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クラシック音楽は、やっぱり王侯貴族の趣味なんだな

 クラシック音楽と言うのは、本来は王侯貴族の楽しみです。彼らが自分たちの食事時や宴会時のBGMとして(今で言う)室内楽を演奏させていたのが、そもそもの演奏形態なのです。ですから、作曲家や演奏家も、お屋敷に勤める使用人の一人であって、音楽演奏を専門に働いている御家来衆の一人に過ぎませんでした。

 つまり、当時の音楽(今で言うクラシック音楽)って、王侯貴族の独占物であって、庶民たちはその存在は知っていても、楽しむ事はできなかったわけです。

 で、市民革命があって、王侯貴族たちの特権や贅沢が開放(解体?)されました。そして、王侯貴族の規模縮小&没落に合わせて、音楽家たちは失業し、フリーな存在になりました。

 王侯貴族に変わって、世界の主役になったのが市民たちですが、市民たちには王侯貴族のような経済力はなく、音楽家たちの生活を丸抱えする事ができませんでした。その代わり、演奏会ごとに(チケット代という形で)賃金を支払う(一種の)アルバイトとして彼らを雇うようになりました。

 しかし、王侯貴族たちが楽しんだ室内楽という演奏形式では、客の数も少なく、チケット販売枚数なんて、たかがしれたものです。そんな少額では、音楽家たちの生活を支えることは難しいのです。

 そこで発展していったのが、音楽ホールとオーケストラなわけです。つまり、広い会場にたくさんの市民を集めて、大きな音で演奏することで、一回の演奏会で多くの観客を動員して、演奏会の収益をなるべく大きくしましょう…って事です。

 つまり、チケット一枚の値段はそんなに高くできないけれど、観客の数を増やすことで、全体の利益を確保しようとしたわけで…つまり、音楽の薄利多売が始まったわけです。

 それでも、音楽ホールに集められる人数なんて、たかが知れているわけです。オーケストラが出せる音量にだって限界はあります。だから演奏会は頻繁に行われたわけだし、音楽家たちはツアーを組んで、当時の世界をくまなく旅して演奏活動をしていくしかありませんでした。

 そんな苦労を重ねても、一度始まった音楽の薄利多売商法は、とどまることがありませんでした。多く稼ぐためには、たくさん演奏するしかないのです。

 やがて電気が発明されると、電力を使った音楽ビジネスが始まりました。

 まずはP.A.システムの導入です。つまりマイクとスピーカーの使用です。これによってさらに大きな音楽ホールでの演奏が可能になり、現在のようなアリーナ公演が可能になったわけです。

 次に楽器の電気化&電子化が行われました。楽器を電気化&電子化することで、演奏に必要な音楽家の数を減らす事でできるようになりました。やがて録音技術が発達してレコードが作られるようになると、生演奏の必要がなくなり、音楽家は演奏旅行をせずとも、音楽そのものがパッケージ化されて世界中で販売されるようになり、さらにさらに薄利多売が進んでいったわけです。

 そのレコードが、やがてCDやDVDに変わり、現在のようなネット配信になっていったわけです。

 つまり我々が聞いている音楽と言うのは、薄利多売できるようにアレコレ工夫を重ねた末の音楽だったりするわけです。まあ、我々は王侯貴族ではありませんから、王侯貴族のような楽しみを味わうためには、どこかで妥協しないといけないわけで、それがホール演奏だったり、ネット配信だったりするわけです。

 ポピュラー系音楽のように、薄利多売システムを前提として発展していった音楽は、まあ良いとして、クラシック音楽というのは、薄利多売の始まる前とか、最初期の段階で発展していった音楽だったりするわけです。

 そもそもが生演奏を前提とした音楽ですから、それを録音で聞くのが普通となった現在では…採れたてピチピチの食材と、缶詰やレトルトの食材が違うように、ちょっぴりあっちこっちが違っているわけです。

 ざっくり言っちゃえば、録音される前提の無いクラシック音楽を、録音して聞けば、そりゃあアレコレ違うよって話です。

 「だからどうした!」と言われれば「いや、別に」としか答えられない私ですが、でも録音された音楽って、そんなもんだなって思っている私なのです。つまり、録音された音楽ってのは、薄利多売向けの廉価版の音楽…なんだなあって思っている私なわけなんです。

