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『テノール! 人生はハーモニー』を見てきた

 『テノール! 人生はハーモニー』というフランス映画を見てきました。ただいま、全国21館の映画館で絶賛上映中でして、遅れて上映する映画館を含めると、最終的に全国44館の映画館で上映予定という、なかなかマイナーな映画なのです。とは言え、今の時代ですから、1年くらい待てば、どこかの配信サービスに登場してくるかもしれませんが…。

 タイトルからも想像つくでしょうが、音楽映画で、オペラ周辺映画です。原題は、ただの“Tenor”で、日本語タイトルにある『人生はハーモニー』は全く関係ありません。ハーモニーではなく、ひたすら、声・声・声…です。ストーリーは…私があれこれ書くよりも、公式ホームページをご覧くださいませ。ちなみに、フランスのトップ・テノールである、ロベルト・アラーニャが本人役で出演しています。

 私がこの映画で感じたのは「才能だけ与えられて、環境を与えられない苦悩」ってところでしょうか? いや、おそらく映画の終了後の世界では、その環境すら主人公はゲットしているのだろうと思われますので「才能を与えられた者が、欠けている環境を幸運と実力でゲットしていく物語」とも言えるかな?。まあ「与えられた者の試練」という、なかなか共感しづらいテーマかなあ…と思わないでもないです。でも、テノール映画って、そんなのばっかりだよね(例えば、ポール・ポッツが見出された経緯を映画化した「ワン・チャンス」とかね)。

 古来、スターテノールと呼ばれる人の中には、きちんとした音楽教育を受けていない素人からスターになった人が大勢います。超有名どころで言えば、カルーソーしかり、パバロッティしかり…。他の声種のプロ歌手では、到底考えられないのですが、テノールではありふれた事実であり、この映画の主人公もそんな“門外漢の素人からスターテノールへの第一歩を歩みだしたラッキーボーイ”の話だったりするわけです。

 つまり映画を見ていると、毎度のことですが「テノールにとって最も大切なのは、努力や教育ではなく、才能である」という、身も蓋もない事実を突きつけられたりするわけです。で、この場合の“才能”とは、ほぼほぼ“声”だったりするわけですし、その声というのは“豊かな声量と美しい高音”であり、それは努力して得られるものでは無いわけで、神様によって与えられなきゃ、どうにもならないモノなんだね。

 で、その“声”を持っていても、それを磨き上げる環境がなければ、この映画の主人公のように苦しむわけです。でも、映画の主人公だから、最終的には、その環境すら幸運と実力で掴み取るわけだけれど…ねえ。

 アマチュアと言えども、私もテノールだから「声が才能」ってのは、大いに同意するし、それゆえに彼の苦しみっては、何とも身につまされるものです。映画を見ていて、そのやるせなさに、ほんと息苦しくなりました。

 そして我が身を振り返るわけです。「私は(映画の主人公とは違って)この程度の歌手なんだろうなあ…」と。才能無いなあ…。ああ、切ないです。

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コメント

  1. オペラ座の怪人の怪人 より:

    たびたびのコメント、失礼します。
    先般の、暗記・理解に関する、私のコメントの件、
    ありがとうございます、
    というか、なんだか、すみません。

    さて、本日は「才能」のお題ですね。
    (才能とか、努力とか、勉強方法とかのお題が大好物の私です。)

    確か、エルビス・プレスリーも、ごく普通にトラック運転手をやっていて、
    ある時「たまたま」レコーディングをしたら、才能を見出された、
    んじゃなかったかしら?

    経済学の教科書に曰く、
    人生=努力×才能×親×運

    本日は「才能」のみについて語りますならば、
    自分には何の才能があるのか?
    を見極めることは難しいけど、大事なこと。

    親なり、先生なり、大人なりが、
    子供の才能を見定め、見極め、
    成長させにゃあ、いけまへんな~。

    親・先生・大人に「子供の才能を見極める才能」があるとか、
    親・先生・大人が「子供の才能を見極める努力」をするとか、
    ああ、ま~た、先生批判を書いてしまった、かも?

    ( ̄▽ ̄;)  ( ̄~ ̄;)  ( ̄□ ̄;)!!

    (-A-) (-A-) (-A-) ← ざっくぅ

    おしまい

  2. すとん より:

    オペラ座の怪人の怪人さん

     おっしゃる通り、教師の大切な仕事の一つとして“生徒の能力を見極める”というのがあり、その能力の中には、当然“才能”も含まれます。特に、年少者に対峙する教師ほど、それが重要視される事は論を待ちません。

     なぜ“年少児ほど…”なのかと言えば、多くの才能は持っているだけでは宝の持ち腐れであり、その才能を磨き上げて有益なものにするために教育を与える時間が必要となるからです。つまり、才能を見過ごされて、無為に年を重ねてしまうのは、当人にとっても社会にとっても、盛大な人的リソースの無駄となるからです。

     でも、今の日本を見ていると、才能を見抜くのは、教師の仕事と言うよりも、今は親の義務なのかもしれませんね。教師にも当たり外れはありますが、それでも子供は多くの教師の目に触れながら成長していきますが、親…となると、たった一組ですからね。ハズレ…と言うか、毒親の元で育った子は、才能を磨いてもらえるチャンスすらありません。そういう意味では“親ガチャ”って…あるのかもしれませんね。

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