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やっぱり歌は声なのか!

 先日、趣味の“見知らぬ人の発表会を聞きに行く”って奴をやりました。

 あるテノールの方が、ヴィヴァルディのテノール・アリアを歌っていました。実に見事。声質も一般的なテノールのイメージとは違っていて、まるでカストラートが蘇ったような、なんとも中性的な音色の声でした。歌唱技術的にも素晴らしくて、一発で、このアリアとその歌い手さんに心を奪われました。

 二曲目は、方向を全く替えて、ヴェルディのオペラ・アリアでした。一曲目のヴィヴァルディに感服した私は、この人がヴェルディをどう料理するのか、そりゃあもう、ワクワクして待っていたんです。ヴィヴァルディをあんな感じで素晴らしく歌ったのですから、時代も様式も全く異なるヴェルディでは、どんなアプローチがされるのか。ほんと、楽しみでした。

 で、ヴェルディになったのですが…声も歌い方も、全く変わりませんでした。

 ある意味、拍子抜け? だって、中性的な澄んだ声でラダメスですよ? 私はとっさに『カストラートのアレッサンドロ・モラレスがラダメスを歌ったら、もしかするとこんな感じになるんじゃないの?』って思ったくらいです。

 ヴィヴァルディもヴェルディも、まったく同じ声で、同じテクニックで歌い切りました。つまり、私を魅了したヴィヴァルディの時の歌声は、発声テクニックによるモノではなく、彼の持ち声だったわけです。

 二曲とも、上手いか下手かと問われれば、上手い歌唱だったと言えます。好きか嫌いかと尋ねられた『ヴィヴァルディは好き、大好き、惚れた』のですが、ヴェルディは『正直、勘弁して欲しい』と思いました。それは私がヴィヴァルディのオペラに関しては無知であり、それ故、純粋に“歌”として楽しめたからですが、ヴェルディのオペラに関しては、かなり聞いていて、私なりに“理想の歌”があり、その理想型から、あまりに彼の歌は離れていて、むしろ異質な感じすらあったからです。

 たぶん、そんな事は私が指摘しなくても、彼自身、よく分かっているんだろうと思います。それでも、歌いたかったんだろうなあ。で、歌ってみて、それはそれで良かったと思いますよ。単純にヴェルディは私の趣味ではないってだけで、歌唱としては、きちんと成り立っていたもの。実際、会場でのウケは、素晴らしかったです。オペラうんぬんを抜きにすれば、アレはアレでアリなんです。

 さて、ヴェルディはさておき、ヴィヴァルディは素晴らしかったです。本当に素晴らしかった。そして、あの素晴らしさは、彼の声に起因するわけで、あの声が、おそらく天性のモノであるならば、歌を勉強するって、どういう事? とか思ってしまいました。

 と言うのも、テクニックは磨けるけれど、声は、その人の持ち声の範囲でしか歌えないじゃない?

 極端な話、私がテクニックを磨きに磨いて、ほぼソプラノと同じ音域の声を手に入れたとしても、私は男性だから、その声はあくまでも「異常に甲高い男声」でしかなく、同じ音域であっても、耳で聴けば、女声とは全く違うわけです。それこそ、クチとかアゴとかを整形手術して、小振りに作りなおして、女性ホルモンでも注射しまくれば、女声に聞き間違えるような声で歌えるかもしれないけれど、それはなんか違う気がするわけです。

 所詮、男声はどう磨いても男声なんです。

 そこまで大げさに極端な例を出して、女声との比較で考えなくても、テノールの中にだって、色々な種類のテノールがいるわけです。

 私は、どう考えても、ヴィヴァルディを人前で歌えるような声じゃないもんなあ。ヴィヴァルディのテノール・アリアなら、本来は、私が感服した彼のような中性的な声でなくても良いのだけれど、それでもかなり軽くて、どこか天使の歌声っぽい感じが必要になりますが、私の声はどう考えても、そういう方向の声じゃあ、ありません。まあ私自身は、どうしてもヴィヴァルディを歌いたいと願っているわけではないから、それはそれでいいのだけれど、もしも「私はどうしてもヴィヴァルディを歌いたいんだ!」と願ったら、どうするんだろう? 私の声じゃあ、ヴィヴァルディは絶対無理なのに…。

 そう考えると、持ち声って大切だなって思うし、自分の持ち声を知るって事は大切なんだろうな?

