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隠れ歌好きについて考えた

 歌と言うものは、クラシック声楽に限らず、カラオケであっても、酔って放歌するのであっても、基本的に歌好きしか歌いません。歌が好きでない人は、歌を聞くのも歌うのもが苦手なので、人前であろうがなかろうが、歌うことはありません。

 ただ、歌好きにも色々なレベルがあって“歌が好き”という気持ちがあっても、それよりも“人前で歌うのは恥ずかしい”というシャイな気持ちの方が強い人の場合は、たとえ歌好きであっても、滅多に歌うことはありません。特に日本の男性の場合は、それが顕著だと思います。せいぜい歌っても、一人っきりの入浴の時に鼻歌でちょっぴり歌うって感じで、歌が好きで歌いたいにも関わらずカラオケなどでも歌わなかったりします。

 そういう人って、歌が好きなのに歌わないのですから、ある意味“隠れ歌好き”と呼ぶことができます。そして、日本は音楽市場としては、アメリカについで世界第2位の規模であるという事実を踏まえるならば、多くの日本人は“歌が好きでよく聞くけれど、人前で歌うのはちょっと…”という、隠れ歌好きばかりなんでしょうね。

 では、なぜ隠れ歌好きな人は隠れているのか? それは自分の歌声では自分の美意識を満足させる事ができず、自分が満足できないのだから、他人も満足させられないだろうと推測して、人前で歌うこと止め、恥をかくことを回避しているからです。ある意味、謙遜であり、謙虚であると言えるでしょう。むしろ、人前で堂々と歌っちゃう人は、恥知らずで図々しい奴なのかもしれません。少なくとも、日本人の一般的なメンタリティとは違うのかもしれません。

 一般的な日本人である隠れ歌好きの人は、日頃は隠れているので、彼らの歌を聞くチャンスと言うのは、普通は滅多にありません。でも、私はなんだかんだと言って、彼らの歌を聞けるチャンスが、たぶん、普通の人よりも多くあるんです。で、聞いてみると、色々と思うことがあります。

 隠れ歌好きの人は、程度の差こそあれ、大半が“ジャイアン状態”です。音程が悪い…と言うよりも、音階にはまっていなくて、リズムが悪い…と言うよりも、テンポ感が希薄で、何よりも発声そのものが悪い…と言うよりも、話し声や怒鳴り声、あるいは裏声で歌ってしまっています。

 つまり“音痴”なんです。

 でもね、この音痴という言葉、実にヒドい言葉だと思いますよ。音痴…音の痴れ者。つまり、音楽バカって意味です。もちろん、悪い意味で使っています。

 でもね、隠れ歌好きが一般的な日本人の姿であり、これが日本人のデフォルトならば、そのデフォルトな存在に対して“バカ”は無いと思います。これは一種の冒涜です。

 なんか、音痴という言葉には「歌は上手に歌えて当たり前。歌えない奴は劣った奴」とでも言いたげな言葉だと思います。他人を上から見下す言葉です。なんか、嫌な気分になります。

 いっそ、音痴という言葉、いや音痴という概念を、我々日本人の思考の中から追放したい気分です。「歌は上手に歌えて当たり前。上手に歌えない奴はバカ」ではなく「歌を上手に歌うのは難しいから、それは専門家に任せ、我々は下手くそでも楽しく堂々と歌いましょう」と発想を転換したいです。

 つまり、下手でもイイじゃん、稚拙さを寛容しましょう。

 稚拙さを寛容すること。これって大切な事だと思いますが、真面目な日本人たちは、なかなかこれが出来ないのです。と言うのも、我々は稚拙さを見逃せないんです。稚拙であるならば、常に何とかしようとします。そして何とか出来ないと知ると、マイナスの感情が生まれます。特にその気持ちが自分に向かって発動した時は“恥”を感じるんです。

 それが日本人。ケンチャナヨ精神ではいられないのです。ケセラセラなんて言えないんです。

 まあ、恥は慎みとつながりますから、恥じらう気持ちも大切にしないといけませんが、それも程度問題です。まずは、他人の稚拙さを寛容する事から始めませんか? でなければ、いつまでも隠れ歌好きの人は隠れたままで、大好きな歌を楽しむ事ができないからです。

 歌うって、一種のスポーツのようなモノだと思います。ただ普通のスポーツとは違って、使うのがカラダの表面の筋肉ではなく、カラダの内部の筋肉であり、それゆえ目で見えないだけで、やっている事は普通にスポーツと同じだと思います。

