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声楽なんて、所詮、猿まねじゃねーかー!

 …といきなり毒づいてしまいましたが、別に悪意はないんですよ。ただ、私、時々、そう思うんですよ。もちろん『声楽なんて』という部分を『世界中の(声楽なんて)』とか『日本中の(声楽なんて)』とかまでは広げません。私が書いている事ですから、せいぜいが『日本人の趣味レベルの(声楽なんて)』という話ですので、むやみにヒートアップしないようにお願いします。

 で、『日本人の趣味レベル』と言い切っちゃいましたが、まあ、一部の人を除いて、日本人で趣味レベルで声楽をやっている人は、真剣にやっている人から見れば“猿まね”と言われても仕方ないレベルだよなあ…と思います。

 “猿まね”という言葉が気に障るなら“他人のコピー”と言い換えてもいいです。つまり『自分の心の奥底からの表現ではなく、誰かから借りてきた借り物の表現を使って、自己表現をしたつもりになる事』って程度の意味ですが……ちょっと回りくどいかな?
 
 
 具体的に“私”を例にして話を進めます。

 私はイタリア系の曲を主に勉強しています。当然、イタリア語の歌を歌っているのですが、じゃあ、歌われている内容をどれだけ理解しているのかと言うと…自分でも疑問ですよ。

 まず、私はイタリア語が出来ません。話せないし、聞き取りもできませんし、会話なんて無理無理無理でございます。辞書を引き引き、なんとか歌詞を訳すぐらいはやりますが、たかだか3分の曲を訳すのに3時間ぐらいかかるテイタラクだし、訳したモノだって、どこまで正しいのやら…。

 楽譜には、辞書で引いた単語の意味やら、頑張って訳した訳文やらを書き込んでいますが、じゃあ、その意味を十分把握して歌っているのかと言うと、それは微妙です。

 だいたい、イタリア語の発音自体も、かなり怪しいものです。色々な歌手が歌っている音源をたくさん聞いていますから、それらの歌唱が記憶にあるので、なんとなく、それらしい発音で、それとなく真似して歌っていますが、その発音は、ネイティヴの人が聞いたら「???」レベルの発音でしかないです。だいたい、歌っている本人が「母音の音色がちょっと違うよなあ…」とか違和感を感じながら発音しているんですから、かなり悪い発音なんだろうと思ってます。それに、歌詞の意味だって、きちんと把握して発音しているわけじゃないですから「???」であっても仕方ないです。

 レッスンで歌っていても「イタリア語の分かる人なら、そこでブレスは取らない!」とか注意をうけている始末です。つまり「弁慶がな、ギナタを振った」みたいな事をやっているわけです。まるで、分かってないわけです。

 じゃあ、言語に堪能なら、いいのかと言うと、それもまた違う気がします

 と言うのも、仮に言語的な問題が解決したとしても(訳文などで十分に読み込んで)イタリア語の歌詞に書かれている内容をきちんと理解していたとしても、じゃあ共感して歌っているかと言うと、これまた微妙だったりします。

 いやあ、だって、イタリア歌曲にしても、オペラアリアにしても、あまりに感情の振り幅が広くて、理解はしても共感は難しいですよ。歌詞を読んでいても、心のどこかが冷めちゃいます。真面目な私(笑)が軟派なイタリア男と共感するのは難しいよ。

 共感できなくても、理解して歌えばいいじゃない…と思うものの、自分で歌詞の内容を考えて、自分なりの表現を引き出して歌うなんて…発表会などの本番向けの曲の練習の時ぐらいしかやらないし、それだってどこまで出来ているんだか甚だ疑問です。ましてや、普段のレッスンの課題曲の練習なんて、自分なりに考えたストーリーに、どこかで聞いた歌手の表現をあっちこっち組み合わせて、それらしく歌っているのが、正直なところです。