 そんな薄利多売向けの廉価版演奏であっても、楽しめないわけじゃありません。音楽作品の良さが分からないわけじゃないし、演奏家の素晴らしさが分からないわけじゃありません。でも、音の美しさは…分からないよね。どれだけ素晴らしい録音技術で収録しても、生演奏にはかないません。演奏された音には、録音できない音や再生できない音、収録できない空気の振動というのが含まれており、それがまたその音の美しさを際立たせていたりします。

 さっくり言っちゃえば、ヨナス・カウフマンの録音された歌は素晴らしいけれど、彼の生歌は素晴らしい上に美しいのです。そういう事です。

 そう考えると、やはりクラシック音楽は、やっぱり王侯貴族の趣味なんだなって思います。

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コメント

  1. tetsu より:

    ご無沙汰しています

    > クラシック音楽と言うのは、本来は王侯貴族の楽しみ

    何故ここから始まるのか、ビックリです。

    音楽史のwiki
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E5%8F%B2

    では意味不明のところも多々ありますが、グレゴリオ聖歌とか、ギヨーム・ド・マショー以降は音源もたくさんあって聴きやすいです。
    音楽は「のだめカンタービレ」にもあった調和、とおもいます。

    ここから引用

    音楽の本質は「調和」にあるのだ
    それを表現するのが、真の「音楽家」なんだ
    「調和(ハーモニー)・・・」
    「それって、たしか・・・ボエティウスやグイード・ダレッツォが言ってたことだと思うけど」
    「1500年くらい前は 神の作った世界の調和を知るための学問が 天文学 幾何学 数論 音楽 だったんだ」
    「本来音楽(ムジカ)とは調和の根本原理そのものを指していて」
    「理論的に調和の真理を研究することが「音楽」だった」
    「中世では その音楽理論を熟知して「理性の力によって作品全体に対し入念に音楽を判断できる人を「音楽家(ムジクス)」といって ただ音を歌ったり演奏したりする人を「歌い手(カントル)」といった」
    「カントル・・・?」
    「「カンタービレ」の語源だよ」
    「へぇー」
    「森羅万象 宇宙の魂」
    「気が遠くなっていい・・・」
    「オレなんか まだまだ小さいことくらい わかっている」

    失礼しました。

  2. すとん より:

    tetsuさん

    >何故ここから始まるのか、ビックリです。

     いやあ、素人なんだし、根拠も裏付けもなく、好きなところから勝手に話しているだけのです。ビックリさせちゃって、ごめん。

     音楽に限らず、ニッチな世界のニッチな歴史って、辿ってみると面白い事が多いです。音楽史も、もちろん、きちんと学べば楽しいんだろうなあって思います。

     実はこの記事、私の言いたい事は「録音じゃ音楽の素晴らしさは分かっても、美しさはよく分からないんじゃないの?」なんですけれど、そこに至るまでの前説が長すぎましたね(汗)。どっちが本論なんだか分からなくなってますが…それも素人の書いているブログですから、アリっちゃあアリなんです。

  3. Hiro.MTB より:

    お久しぶりです。

    「生演奏と、録音の演奏」
    置き換えると、
    「新鮮な桃と、桃の缶詰」

    桃の缶詰、大好きです(笑)。

    キズもあったり賞味期限が短かったりするかわりに
    新鮮でみずみずしい生ものも良いですけど、
    キズを取ったり食べ易く加工し、いつでも同じ条件で
    楽しめる(寿命の長い)工業製品も良いですね。

  4. すとん より:

    Hiro.MTBさん

     桃に関しては、生の桃よりも、桃缶の方が好きかも(笑)。

     桃缶は美味しいです。それもとっても美味しいです。もしかすると、生の桃よりも美味しいかもしれません。でも、それゆえに、生桃と桃缶は違います。むしろ、全然違うとも言えるでしょうね。

     昨今の音楽の録音は、かなりの修正や化粧直しが施されているそうです。実際、ミスっている箇所や不安定な箇所は、そうでないテイクの録音と部分的に差し替えるのは普通ですし…。もしかすると、生の演奏よりも、よっぽど素晴らしい仕上がりになっている演奏家もいないわけじゃないかもしれません。

     ポピュラー系の(若い女の子の)歌手の中には、録音だとバッチリ歌えているのに、舞台ではヘロヘロだったり、耳をふさがんばかりの音痴だったりという事は…たまにありますね。

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