 歌は筋肉で歌うもの。それゆえ、日頃の鍛錬とか練習とかが必要であり、だから隠れたままで歌う事をしなければ、いつまでたってもジャイアン状態であり、ジャイアンのままでは音痴と言われ、罵られ続けなければいけないのです。その連鎖を断ち切るためにも、稚拙さを寛容していけるようになり、稚拙な歌を恥じないメンタルを獲得するところから、我々は始めなければいけないのだなあと思うわけなんです。

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コメント

  1. のんきなとうさん より:

    すとんさんのお話の主旨とはすこし違うかもしれませんがひとこと。

    自分的に先日のレッスンで、「下手でもいいじゃん」というところにすごく納得できることがありましたので。

    自分は、すとんさんと違って、先生についてまだ8ヶ月目の声楽初心者ですが、どうもレッスンのときに普段の調子が出なかったのです。

    発声を直してもらって、しばらく本当に声が出なかったことは前に言いましたが、新しい発声が身についてくると、自主練習のときや合唱団ではすごく調子がよく、まわりからも「どうしたんだ、お前」と言われるくらいになったのですが、先生のレッスンになると、それが出ないんですね。

    先日のレッスンで、たぶん先生の意図は別のところにあったんでしょうが、「もっと、身振り手振りをいれて、全身を使って大きく表現してみては?」との指導に、恥ずかしかったんですが、エイ!とやってみたら、出たんですよ、いつもの声が。

    自分も先生も、一瞬何が起こったかと・・・

    「なんだ、出るんじゃないの!(笑)」

    やはり、「下手で恥ずかしい」とか、「ミスしたらどうしよう」とか、自分よりはるかはるかにレベルの高い先生の前で萎縮していたんですね。

    ゲイジュツの表現ですから、臆していてはダメ、ということを学びました。(笑)

  2. だりあ より:

    >音痴という言葉、実にヒドい言葉だと思いますよ

    まったく同じことを考えてた、今でもですが、ことがあります。音痴っていう漢字が。なんとなくいやな感じの漢字ですよねえ。これって、もしかして差別語ではないでしょうか。どなたも何気に使ってしまう言葉かとは思いますが、音痴って言われたほうはたまったものではないですよ。オーソレミオなんて、お風呂場でおとーさんが遠慮してボソボソ歌ってもぜんぜん楽しくないだろうし・・・。ある晴れた日にだって、お母さんが庭の隅っこで草取りしながらヒソヒソと歌ってたら、隣の人はなにかかなしいことがあったのかしら、と気をまわしますし・・・。どちらのケースも、周りの人は、音程がはずれても大きな気持ちで聞いて、当人には胸張って歌ってもらいたいです。そしてそれを許すくらいな寛容な日本であってほしいです。

  3. すとん より:

    のんきなとうさん

     自宅とか練習とかではうまくできても、先生の前ではうまくできない…私もよくありましたよ。前の先生には「いくら練習で出来ても、人前で出来なきゃ意味がない」とは、よく言われました。

     萎縮…はいけませんね。萎縮とは緊張の事だし、緊張すればカラダに力が入ってしまいます。そうなれば…できることもできなくなって当然です。

     歌には、リラックスが必要なんですね。でなければ、脱力なんて無理ですから。

     でも、それが難しいんです(涙)。

  4. すとん より:

    だりあさん

     私は“音痴”という言葉を死語にしたいくらいです。そして“歌上手(うたうま)”という言葉を流行らせたいです。

     歌って、難しいんだよね。きちんと歌うのって、すごく大変。ある意味、楽器演奏と同じか、それ以上に難しいのに…世間の人は、ちょっと歌をなめているんだと思う。だから、ちょっと歌えりゃあ、それでいいと思っているわけです。本当は、そんなんじゃ、ちっとも歌えたことにならないのに…。

     私は歌の下手な人を貶めるよりも、歌のうまい人を褒め称えたいです。そんな世の中になるといいのになあ…って思うわけです。

  5. だりあ より:

    すとんさんのご意見に大大大賛成です。自分よりも劣っていることを下に見る言葉より、自分が目標にしたいことを見上げる、っていう姿勢が、やっぱり人としてお互い気持ちがいいし、自分も前向きになれるし、人として上等な言葉遣い考え方、生き方だと思います。音痴は葬り去って歌上手を、広めていきたいですねえ。

  6. すとん より:

    だりあさん

     他人を貶めたり見下す事は、安易なストレス解消法だと私は思います。事実はどうであれ『自分は目の前の奴よりはマシ』と自分に言い聞かせているわけです。事実はどうであれ…です。それって、本当はかなり不幸な事だし、そんな事をする人は悲しい人だと、私は思います。

     なぜなら、自分の劣等感を他人に投影して、自分を正当化しているにすぎないからです。

     音痴という言葉が生まれた時代は、不幸な悲しい時代だったんだと思うし、そんなマイナスな言葉をいつまでも使うべきではない…と個人的には思います。

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