 母国語である日本語を使った日本歌曲ならどうなのさ?……って事になりますが、さあ、それだって、どうなんでしょうね。

 確かに日本歌曲なら、言語的な問題は解決されるし、歌詞の内容だって、同じ日本人が書いた歌詞ですから、理解しやすいものが多いですね。でも、やっぱり、それでも理解止まりなんですよ、日本人が書いた日本語の歌詞であっても、共感できる歌詞なんて、ごくごく少数です。大半の曲は、やっぱり私にしてみれば、借り物なんですよ。

 例えば「荒城の月」で歌われている情景はよく分かるけれど、だけど、あれは私の心象じゃないわけで…。となると、「荒城の月」を私が歌う場合、私の中に表現すべき何モノかがあるわけじゃないので、結局は、誰かプロ歌手の歌っている様を無意識にコピーして、それらしく歌ってしまうのがオチじゃないかな?

 私の魂と波動の合う曲が見つかれば、話は別だけれど、そうでなければ、無意識であっても、歌い方が、誰かのマネっぽくなってしまうのは、私の歌の引き出しの少なさと、技術の無さが原因なんだけれど…。

 それにだいたい、声楽的な素晴らしい声って、彫りの深いヨーロッパ人の特徴を生かした声の事で、掘りの浅い、薄っぺらな顔だちの日本人では、かなりの練習をしないとできない技であって、それもある意味、ヨーロッパ人のコピーなんじゃないのかって思うわけです。

 結局、ヨーロッパの一流歌手のように歌えたら万々歳なわけで、意識するしないに関わらず、彼らの声や歌い方をどこかで真似て、歌って、喜んでいたり、楽しんでいたりするわけじゃない? それも完コピなら立派だけれど、往々にして“劣化コピー”だったりするわけで、それでも嬉々として喜んで真似しているわけです。

 だから、思わず“猿まね”なんて、悪い言葉を使っちゃうんですよ。

 もちろん、日本人であっても、真剣に言語を学び、留学して現地の人々の生活様式を肌で感じて、彼らの感情のパターンを理解し、常に自分の心の奥底まで見つめて、自分の心の音楽として、声楽曲を歌っている人は、プロであれ、アマであれ、素晴らしい事だ思います。

 でも、私は違う。何となく、耳で聞きかじった曲を、楽譜を見ながら、音や言葉を模倣し、どこかで聞いた歌手たちの表現を真似しながら、劣化コピーの歌を歌うわけで、その歌の中に、私自身はいないのです。

 ほら、猿まねでしょ? でも、そういう人って、きっと私だけではなくて、多くの日本の趣味の声楽学習者の相当数は、そんな感じなんじゃないかな?

 で、猿まねだからダメ…と言いたいわけじゃないです。無論、真剣に歌を学んでいる人や、プロの方が“猿まね(他人の劣化コピー)”などをしてはいけません。

 でも、私レベルの趣味の人だと、言葉は悪いけれど、所詮声楽も“ごっこ遊び”の一つなのかもしれません。“ごっこ遊び”なら、思いっきり成りきった方が楽しいでしょ? それが誰かの真似であっても、成りきって楽しく歌えた方が良い。だから、私がやっている事は、猿まねでしかないんだけれど、猿なら猿で、心の底から、猿であることを楽しんで真似るのも一興じゃないかって思うんです。

 へそ曲がり?

 でも、いつの日が、自分でなければ歌えない歌って奴を、歌えるようになりたいものだと思わないでもないんです。まずは、そういう歌と出会う事。そして、その歌が歌えるだけの技術を身に付けている事。そんな事を考えると、たとえそんな日が来るのだとしても、まだまだ当分先の話って感じがします。

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コメント

  1. すずめおばさん より:

    今日は荒れてますね(^0^)

    心に「歌の翼」をつけて歌えばよいのではないでしょうか。
    アマチュアなのはある意味、幸運なのです。
    誰に聞かせようとかあまり考えなくてもいいので、むしろ感情こめて歌って堪能できる気がしますよー。

    確かに、練習の時は「猿まね」というか、反復して学習するしかないですが・・・(^^;ゞ

    歌の最高の楽しさは、その歌の世界にどっぷり浸かることだと思います。
    「この曲、歌いたい!!」と思う曲ばかり歌うと良いのかも!?