 ところで、私の持ち声だと…どのあたりがいいんだろ? キング先生にはバリトン転向を命じられた私ですが、Y先生に言わせると、まだまだ私は自分の声で歌えていないけれど、きちんと発声が確立すれば、かなり軽くて高い声になるんだそうです。でも、だからと言って、レッジェーロというほどではないそうだから、軽めのリリコって感じかもね。

 まあ、声質の心配はとりあえず横に置いて、まずはきちんと自分の本来の声で歌える事が先決であって、レパートリーうんぬんは、もっと後の話になるんだろうと思います。とにかく、まだまだノドに力が入っていて、不必要に重い声になっているんだそうです。

 まともに歩けない人間が、歩くよりも先に走りだす事を考えるのは、本末転倒なわけで、私の歌なんて、まさにそんな状態なんだろうと思ってます。

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コメント

  1. のんきなとうさん より:

    こんばんは。
    たしかに、声質と、それに適する歌、つまりレパートリーというのは人それぞれありますよね。

    でも、今自分がそうなのですが、正しい発声を身につけていく過程で、どんどん声が変わっています。浅い、薄っぺらい声から、深みとツヤのある声へ。ニセモノテノールから、テノール・レッジェーロへ。自分のもつ本来の声がどんなものなのか、それに近づいているようで楽しみです。
    最近、「アッポッジョ」ってこういうことかな、とニュアンスが、ほんの入り口が分かって来ました。
    「息を吸う」動きで「息を吐く」、「低音を出す」動きで「高音を出す」。相反する動きがせめぎあい、はじめてその人らしい声になるようです。(なんのこっちゃ)

    私の娘も、高校生らしいカン高い浅い声から、4年の音大生活でソプラノ・リリコっぽく深いツヤが出てきました。

    すとんさんもこれからではないでしょうか?楽しみですね。

  2. アデーレ より:

    今日のテーマも興味深いです!声楽って、やっぱり、持ち声ありき、なんでしょうかね…

    ただ、生まれつき美声でなくとも訓練?により、より共鳴する声になる事は可能ですよね!凄い共鳴する声って、本当に心地よいですよ

    ある意味、美声であっても訓練されてない美声はへらべったい声のままで人を感動に導く程ではないかもしれません。

    ある方でメゾソプラノで凄い共鳴する声を聴きました。それまでソプラノより低い声、または、鈍い響きがメゾという認識でしたが、その方は素晴らしくてビックリしました!ソプラノだけど、あまり響かないへらべったいソプラノの私はまだまだ勉強しなければいけない、ということですね…!うーん、気を長くして頑張らないと!!

  3. すとん より:

    のんきなとうさん

     私は今頃、声がガンガン変わってきてます。前の先生のところでは“声量自慢”な私でしたが、今の先生に変わってから、声量よりも声質の方に重点を置いて歌うようになりました。と言うか「大声は要らないよ」とレッスンのたびごとに言われ続けてます。

     でも、声の音量ではなく、声質に重点を置いて練習すると、声の響きが増えるだけでなく、音域も広がるし、結果として、声がより遠鳴りになるので、単純な大声自慢よりも、ずっとずっと音楽的であり、実用的かなって思います。

     まあ、なんにせよ、これからだなって思ってます。

  4. すとん より:

    アデーレさん

    >生まれつき美声でなくとも訓練?により、より共鳴する声になる事は可能ですよね!

     そうだろうと思うし、そうであって欲しいと願ってます。

     やっぱり持ち声の良し悪しってのは、絶対にあると思うんです。最初から美声な人っているもん。でも、響きは練習をする事で増やして行けますから、より共鳴する声になっていくはずだと思ってます。

     あと、これは私感ですが、低い声ほど響きがつきやすいような気がします。そういう意味では、高音歌手って、高みをついつい目指しますが、本当は、意識的に深みを目指さないといけないんだろうなあって思います。

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