声楽のレッスンの続きです。
まずは、チマーラ作曲「Nostalgia/郷愁」からです。
最初に通して歌ってみました。先生は「今の発声方法で、Gまでは安定して歌えますね。(この曲はGまでしか使わないので、それでいいのだけれど)もっと上(の音)まで歌えるようになりましょう」と言われました。望むところです。
全体的に私の声は“厚い”のだそうです。この曲は、曲想から考えて、もっと薄い声で歌わないといけないので、なるべく“薄い”声で歌うように気をつける事が必要なんだそうです。特にフレーズの開始が比較的高い音から始まる時は、本当に薄い声で上から音程を捕まえて歌わないといけません。そのためには、高いポジションで、軽い声で、pでドルチェな声を使うのですが、その時でもしっかりと息は支えていないといけません。難しいですね。
また、私の歌い方は、まだまだ一本調子なんだそうです。もっと、しゃべる事が必要だし、もっともっと感情的に歌う事が必要なんです。
そう言えば、ここんとこ、喘息の薬を服用しているせいか、ノドが妙に厚ぼったくて、声に違和感を感じます。なんか、うまく声を鳴らせません。喘息の薬って、多かれ少なかれ声を嗄らす副作用があるモノなんですが、私にもその症状が出てきたようです。もっとも、私の場合は、声が少々嗄れる程度ですが、人によっては、全く声が出なくなってしまう事もあるそうです。…怖いなあ。今は病気治療が優先なので、少々の声嗄れはあきらめてますが、本番近くになったら、薬を抜いて、しっかり声帯が鳴る様にしないといけないなあ。薬を抜くタイミングが難しいです。
さて、次は、デ・クルティス作曲「Non ti scordar di me/忘れな草」です。
この曲のピアノ伴奏は難しいらしく、先生は以前から「伴奏が難しいのですよ」とこぼしていましたが、今回の伴奏は、もう面白いぐらいに調子っぱずれでした。リズムはしっかりキープしてましたが、ミスタッチが多いというのでしょうが、全く違う和音でバンバン弾いてくださいました。
そんな先生の伴奏に、私も慣れたものです。思えば、前の声楽の先生であるキング先生もよく伴奏のミスタッチをしていました。「声楽の先生のピアノは、リズムと和音を外さない事で、細かいところは違っていてもいいのです」とおっしゃってましたが、リズムはともかく、和音はよくハズしていました。まだ習いたての頃は、先生が和音をハズすたびに、私の歌うメロディーが右往左往していましたが、やがて先生のピアノの和音がハズれても、私の方はそんな事を気にせずに、自分のメロディーラインをしっかり歌えるようになりました。これもそれもキング先生のおかげなんですが、そういう経験があるので、Y先生が違う和音を多発しながら伴奏してくださっても、心の中で苦笑しながら、歌っちゃいました。
私も、それなりに歌が上達したって事ですね。
しかし、同じ和音をハズすでも、高い音をハズされるよりも、低い音、とりわけベース音をハズされると、歌いづらいですね(笑)。
この「忘れな草」という曲は、私は『声を見せびらかす曲』だと思ってます。なので、ここぞとばかりに、あっちでもこっちでも声を見せびらかせて歌っておりましたら、先生から「高い音を一生懸命に出しすぎてます。もっと気楽にサラっと歌ってください」と言われました。事実上の「声の見せびらかし禁止令(涙)」です。
高い音でも、ノドを鳴らさずにサラっと歌う…のは、実は声を見せびらかして歌うよりも楽だし、簡単なんです。でも、それはやりたくないんです…ってか、テノールの血が「そんなに簡単に高音を発声しちゃダメだろ」ってささやくんです。はい、テノールってバカなんです(笑)。でも先生は知的なバリトンなので、楽できるところは楽して歌えばいいじゃないですか?って方針なんですね。で、声の見せびらかしは、最後の最後に取っておいて、そこで思いっきり見せびらかせばいいじゃないですかって、おっしゃるわけです。
いつでもどこでも何度でも、声を見せびらかせたいのがテノールなんですよ。そこは先生と言えども、ご理解いただけないようで…残念です。
なので、ここは先生の意見に折れて、高音のいくつかはサラっと歌うことにしました。声の見せびらかしは、間奏以降に持ち越しにします。その代わり、間奏以降は、見せびらかしますよぉ~。
で、声の見せびらかし方なんですが、声を見せびらかす時は、かなり前から支えをガツンと入れておかないと、見せびらかしが不発に終わります。なので、声の見せびらかしには、気合と根性と体力が必要です。だから先生は最後の最後まで、見せびらかしはとっておけ…とおっしゃるわけなんですね。納得。
とにかく、この曲は、20世紀生まれのイタリア民謡。はっきり言っちゃえばポピュラーソングなので、私のような、楽譜が見えるような歌い方ではダメなんだそうです。もっといい加減に、細かい箇所ほどチャンポランに崩して歌わないと、アジってものが出てこないそうです。