    ちなみに今私が歌いたい!と思う歌は、歌劇「ノルマ」-清らかな女神よ
    聴いてるとジィ~~~ン!!としちゃうんです。歌ったらもっと感動できそう!

  2. 椎茸 より:

    わかりますわかります。超わかります。
    でも、歌自体をやめようとは思わないんですよねぇ やはり歌はとても楽しいのです。
    個人的には、日本歌曲の中に、詩自体が難解なものが数多くあるのが解せません。意味がわからないと歌う気になりにくいです(?_?)

  3. おぷー より:

    日本にいて、ドイツの歌曲の意味や、イタリア語のオペラアリアのおおらかさや
    雰囲気を学ぶのはすごく難しいと思います。
    私も、こちらに来て初めてそういう空気に触れて、キリスト教やギリシャ神話が
    元にある文化のあり方を経験して分かった事が多いのです。
    例えば、マタイ受難曲を歌って7年目になりますが、大分分かる様になった、
    とはいえ、まだ「なんでこうなる?」と疑問に思う事はいっぱいある訳で、
    異文化で育った人間にはなかなか難しい宗教曲だと思います。
    日本で尺八なんかを学ぶ外国人もやはり同じような壁にぶつかるのでしょうね、きっと。
    でも、なにもないから、そこから作れるものもあると思うのです。
    それが日本人の強みですよ。
    頑張りましょうね。

  4. operazanokaijinnokaijin より:

    大昔、明治の頃、当時の日本の演劇人が必至の思いで、
    シェークスピアを、格調高く演出し、演じていた頃、
    かの夏目漱石先生は、うーん、違うんじゃないかな、
    そんなに格調高くやらなくて、おっかさん、おとっつぁん、
    みたいな感じでよろしいのではないかな、みたいなことを、
    考えていた、という主旨のことを、読んだことがあります。

    シェークスピアは素晴らしい文学ですが、
    シェークスピアの時代、演劇はあくまでも、
    エンターテイメントだったわけですから。

    モーツァルト、ベートーベンあたりは、
    音楽をビジネスとして確立させるべく、
    パトロンに頼らない自立の道を模索していたと思います。

    音楽とはなんぞや?
    芸術とはなんぞや?
    プロとアマの違いは?
    芸術は趣味か、それとも?
    みたいな話、私、大好きです。

    明日、あさっては、土日。
    2日間、完全にオフなので、
    趣味を楽しみます。
    楽しみ。

    私の趣味は、音楽、映画、
    あと、最近は、経済学の大真面目な本を読むこと。
    うんうん、本職の経済学者の足元にも及びませんが、
    楽しいんですよ、経済学の本を読むのが、最近。
    趣味はサムエルソン(←1970年にノーベル賞をとった経済学者)

    おしまい

  5. すとん より:

    すずめおばさん

     荒れている…かな? そんなつもりはなかったけれど、ちょっぴり、そんな気持ちになっていたのかも? 少なくとも、自分自身にはイライラしていたのかもね。

     私はたぶん“表現”したいんだろうと思います。でも、声楽ではそれが出来ない。出来ないけれど、歌は好き。好きだけれど、なんかすっきりしない。…とかまあ、そういう感じだったのかもしれません。

     仕事が忙しくなり始めたため、ちょっと鬱憤が溜まっていたのかな? だとしたら、皆さんには申し訳なかったです。

     大方のストレスは、大声で歌うことで解消されるのですが、それでも残るのが、表現欲なのかもしれませんね。で、今は、そこが満たされていない…ってわけです。

     分からないものは分からない、出来ないものは出来ない、ってスパッと心を切り換えてしまえば、たぶん問題解決なんでしょうね…とグチグチ書いてみる(笑)。

  6. すとん より:

