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上手いはずなのに、上手く聞こえないのは、なぜ?

 先日、知らない人たちの声楽発表会に行きました。

 その門下の人たちは、みな、いわゆる難曲と言われる歌曲やアリアに挑戦していました。また、その歌唱も特に破綻もなく、高音はきちんと発声し、コロラトゥーラも軽々と転がして歌い、難しいリズムも乱れることなく歌いきっていた人たちがほとんどでした。

 技術的には、アマチュアとしては、実になかなかのモノだったと思います。私なんか、到底、足元にも及ばないくらい見事な人たちばかりでした。

 でもね、それなのに、誰ひとりとして、客席で聞いていると「上手だなあ…」とは思えなかったのです。はっきり言っちゃえば「なんか…物足りない」って感じてしまいました。妙に小さくまとまっていて、アマチュアの熱い魂も抜けちゃったような歌唱だったんですよ。

 それこそ…上手いはずなのに上手く聞こえないのは、なぜ?…って感じだったのです。

 聞きながら、私もあれこれ考えました。

 会場は、音響の良さでは有名なホールでした。以前も、別の団体のアマチュアさんの発表会を聞きましたが、その時は皆さん、ホール全体に響くような声で歌っていました。でも今回は、聞こえないわけじゃないけれど、ホールに声が響いていなかったような気がします。つまり、音量不足かな? でも、それだけじゃないんですよ。

 妻が言うには「私がY先生のところで“やっちゃダメ”と言われている事を全部やっているような感じがする…」と言ってました。確かにそうかもしれません。声が、ほぼ“近鳴り”だったかもしれません。過剰に感情を入れすぎて、声がノドに来ている人も多かったです。声が散らかった印象もありました。

 つまり、楽譜通りには歌えているけれど、楽譜には書かれていない部分では音楽的…とは言えない歌唱だったのかもしれません。

 まあ、まずは楽譜通りに歌えることって、大変な事ですし、これってスタートですよね。私なんて、まずは楽譜通りに歌うことを目指して練習しますし、楽譜通りには歌えないまま、本番を迎えることだってあるわけです。だから、楽譜通りに歌えることって大切です。

 問題は、+αの部分ですね。つまりは、声。音色の問題です。声が美しくなかった。だから、いくら楽譜通りに歌っても、上手に聴こえなかったわけです。

 ちなみに、その発表会、最後に先生と言われる人が出てきて歌いましたが…上手だけれど、感動しなかったなあ…。

 結局、生徒って先生に似るものなんだなあって思った次第です。

 一番良いのは、技量的にも高い水準にあり、人々を感動させられる歌唱なのですが、技量と感動と、どちらかしか得られないとしたら、私は技術的に不足があっても、人々を感動させられる歌を歌えるようになりたいです。だってアマチュアだもの。上手い歌ならプロの歌を聞けばいいんだからサ。

 ある意味、今回の発表会は、私の思いとは真逆の教室方針の発表会だったわけです。ま、声楽教室にも、色々あるよね。

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コメント

  1. ドロシー より:

    すとんさん、こんにちは。
    私もアマチュアなので、よく「技量がなくても感動させられる歌を目指しなさい。」とは言われます。
    でも、他人の歌を聞いても「技量がなくても感動させられる歌」って、まだ聞いたことがないです。
    結局の所、「技量を見せつけなくても感動させられる歌」を歌うのも技量のうちの一つなんだろうなって思います。
    せいぜい、「もうちょっと、身の丈に合った選曲しようよ。先生も無責任だな」って思うくらい・・・
    逆に「技量があっても感動させられない歌」については、コロラトゥーラのアマチュアさんに多いような気がします。
    ただ、本人は「くどくならないように、客観性を失わないように心掛けています」と言っているので、そういう主旨でやっているのだろうな、ってところです。

  2. すとん より:

    ドロシーさん

     まあ、コロラトゥーラと言うのは、声種の名称であると同時に、声楽技法の名称でもあるわけで、コロラトゥーラの人たちにとって、技量があるのは前提だからねえ…。単に高音が出るけれど、声を転がせなければ、レジェーロって呼ばれちゃうわけで、レジェーロとコロラトゥーラを分けるのは、その歌手の技量だけだもの。

