語ることはできないかなあ…って思ってます。
ちなみにポピュラー音楽の特徴は「楽譜はあっても、楽譜通りに演奏したら負け」にあると思ってます。実際、ポピュラー系のミュージシャンたちは、楽譜通りに演奏しながらも、どこか必ず変えてきますからね。それが彼らの個性であり、矜持であるわけです。
そういう意味では、自分でカデンツァを作曲して歌う歌手はポピュラー音楽をやっている事になりますが、現在のオペラ歌手は、すでに楽譜に書き起こされたカデンツァをそのまま歌うわけですから、やっぱりクラシック音楽として歌っているんだろうなあって思います。
モーツァルトの時代にも、即興演奏のバトル(2人の奏者が、一人ずつ1つのテーマを8小節ずつ即興で変奏して、相手がそれを受けてさらに変奏して返し、と、変奏のキャッチボール(ラリー)を繰り返して最後にネタに詰まって演奏が止まった方が負け)があったそうですね。
現代のインプロヴィゼーション合戦みたいです。
でも、そういうのって楽譜に残らない…後世に残らないんですよね。
そういうのは、たぶん現代の感覚では「クラシック」とは言わない。
後世に残ってこそクラシックというのは、感覚としてうなづけます。
こんばんは。
クラシック音楽の定義はとりあえず置いといて、本質って何でしょう。
本質という言葉の意味がこの年になっても未だによくわかりません。
元理系崩れで文系に逃げようとしても文系もからっきしダメです。
おバカな質問で失礼しました。
Hiro.MTBさん
そもそも、モーツァルトにしてもベートーヴェンにしても、当時は作曲家としてよりも演奏家としての名声の方が高かったそうですからね。でも録音の無かった当時、彼らの演奏家としての凄さは、今の我々には分かりません。なんとも残念です。
tetsuさん
本質と言うのは“根本にある性質”の事ではないでしょうか? “その物を形作る様々な要素の底の底に存在する他を以て代えがたい何か…”とかね。
まあ、突き詰めて考えると、哲学になってしまうので、私はそんなに深くは突き詰めて考えようとは思いません。いやあ、だって哲学は面倒だもの(笑)。