    椎茸さん

     私は日本歌曲であれ、外国曲であれ、歌いたくない曲は歌いません。もちろん『食わず嫌い』と言う事はあるので、知らない曲を拒否するつもりは全くありません。趣味にあわない曲、メロディーや歌詞や和音進行が難解な曲は、敬して遠ざける傾向があります。

    >日本歌曲の中に、詩自体が難解なものが数多くあるのが解せません。

     日本歌曲は、エンタメではなく、芸術ですからね。わざと難解な作風なんだと思います。つまりペダンチックな歌が多いと個人的には思ってます。その点、イタリアものは、アリアであれ、歌曲であれ、その根本にエンタメ精神があるのがよく分かるので、好きです。ま、私はそれだけ俗っぽい人間なんだって事です。そういう部分が、前の声楽の先生に嫌われていた部分なんだろうと思います。私は、クラシックとポップスは地続きだと思っていた人ですから(笑)。

     私は、歌っている人も、聞いている人も、楽しみを見つけられる音楽が好きです。難解なものは、他の人に任せたいと思ってます(笑)。

  7. すとん より:

    おぷーさん

     おっしゃる通り、日本に居たままでは、ヨーロッパの雰囲気と、そこで生み出された諸芸術の旨味は、到底分かるものではないと思います。私は幸いにも、キリスト教にもギリシャ神話にも、普通の日本人と比べれば、数倍馴れ親しむ環境に育ちましたので、宗教曲はそれなりに心に沁みて感じる人ですが、それでもやはり、ぶ厚い日本の雰囲気に取り込まれて、息苦しくなる事があります。

     ちょっとだけ、他の人よりも分かるため、自分の足りなさや鈍さに絶望してしまうのですよ。

     音楽を真剣に学ぶなら、やはり留学をして、そちらの空気を吸って、水を飲まないとダメなんじゃないかって思うようになりました。ダメってのは、最低限の条件を満たしていないって意味の“ダメ”です。

     まあ、私は、アマチュアですし、リアルな生活を捨ててまで留学するわけにはいきませんし、だいたいオジサンなので、日本に留まったまま、マイペースで自分なりに学び続けていきますが、もしも30歳若かったら、絶対にヨーロッパに旅立ってしまった事でしょう。

     文化の違いって、大きいと思います。先方の表現を受け止めるだけでも難しいです、ましてや、その様式に則って、自分を表現していくのは、本当に難しいです。だから、猿まねしちゃうんだよね(笑)。

     でも、あきらめない。だって、趣味だもん、楽しみだもん。ちょっぴり凹むけれど、だからと言って、好きなものは好きなんだから止められません(笑)。

  8. すとん より:

    operazanokaijinnokaijinさん

     夏目漱石の言う事は、全くその通りなんだと思います。彼は、英国留学者ですからね、あっちの空気がなんとなく分かるんでしょうね。だから、日本で上演されるシェークスピアに違和感を感じたんでしょう。

     異世界に住む人間には、なかなか本物は理解しづらい…って事なんだと思います。理解って、その入口は“理屈”なんですが、結局、終点は“理屈じゃない”って事、多々ありますしね。

     モーツァルトやベートーヴェンにしても、“清らかな芸術家”である以前に“音楽業界人”であり“一人の個人事業主”だったわけで、彼らの芸術活動は、リアルな意味で『生きるための方便』だったわけです。だからこそ、我々の心に突き刺さるわけですが…。

     芸術とエンタメについて、考えるのも、また一興でしょうね。

     私の週末は、花見と発表会見学かな? 久しぶりに東京に出かけるつもりです。ちょっぴり楽しみにしています。

  9. 玉ちゃん より:

    発声の問題をおおよそ解決して歌唱技術がある程度身につけば自分なりの歌い方が出来ると思います。楽譜を通して作曲者と向かい合えば、例えばトスティの「最後の歌」は自分はこう歌いたいとか、自分が歌うとこうなるというように。また音楽的な表現力があればその曲の雰囲気を楽しんだり、遊んだりできるのではないかと。しかしそこまでなるには発声に迷いがあっては難しいと思います。
    つまり「俺のベルカントはこうだ」と自分の声に自信を持って歌えるかどうかですね。そんな気がします。アマチュアは若い頃から声楽を始めて20年、30年と迷いっぱなしの人が多いですね。知り合いに40年歌をやってやっと発声がわかるようになったと言う方がいます。びっくりです。

  10. だりあ より:

    おはようございます。
    すとんさんのお考えに共感を持って読みました。そして、最後のほうの「いつの日か、自分でなければ歌えない歌って奴を、歌えるようになりたい」、とお書きになっていることばが、胸にしみました。音楽を仕事にしている方たちはもちろん自分の歌であることを誇りに演奏していらっしゃると思いますが、音楽を趣味にして師匠について学び続けているものたちすべての心の叫びでもあるのだと思います。

    自分の心のままに歌いたい、奏でたい・・・だけど、技術がともなわないのでもどかしい、「私の心」はここにあるのに、なぜ「私の音」に乗ってとんでいってくれないのか、このフレーズの悲しみを私の悲しみとして歌いたい、吹きたい、って、ほんと、思いますよねえ。

    でもできない、できないからできるようにしたいから、レッスンを続けよう、続けるんだーい、と心の中で思いながら音楽やってます。

    ほんとに、私の先生は「ああせいこうせい、ここはこう、そこはこうこうして」、などなどこまかいことにうるさいです。けど、あれこれ言ってもらえて自分が、あれこれと努力している姿が好きなんです。すとんさんも、きっとそんなご自分がお好きなのではないでしょうか。そしていつか自分の歌を、・・・目指してがんばっていきましょう。

  11. すとん より:

    玉ちゃんさん

     おっしゃる通り、発声の問題を解決して、歌唱技術が伴うようになれば、自分なりの歌い方は出来ると思います。今現在、歌唱技術が不十分な身で、こういうのも口幅ったい事なのですが、私が感じている問題は、技術的な側面だけでなく、心の問題、つまり表現欲の問題があります。

     つまり、自分の心と共鳴する魂を持った曲との出会いです。

     どんな曲でも歌える技術は欲しいですが、どんな曲でも歌いたいわけじゃないのです。自分が歌いたいと思える歌との出会いが、必要かなって思います。

     でも、出会いの前に技術的な上達が必要だと言う点には激しく同意します。

    >アマチュアは若い頃から声楽を始めて20年、30年と迷いっぱなしの人が多いですね。

     たぶん、アマチュアに限らず、プロでも、およそ[クラシック系]歌手という人達は、、クチに出す出さないの違いはあっても、いつまでも発声には迷いが付き物なんじゃないかって思います。もちろん、その迷いのレベルも人様々だし、プロともなれば、そういう事自体公言しないのだろうとは思いますが…。

     何かのドキュメンタリーで、晩年のパヴァロッティが、毎日、声楽コーチと一緒に発声練習をしている様子を見ました。あのパヴァロッティでさえ「これでいいのか、この発声で正しいのか」と毎日のようにチェックし、修正していたそうです。あのクラスになっても「発声はこれで良し」という事はないみたいです。ならば、私のような趣味のオジサンは、日々迷いっぱなしの間違いっぱなしでも仕方ないです。

     あと“発声が分かる事”と“正しく発声できる事”は違います。パヴァロッティの場合は『分かるけれど、正しいかどうかは毎日修正』なんだろうと思います。私の場合は『分からないし、出来ないので、毎日暗中模索』です。うん、だいぶ違うね。