     逆に言うと、技量を見せつけられないのなら、コロラトゥーラと名乗っちゃいけないのかもしれません。なので…

    >「技量があっても感動させられない歌」

     …を歌う人は、ひとまずスタートラインには立っているわけで、後はそこから、どう表現を加えていくかって話になっていくのだと思います。

    >「くどくならないように、客観性を失わないように心掛けています」

     あー、確かに、技量だけで感情がこもっていないコロラトゥーラは“くどい”なあ。そこで客観性か…。それもありだけれど、私なら、その客観性を忘れるほど、役に没入する方法で行くと思います。

     結局、コロラトゥーラって“狂気”を歌う声なんだから、どれだけ弾けられるかが勝負かなって、個人的には思ってます。

  3. アデーレ より:

    転がせないレッジェーロ。ハイ、私(笑)
    そう、コロのテクニックあっても、感動となると、やっぱ美声でないとね〜。。叫んだ煩いってなっちゃうからさー。日本人はレッジェーロばかりだし、しかし、アマチュアでもしっかりしたいいレッジェーロはそんなにはいないかもね。。ただの軽い声だと感動は呼べないよなぁー困!

  4. すとん より:

    アデーレさん

     美声というのを、改めて言葉で定義しようとすると難しいです。確かに“ただの軽い声”では感動が呼べないのは、当たり前。+αが必要。じゃあ、その+αは何?って話ですよね。

     たぶん、見栄とか虚栄とかとは反対の感情を、声に載せていく事かなって思います。かっこよく言うと「自分をさらけだす」事なんだろうけれど、アマチュアのオジサンオバサンが、素の自分をさらけ出したって、見てる側からすれば、単に不快なだけで、さらけだす自分にも、ある種のフィルターをかけておかないいけないと、思います。見せていい自分と、見せちゃダメな自分があるんだと思います。

     そうなると、ある種の演劇性って事に落ち着くのかな? 声に載せる演劇性ってのも、言葉としては分かるけれど、実際にそんな事をすると、かなり臭くなるよね。それこそ、あざとい?

     感動を呼ぶには美声が必要というのは分かったけれど、じゃあ美声って何って言われると、なかなか答えられないです。

  5. mee より:

    管楽器ですが。
    ついつい、テクニックを追ってしまいがちになります。
    だって、カッコイイんです。
    けれど、ある師曰く「基礎や音作りや歌を先に」と。
    テクニックは後でついてくるそうです。
    (もちろん持って生まれたものや平素の練習も必要ですが)

    下手くそでも、ついつい聴いてしまう演奏って時々あります[E:shine]
    上手にできる人は、私以外にも代わりはゴマンといるんです。
    今まで生きて来た積み重ねの泣いたり笑ったり…の、現在の私を音楽に載せるのがいいと思っています。
    それを感じ取った聴く人が、その時の波長が合い、琴線に触れる事が出来た時、感動してくださるのだと思っています。
    もしも、万が一不細工な仕上がりであっても、今日の自分はミルフィーユのように年輪を重ねた「ご飯食べて寝て、ご飯食べて寝て、泣いて笑って」の自分。
    その不細工さを「どうです?不細工でしょう?」ってさらけ出す(笑)
    心当たりがある人は、反応してくれたりする。
    音楽の師匠というのは、さらけ出し方を教えてくださいます。

  6. すとん より:

    meeさん

     指なんて練習すれば誰でも出来る様になるんだよ

     これはH先生がよく言う言葉です。指は大切だけれど、指よりも音に気をつけなさい。いつでも、美しい音で吹きなさいと先生は言います。

     実際に、簡便な初心者向けの編曲の曲だって、美しい音で演奏できれば、十分に聴きごたえがあるわけです。

     じゃあ、その美しい音ってのは、何?って話です。単なる美音ではないと私は思います。美音+αかなって思います。その+αの部分に、その人の、人格とか人生とかが載っかってくるのではないかと思ってます。そういった点ではmeeさんと同意見な私です。

     じゃあ、具体的に音に人生を載せるのって、どうやるのか…ここが、難しい難しい。

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