スポンサーリンク

なぜ外国語で歌うのか

 クラシック声楽曲の大半は、外国語の歌です。実際、日本歌曲以外の歌は、当然ですが、外国語の曲です。

 そして、そんな外国語の曲を、大抵の歌手は、外国語のまま歌います。日本語に翻訳して歌っても良いようなものなのに、なぜか外国語の歌詞のまま歌います。

 それはなぜでしょうか? 聞いている観客の大半は日本人なんだし、歌っている人も日本人なら、日本語に訳して歌った方が互いに歌の内容を理解できるだろうに、それをせずに、外国語のまま歌ってしまうのは、なぜでしょうか? 主な理由として、私は2つの理由を考えてみました。

 1)作曲家がその言語で作曲したから
 2)言葉は音色。それを多言語(この場合は日本語)に訳してしまったら、音色が変わってしまうから。

 1)は作曲家のオリジナリティを尊重しているからです。例えば、シューベルトが歌曲を作曲した時、元の詩を尊重し、それに寄り添って作曲したと考えられるので、その歌曲から歌詞だけを切り離して、翻訳して、別の歌詞にして歌うというのは、そもそものシューベルトの作曲意図から離れてしまうので、作曲家のオリジナリティを尊重して、原曲のまま、歌詞を翻訳せずに歌うべきだからです。

 まあ、これに対する反論としては「歌詞を尊重するのは分かる。ならば調性についても尊重すべきだろう。それなのに、簡単に移調して、歌手の音域に合わせて歌うのは、作曲家のオリジナリティを尊重していると、言えるのだろうか?」というのがあります。まあ、そうだよね。

 それと、歌詞は言葉で出来ていて、言葉には意味があるわけです。作曲家のオリジナリティを尊重するのは良いとしても、歌詞の意味が観客に理解してもらえないのは、作曲家の作曲意図を酌んでいるとは言えないのでないか…とは考えられませんか? ならば、歌詞を翻訳し、観客に歌詞の意味を伝えることも、別の意味で作曲家を尊重している事にはなりませんか?…と考えることもできます。

 これに対しては、音楽に言葉は必要なのか? という命題が出てきてしまいますし、意味が分からないのがダメなら、言葉の無い器楽曲は、音楽として不十分なのではないかと言えるのかもしれません。でも、そんな事無いですよね。

 結局、旋律の美しさを優先するなら、言葉の意味は二の次三の次であって、ならば歌詞の意味は分からなくても、原語のまま歌うべきだし、そもそも原語のままでは歌詞の意味が分からないような観客は、分からないまま、ありがたがって聞いていればいいじゃないか…という、上から目線の意見を言う事だってできます。

 特に日本のクラシック界って、専門家ぶって観客を下に見ている傾向がないとは言えませんからね。

 もっとも、現実問題として、クラシック声楽曲を日本語に翻訳して歌いたくても、良い翻訳詩が存在していないという、実情もあります。良い翻訳詩がないから、原語のまま歌うしかない…のかもしれません。

 私の個人的意見ですか? 歌う側から言わせてもらうと「原語のまま歌いたい」です。だって間違えても客に分かんないし、原語のまま歌った方がなんとなくカッコいいし、何より日本語で歌うのは外国語で歌うのよりも数倍難しいからね。

 でも聞く側の意見としては、日本語で歌ってもらった方が絶対にうれしいです。だって、何歌っているのか分かった方が絶対にいいです。百歩譲っても、せめて原語で歌うなら、字幕ぐらい出して欲しいです。その字幕は日本語訳は当然として、原語詩も一緒だと良いなあ…って思うけれど、歌う側からすれば、絶対にそんな事してほしくないです(笑)。

↓拍手の代わりにクリックしていただけたら感謝です。
にほんブログ村 クラシックブログ 声楽へ
にほんブログ村

コメント

タイトルとURLをコピーしました