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なぜ“高音の無いソプラノ”はテノール用の歌を歌いたがるのか?

 オペラのアリアはともかく、歌曲に関しては、どの曲をどの歌手が歌おうと、それは自由というのが、業界の不文律であって、だから歌曲に関しては、自分の声に合う曲を選んで歌っていくのが大切ですし、曲自体の調性も歌手の声域に合わせて、自由に移調して歌うのが常となっています。

 …と言うのが、歌う側の理屈ですが、作曲する側からすれば、自ずと違う理屈となるわけです。

 器楽をメインに活躍している作曲家はともかく、声楽曲の作曲をメインにしている作曲家は、作曲をする時に、当然、その曲を歌う歌手の事を考慮した上で作曲をします。多くのオペラアリアが、当時の名歌手を対象とした当て書きである事からも、それは分かります。つまり、オペラアリアは歌う歌手の声種を決め打ちにして作曲されているのです。

 自由に移調して歌って良いとされている歌曲だって、作曲家的には、歌ってくれる歌手の事を考えて作曲されています。つまり、オペラアリア同様に、本来は、歌う歌手を念頭に置いて、声種を決め打ちにして作曲されているのです。

 だから、はっきりと明記したりしなかったりの違いはあっても、すべての歌曲は、特定の声種を前提に書かれていると思うべきなわけです。

 はっきり言っちゃえば、大抵の歌曲はソプラノが歌うことを前提に書かれています。と、言うのも、作曲家って大抵男性だから、女性歌手のために歌を書きたがるわけです。まあ、下心が無いわけでもないんでしょうね。

 大半の歌曲がソプラノ向けに作曲されているとしても、すべての曲がソプラノ向けに作曲されているわけではありません。

 例えば、カンツォーネなどの求愛の歌は、男性歌手、とりわけテノール向けに書かれています。

 イタリア近代歌曲と言えば、トスティがあげられますが、トスティは今で言うシンガーソングライターのはしりのような存在で、彼自身がテノールでしたから、どうしてもテノール向けの曲ばかりが残っているわけです。

 シューベルトの歌曲も、その大半は、ヨハン・ミヒャエル・フォーグルという歌手を念頭に置いて書かれているわけで、フォーグルが“テノールの音域とバリトンの音色を持った歌手”だった事もあり、おそらく彼は現代風に言うなら“スピント・テノール”だった事からも、シューベルトの多くの歌曲は、テノールを念頭に書かれているわけです。

 イタリア古典歌曲は…そもそもが昔のオペラアリアでカストラートを念頭に置いて書かれている曲が多くあります。カストラートの曲を誰が歌うべきかは…これはこれで大きな話になってしまうので、ここでは書きませんが、カストラートが現存しない以上、誰が歌っても良いわけで、ある意味、例外的な曲集と言えます。

 と言う訳で、歌曲と言えども、その大半はソプラノ用の曲であり、それ以外の曲は…と言うか、残りのほとんどがテノール向けの曲であり、それ以外の誰が歌ってもよさそうな曲が、いくつかあるくらいなのです。

 で、ここで標題の「なぜ“高音の無いソプラノ”はテノール用の歌を歌いたがるのか?」に戻るわけだけれど、高音の無いソプラノにとっては、ソプラノ用の曲を歌うのは、案外ツラいのです。と言うのも、ソプラノ用の曲って、音程の平均値が高く、高音がバリバリ使われるのです。

 一方、男性歌手を念頭に置いて書かれた曲は、中音域をメインに作曲され、高音はさほど使われません。せいぜい、サビ(?)で使われる程度であり、これは高音のないソプラノにとっては、まさにうってつけとなるからです。特にテノール用の曲なら、数はソプラノの曲と比べると圧倒的に少ないとは言え、魅力的な曲がたくさんありますし、音域的には1オクターブの違いはあっても、テノールとメゾソプラノの音域はほぼ一緒なので、そういう意味からも、高音のないソプラノにとって、テノール曲は歌いやすい曲なので、結果的に、歌いたがるように見えるのだと思われます。

 でも、いくら歌いやすいからと言って、女性は求愛系の曲を歌うべきではないと、個人的には思います。サキュバスじゃないんだからサ。

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