音程と言うものは、最初からきちん取れる人に取っては、やり方も何もなくて、思うだけで、正しい音程で歌えるもので、最初から正しく取れない人にとっては、誰からもそのやり方を教えてもらえず、色々と試行錯誤をした結果、音痴の烙印を押されて、自分は歌えない人間なんだと諦めてお終い…って感じなんだろうと思います。
小さな子どもの頃から、きちんとした音楽教育を受けた人なら、ピアノも弾けるだろうし、歌だってリズムや音程を正しく歌うことは、なんでもないことでしょうし、おそらくは絶対音感だって持っているはずです。で、そういう人が、いわゆる音楽教師になるわけです。
一方、音痴と呼ばれる人、あるいはそこまでいかなくても、音程が不安定な人と言うのは、幼少の頃に、音楽の専門教育を受けたこともなければ、音楽に親しむ生活でもなかったと思います。そういう人が、ある程度の年齢になってから、歌を歌おうと思っても、周りにはすでに上手に歌える子がたくさんいるわけで、その子たちと自分を比べて、萎縮してしまい、結局、オトナになっても正しく歌えないままだったりするわけです。
今回、この記事で対象としているのは、そういう『歌いたいと思ったけれど、歌えないままオトナになってしまった人』が対象です。
さて、そういう人たちが、一念発起して歌を学ぼうと思って、ヴォーカルスクールとか、カラオケ教室とか、クラシックの声楽教室に行っても、そんなに歌が上手になる事はなかったりします。何年も習っているのに、一向に音程正しく歌えなくて悩んでいる…なんてザラだったりします。
で、音程正しく歌えない事を「私には音感がないからだ」と結論づけたりします。
まあそういう人は、確かに絶対音感は持っていないだろうし、相対音感だって、かなり怪しいものだろうと思いますが、だからと言って、それで“音感がない”とは言い切れないと私は思います。なぜなら、そんな人だって、歌を歌おうと思った以上、音楽を楽しめる人だからです。音楽が楽しめるという事は、音楽を聞いて感じているわけで、それをうまく歌として表現できないだけで、聞く方はそれなりにちゃんとしているはずです。いや、ちゃんとしていなければ、楽しめるはず、ないんです。
だから、音楽を楽しめる人に、本来、音痴はいないはずだし、音感が無いはずないんです。
なので、音程が不安定な人に対して「ソルフェージュを学びなさい」と指導する指導者さんって、何も分かってないダメ教師なんだと思います。
ソルフェージュって、本来は正しく楽譜を読み書きするための能力を育てるための勉強であって、百歩譲って音感を養う訓練だとしても、音程正しく歌えるようになるための勉強ではありません。これって「僕は足が遅いので、速く走れるようになりたいのです」という相談に対して「じゃあ、ロッククライミングをやってみると良いよ」と薦めるくらいに、頓珍漢なアドヴァイスだと思います。まあ、ロッククライミングをやっても、全身の筋肉は鍛えられますから、多少は速く走れるようになるだろうけれど、最初から短距離走の練習をする事と比べたら、なんとも遠回りのアドヴァイスだろうと思います。
それにいくら耳を鍛えても、音程正しく歌えるわけじゃないんです。一番分かりやすい例が、楽器の名手とか、作曲家の中にも、実は音痴とか音程が不安定な歌しか歌えないという人がいるんですよ。つまり、音程に関しては、インプットの問題とアウトプットの問題を、きちんと分けて考えなければいけないってわけです。
では、音程が不安定な人に対して、何とアドヴァイスをするべきでしょうか?