  12. すとん より:

    だりあさん

     技術も問題ももちろんあるけれど、イタリアの曲を、イタリア人の心で歌えない、日本人の自分がここにいる事の、悲しさって奴があります。イタリア人の心で歌えないなら、せめて日本人の心で歌おうとした時の、イタリア人と日本人の心の変換に必要なプロトコルが手元にないのが、切ないです。プロトコルどころか、その問題に関する自分の心の引き出しを開けた時に、引き出しの中が空っぽだったりした時には、ほんと絶望しちゃいますね。

    >私の先生は「ああせいこうせい、ここはこう、そこはこうこうして」、などなどこまかいことにうるさいです。

     先生は、おそらく、我々の引き出しの中が空っぽな事に気づいてるんだと思うんです。だから、とりあえず、空の引き出しに荷物を詰め込んでくれているんだと思うのです。まあ、その荷物は、自分のものではなく、先生の荷物を借りて詰め込んでいるわけですから、違和感がないというわけには行きませんが、空っぽなままよりは、ずっとマシだと思います。

     表現には、表現方法の問題と、表現内容の問題の二つが常に存在します。この二つが解決しないと、自分なりの歌って歌えないんだろうと思います。自分が頑張って解決できる範囲の問題は、なんとかクリアしたいですね。主に技術的な側面の問題が多いでしょうが。

     一方で、空っぽな引き出しの中身にも、色々と詰め込まないといけませんね。やることだらけで、それはそれで楽しいです。

  13. YOSHIE より:

    同じ日本人同士でも江差追分と沖縄エイサーのマインドもかなり違うと思うので、
    あまり深刻にならなくていいと思うのですが、ってイタリア人って、その正しく「気にしない」マインドじゃないでしょうか?

    太陽輝く国で人生を楽しみ、食を楽しみ、ざっくりと、みたいな(イタリア人に失礼かな?)

    そりゃミラノとナポリは違うでしょうけど。

    すとんさんは、太陽サンサン潮風の湘南に住んでるだけで結構イメージしやすいのでは?

    少なくとも暗くて寒くて
    そこかしこピカピカに掃除が行き届いて、ケチんぼなドイツ風に成りきるよりは簡単な気がします(除:南ドイツ) チガウカ・・・

    気にしない Vabbe’
    http://m.allabout.co.jp/gm/gc/77841/3/

    三浦の気候風土はイタリアに似てるhttp://shonanstyle.com/modules/column/index.php?content_id=1&page=print
    やっぱ似てるでよ♪

    縄文時代にプロト・フェニキア(ヴェニス)人が日本にやって来たとか来ないとかいう話(トンデモ系?)もあるので、ま、どこか繋がってるですよ、多分。

  14. 第九を歌っています より:

    私も外国の音楽の心や言葉、宗教には壁があります。またイタリア人が気持ち入れすぎる歌唱にはついていけません。

    一方、音楽は世界共通語でもあります。輝く美声で華麗な音楽表現の歌唱には魅了されます。
    ドミンゴやパバロッティがいい例です。
    私は彼らを参考に練習し、少しでも近ずけたらいいと思っています

  15. ひょっとこ より:

    自分を表現、ってことで。
    なんとなく、けだるくボッサ。
    クラシカルな声楽は特に良く分からないので。

    Desafinado/João Gilberto
    http://www.youtube.com/watch?v=g6w3a2v_50U

    Chega de Saudade/João Gilberto
    http://www.youtube.com/watch?v=Uk00Vcld2A0

    Antonio’s Song — Down in Brazil/Michael Franks
    http://www.youtube.com/watch?v=YBeY5plMRE8

    見つからなかったけど、UAの「アントニオの唄」は
    オリジナルに肩を並べるくらいお薦め。

  16. すとん より:

    YOSHIEさん

    >太陽輝く国で人生を楽しみ、食を楽しみ、ざっくりと、

     ほぉ~、私がまさにそんな感じ、私はドイツ気質と言うよりも、イタリア気質かもね。それに湘南は、おっしゃるとおり『太陽サンサン潮風』だものね。

     三浦半島がイタリアそっくりって…たしかにそうかもね(笑)。ただ、イタリアはトマトだけれど、三浦はダイコンってところが違うね。でも、なら、鎌倉がミラノで、横須賀はローマって事になるのかな? で、城ヶ島はシチリア島?