生真面目に歌ってはぶち壊し…なんだそうです。まあ、それは薄々感じております。だから、声を見せびらかそうと企んでいるわけなんですが…。
さてさて、次回のレッスンは、ピアニスト同伴レッスンとなります。きっと色々と忙しいレッスンになるはずです。で、その次は、クラシックコンサート後の初レッスンとなり、新曲に取り組む事になります。…って事は、今のうちに、そのコンサート後のレッスンのための新曲をいただいておかないと…いけない?よね。
って事で、先生から次の課題曲をいただきました。次は…ガスパリーニ作曲「Caro laccio/いとしい絆よ」と、グルック作曲「O del mio dolce ardor/ああ私のやさしい熱情が」となりました。2曲とも、いわゆる「イタリア古典歌曲」の曲です。先生曰く「発表会を終えたら、皆さん、基礎に戻っていただきます」って事で、イタリア古典歌曲となりました。それも、日頃使っている高声用ではなく、中声用で歌うそうです。私的には「なんで高声用ではないのですか?」という気持ちがないわけではないのですが、Y先生はイタリア古典歌曲は、どんな声種の人であれ中声用で歌ってもらうというポリシーの方なので、文句を言っても始まらないので、黙って従うことにします。
「でも、私はその曲、Y先生に高声用でレッスンしてもらった!」と妻が言いました。おいおい、それじゃあY先生、ブレブレじゃん(笑)。
まあつまり、私の場合、高音を封じて、学ばせたい事がある…って事なんでしょうね。ちなみに妻は、クラシックコンサート後も、しっかりオペラアリアを課題曲としていただいてます。妻と比較してもしょうがないのですが、私の方が、まだまだ初歩に近い位置にいるって事ですね。
ありのままを受け入れて、頑張りますよ。とにかく、昨日よりも今日、今日よりも明日が輝くように、前に進んでいくだけです。
おう~!
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コメント
先生の仰る通りですよ。
こないだのヴェルディのレクイエム、最高音のBはさらりと歌い、最後のGを
心を込めてベストフォルテで歌いました。
ちゃんとフレージングと音楽の意味を考えて歌うと、こうなるんです。
高いから出しゃいいってもんじゃないです。
「O del mio dolce ardor/ああ私のやさしい熱情が」は、レガート唱法を
駆使して歌って下さいね。
美しい曲で、私もオペラ・アリアを歌う前に発声用に歌いますよ。
イタリア歌曲を中声用で勉強されるのですね。ストーンさんの声は中低音と高音では声質がかなり違います。Y先生の狙いは中低音をキチンと出すようにする所にあるんではないでしょうか?中低音がちゃんと歌えるようになったらストーンさんのAは今とはまったく違うものになっているのかも知れませんね。
Y先生、この方は指導者としてなかなかの人だと思います。
おぷーさん
私は割と典型的なテノール気質ですし、今までも(コーラスも含め)大昔にメゾの先生に習った以外はすべてテノールの先生に習ってきて、何と言うかな、テノールのバカっぽいところが許されてきた(ってか助長されてきた?)ので“高音至上主義”とでもいうのでしょうが、そんな感じでやってきたため、Y先生の指導のように、ごく当たり前の事をごく普通に学ぶという部分が欠落してきたと…今更ですが思ってます。まあ、過ぎたことをつべこべ言っても始まらないので、いいのですが…。
「O del mio dolce ardor/ああ私のやさしい熱情が」は、あんまり歌曲歌曲してない曲ですね。まるでオペラアリアのよう…ってか、たぶん昔のオペラのアリアなんでしょうね。かなり劇的で、好きなタイプの曲です。レガート唱法を…、そうですね、レガートで美しく歌ってみたいと思います。
玉ちゃんさん
中低音と高音では声質がかなり違う…かもしれませんね。とにかく、今までずっと、高音を延ばす事だけに集中して四年も五年もレッスンしてきましたから、中低音がなおざりになっている恐れはあります。
Y先生は、発表会などの本番が近い時は、課題曲が歌えるような特化したレッスンをしますが、それが終わると、基本的なレッスンに戻るのだそうで、そういう意味でも、私の場合は、基本的な弱点ツブシ的なレッスンになるんだろうと思います。
Y先生は、『音を出すためには、高音そのものを練習しても意味はなく、徹底的に中低音の練習を繰り返すことで高音が出るようになる』というお考えの方です(そこがキング先生とは違います)。なので、高音を封じて中低音の練習をするのは、中低音の充実のみならず、高音の練習にもつながってくるのだと思ってます。