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私は、やっぱり、私が嫌いだ

 人が幸せとなるために必要なものの一つに“自己肯定感”というものがあります。これがない人は、いくら環境的に恵まれていたとしても、幸せを感じる事は少ないと言われています。
 ま、そりゃあそうだよね。自己肯定感の低い人間は、自分は社会に受け入れられていないって感じているんだもの、幸せにはなれないわな。
 で、私の話。まあ、私は基本的に自己肯定感が高めな俺様的な人間なので、基本的には幸せいっぱいに生きています。少なくとも、オトナになってから、まあまあ幸せだと感じながら生きています
 正直な話、子どもの頃や学生時代は、自己肯定感の低い、自分で自分を憐れむような不幸せなヤツでした。それがオトナになってから、あれこれあって、自己肯定感を得られるようになったわけですが、それはまた別の話なので、機会を改めて書くかもしれません。
 とにかく、ちょっと前までの私は自己肯定感が満たされた幸せ野郎だったのですが、最近、また、自分がだんだん嫌いになってきて、この自己肯定感ってヤツが薄らいできて、なんか自分がカワイソウなヤツ、不幸なヤツに感じるようになってきました。
 何が原因なのかと言うと、私の声です。
 思い起こしてみると、若い時、私は私の声が大嫌いでした。だって甲高いんだもん。青年時代は、声だけだと、よく女性に間違えられるほどに高かったんだね。当時から歌っていましたが、高校生~大学生の頃は、声変わりを終えていたにも関わらず、アルトパートを歌うのが一番楽だったくらいだもの。それくらい甲高い声だったのね。
 で、そんな甲高い声が私は大嫌いだったので、オトナになったあたりから、日頃は声を押さえつけて、低めの声を出してしゃべるように、歌うようにしていたのです。そんな事を何年も何年も続けていたら、そんな低めの作り声で話すのがデフォルトになってきたわけです。
 やがて、声を押さえつけるのが無意識になり、そうやって作った低い声が自分の声だと勘違いするようになっていったわけです。まあ、私の本来の声を忘れてしまったとも言えます。
 そんな私が声楽を学び、本来の自分の声を取り戻しつつあるんです。そう、忘れていた自分の本来の声と向き合うようになったわけです。
 さすがにもう、オッサン~オジイサンなので、ツヤツヤした声は出ず、いくら甲高いと言っても、もう女性に間違えられる事はないのですが、それでも相変わらず、声は甲高いし、細いんですね。いかにも“貧弱なオジイサンの声”になっているんですね。年齢が年齢だから、声が老けているのは仕方ないと思うし、いかにも“オジイサンの声”になっていても良いのですが、問題は“立派なオジイサンの声”とか“かっこいいオジイサンの声”とかではなく、ただの“貧弱なオジイサンの声”というのが、イヤなんです。
 若い頃は、自分の女性的な声がイヤだったのですが、年を取った今でも、自分の声の甲高さと貧弱さがイヤでイヤでたまりません。
 まあ、自分が聞く自分の声が嫌いなのもイヤですが、ネットにアップした歌声の感想で、声が嫌いだ…みたいな事を書かれると、正直、凹みます。だって、その通りなんだもの。自分でも気にしている欠点を指摘されると、人間って凹むものですね。
 バカにバカと言っちゃいけないし、デブやハゲにデブとかハゲとか言ったら怒り狂うわけです。つまり他人に本当のことを言っちゃいけないのです。私みたいに、他人に好かれない変な声の人に「あなたの声はキライです」とか言っちゃうなんて、いきなり物事の核心を付いちゃうわけで、突かれた方はハートをえぐられる感覚になります。
 楽器なら、気に入らなきゃ買い換えればいいんですが、声はそうはいかないのです。こんな甲高くて、細くて、貧弱な声でも、これで我慢しないといけないのです。
 ああ、私は歌が大好きだから、本当は、どんどん歌っていきたいのですが、この声で歌わないといけないのかと思うと、なんか凹むなあ。もっとカッコいい声で歌いたいよ。できれば、マリオ・デル・モナコみたいな声で歌いたいのだけれど、それは叶わぬ夢というものなんだね。
 と言うわけで、私は、やっぱり、私が嫌いだ。大嫌いだ。
 そういう意味では、最近の私は、どんどん不幸になっています。ああ、不幸は嫌だ、幸せに暮らしていきたいよ。ああ、神様、私の声を、かっこいいイケメンヴォイスに変えてください(涙)。

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