     イタリアとかイタリア人には、なんとなくシンパシーを感じる私だけれど、でも、なまじシンパシーを感じるから、その違いが気になる…ってところかもしれません。

     その違いってのが…彼らがナンパすぎる事かな? あの、イタリア男の恋愛観にはついていかれません。そして、歌って、その恋愛がテーマだったりするから厄介なんですよね。 だいたいね~、私は…自慢じゃないけれど、自分から女性に声をかけた事なんて無いよ、ナンパなんてムリムリムリ…。だいたい、見知らぬ女性とはクチなんかきけないもの、これでも日本男子だから、シャイなんだよね~。そこが、イタリアンな男とは違うところなんだよ。

  17. すとん より:

    第九を歌っていますさん

     そうそう、イタリア人は気持ちを入れすぎる所があるかも。何にせよ、濃いんですよ、彼らは。だから、あれだけナンパにも熱心になれるんでしょうね。

     イタリアは確かに気持ちが濃いです、でも、その濃さが無くなったら、イタリアじゃないのかもね。

     ドミンゴやパヴァロッティは、本当に美しい歌声ですね。彼らの歌を聞いていると、言語の違いなんて、気にならなくなってしまいます。そういう点では、ワールドワイドな魅力を持っている声なんでしょうね。

     ドミンゴからは、その表現力を、パヴァロッティからは、その発声方法を、学びたいです。

  18. すとん より:

    ひょっとこさん

     本当にサンクスです。一瞬で、心がいやされました。

     そうかあ~って思いましたよ。私、最近、ジャズやボッサを吹いてなかったんですよ。だから、表現欲が溜まっていたのかもしれません。最後にジャズセッションをしてから、もう一年近く経つもんなあ…。

     クラシックは、もちろん大好きなんだけれど、ジャズやボッサには、それぞれの魅力があるわけだし、特に自分を表現するという点では、ジャズなんて、まさに自分そのものを出し切らないといけないわけだし…。ああ、ジャズセッションに行きたくなりましたよ。行っちゃおうかな(でも、週末、予定びっしりだぉ~:涙)。

  19. カスミ草 より:

    難しいコメントは他の方々にお願いし、私はチョッと息抜きを。
    今日、武蔵野音大演奏会を、聴いてきました。ピアノはアッチに置いておいて、若く美しい女性の声楽を聴きました。アベマリアとフィガロの結婚は、とても美しく聴こえました。きっと奥様も、こんな感じで歌って見えるんですね。
    フルートも綺麗でした。この頃プロのフルーティストの演奏を時々聞くのですが、突然気が付きました。【私の音色はフルートの音色では無い】って。下手なのは当然ですが、【フルートの音色では無い】って。アンは一流ですから、悪いのは私。
    このイバラの道は、すとんさん達も一度は通られた道なのでしょうか?
    幻の、私だけの音色は、どこに有り、いつ会えるのでしょうね。(明日の練習が怖い。でも、頑張ろっと。)
    三種類17匹のメダカ達は、一緒に元気に游いでいます。マズマズかな。

  20. すとん より:

    カスミ草さん

    >突然気が付きました。【私の音色はフルートの音色では無い】って。

     ああ、気付いちゃいましたか…。

    >このイバラの道は、すとんさん達も一度は通られた道なのでしょうか?