もうここまで書けばお分かりでしょう。それは簡単です。単に「正しい発声で、丹念に音階練習をしなさい」って事に尽きるでしょ。音階練習だけじゃ物足りないなら、それにコールユーブンゲンとかコンコーネなどのエチュードを加えてもいいです。とにかく「正しい発声方法で歌を学ぶのにふさわしい歌を歌いましょう」って事です。簡単すぎて、申し訳ないほどに、簡単なアドヴァイスです。要はアウトプットの訓練をしましょう、って事です。
でもこのアドヴァイスが、見かけほど簡単ではない事もすぐに分かると思います。
で、話は冒頭に戻りますが、なぜ、ヴォーカルスクールとか、カラオケ教室とか、クラシックの声楽教室に行っても、歌が上達しないのかと言うと、そこでは正しい発声を学ぶ事が少ないからです。もちろん、良い教師にめぐり合えて、正しい発声を学べた人は幸せものですが、そういうところに勤務する先生たちは、先生と名乗っていても、実は皆、無資格者ですからね。玉石混淆なわけで、指導力のある人もいれば、さほど無い人もいるんです。また立派な経歴の持ち主であっても、自分の才能だけでのし上がってきた人などは、他人にモノを教える事自体が苦手だったりします。
できる事と教える事は全くの別物なんです。名選手だから言って、名コーチになれるわけではないのです。
だから、その手の学校に行ったとしても、なかなか上達しないのは、ある意味、当たり前だったりします。
正しい発声法と言うのは…細かく見ていくと歌のジャンルごとに多少のメソッドの違いはあるにせよ…(一部の邦楽を除いて)決して、ノドで歌うことを良しとはしません。なぜ、ノドで歌うのを良しとしないのかと言うと、ノドで歌うと、歌い手の意図と反して、音程が下がり、音程のコントロールが難しくなるからです。
たいていの音痴って、ノドが締めつけられたような声で歌うでしょ? つまり、そういう事なのです。正しい音程で歌いたければ、まずは、ノドを脱力しないといけないのです。で、これがまた、我々日本人には難しいのです。きちんとしたメソッドで、正しく導かれない限り、うまくできないのです。
なぜなら、我々のDNAには「歌うときは、しっかりノドにチカラを入れて、締めつけて歌う」というやり方が刻み込まれているからです。
詩吟とか義太夫とか、いわゆる“邦楽”はノドにチカラを入れて、しっかりと締めつけて歌うもの…と言うか、唸るものでしょ? それが私たちのDNAに刻み込まれているので、きちんと学ばない限り、なかなかノドを脱力して歌うのは難しいんです。
良い歌の先生は、生徒にきちんとノドの脱力を教えられる人であって、ダメな先生は、生徒にノドの脱力を教えられない人です。ましてや、脱力どころか、しっかりノドを鳴らす事を教えちゃう先生は、生徒を壊してしまうダメダメ教師だと、私は思います。
なので、まずはノドを脱力して歌えるようになる事が、正しく音程を取るための第一歩です。もちろん、これは第一歩なだけで、それだけでは、正しい音程では歌えません。だから“丹念に音階練習する”必要があるのです。
結局、歌もスポーツと同じで、肉体を使って行う一連の作業です。正しい動きを何度も何度も行って、筋肉と神経にそれを覚え込ませて、それらが無意識でできるほどに鍛練しないと、歌はうまくなれないのだと思います。
だから、いくらソルフェージュを学んでも、ノドの脱力ができなければ、音程正しく歌えないし、いくら歌の学校に行っても、先生に恵まれなければ、一向に歌は上達しないのです。
その上、良い先生と出会い、正しいやり方を学んでも、それらを時間をかけて、しっかりカラダに覚え込ませなければ、音程正しく歌えるようにはならないのです。良い先生・正しい発声方法・長くかかる練習期間。この三つが歌の上達にかかせないし、そうでないと、音程正しく歌う事は難しいのです。
私もようやく良い先生と巡り合い、正しい発声方法を学びましたが、まだたったの1年しか経っていません。どうも、1年という短い時間では、音程正しく歌えるようになるまでに、全然時間が足りていないようです。
実際、自他とも認められるほどに、正しい音程で歌えるようになるには、あと何年必要なのか分かりません。そう言った意味では、歌はなるべく早くから、できるだけ若い時から学ぶべきだと思います。私の場合でも、最初からY先生に出会っていたら、私の趣味人生は、だいぶ変わっていただろうなあって思います。Y門下の方々って、本当に活躍している方が多いですからね。私は5年という時間を無駄に使ってしまったかも…と時々悔いる事があります。
蛇足 音程を上げるにはノドを上に引っ張り上げる感覚が、音程を下げるにはノドをしたに引っ張る感覚が必要だと思います。音程の違いを、高い低いと表現するのって、なかなか感覚的に分かりやすい表現なんだと思います。
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