     今、通っている最中です。なんとか抜け出せそうな感じはするのですが、今は相棒(アゲハ)がいないので、小休止中です。

     フルートという楽器の音色は、奏者次第という部分があります。奏者自身に理想とする音色があって、そこに近づくために日々研鑚を積んでいると、やがて楽器もそのように鳴り出すのだそうです。そうでなければ、フルートはただの金属の笛でしかないのです。

     フルートの練習は、音色作りに始まって音色作りに終わると言われるほど、音色を作っていく事が大切な楽器なんだそうです。でも、多くのアマチュアフルーティストさんたちは、そこに気付かないままなんですよ。気付かないまま、フルートを吹いていたりします。

     では、なぜ、その事に気付かないのかと言うと…美しいフルートの音を聞くという体験に乏しいからです。あるいは、聞いていても、右から左へ聞き流してしまい、その心に残っていないからです。ですから、ご自分のフルートの音色に無頓着なんです。

     でも、それは仕方のない事なのかもしれません。だって、本当に美しいフルートの音色を知らなければ、理想とする音色のイメージすら持てませんもの。そして、フルートの本当に美しい音色って、今のところ、録音すると飛んで行ってようなデリケートな部分で形作られているからです。だから“生でたくさん美しいフルートの音を聞く”事でしか、美しいフルートの音色を知ることはできないのです。

     その事に気付けば、すでに道半ばです。後は、ご自分のフルートの音色をいかにフルートらしくしていくか…それだけの話です。私も頑張ってます、カスミ草さんも頑張れ。

  21. Cecilia より:

    ちょっと前にアメリンクが歌う日本歌曲を聴きました。アメリンクが日本歌曲、というだけで拍手ですが、発音はやはり外人の日本語だし、声はさすがですが日本語に合ってない感じがしました。私たちが歌う外国のアリアや歌曲もあちらではそんな風に受け止められてしまうのでしょうね。
    それはそうと、先日東京でレッスンを受けましたが、県内の声楽仲間にぜひ先生の声楽レッスンを体験していただきたいと思ったことが実現することになりました。
    基本的にグループレッスンですが、個別の時間もあり、お互いを聴講できます。
    先生と皆をつなぐため気を使いますがとてもわくわくしています。さすがに頻繁にというわけには行かないと思いますが、こういうことも可能になるというのはありがたいことですね。

  22. すとん より:

    Ceciliaさん

    >私たちが歌う外国のアリアや歌曲もあちらではそんな風に受け止められてしまうのでしょうね。

     きちんとその語学の勉強をした人でない限り、そんな感じになってしまうのだと思います。でも、それはある程度仕方のない事です。あとは、それで自分や観客が許してくれるかどうかだけの話だと思います。

     ワタシ的には、私自身の歌唱に関しては、そういうレベルでは許したくないのですが、許さざるを得ないという、ジレンマを感じています。

     グループレッスンの件、おめでとうございます。一歩前身って感じですね。最初は、贅沢は言いっこ無しで、グループで始めれば良いのですよ。やがて、色々と状況も変わってくるでしょうから、そうしたら、その状況に合わせて、レッスンの形式も変えていけばいいのです。とにかく、前に進むことが大切ですし、定期的にレッスンを受ける事が大切だと思います。

  23. Velvettino より:

    25歳くらいまでバンド活動していましたが、ロックもモノマネでしたよ!(笑)
    私もポップス、、、ロックとクラシックが地続きですので、今もそのままモノマネで御座います。
    コスプレ感覚で楽しいです。

    でももう少しよく考えてみると、ものまねなのは「様式」であって、心は自分自身、それも嫌な自分を出しているな、と思います。
    過去には小説を書いたり漫画を描いたりしてきましたが、そのころも、ロック時代も、今も、実はコンプレックスや悔しさの放出をしているようで、いやーまーだからストレス解消になるんです、といった感じです(笑)

  24. すとん より:

    Velvettinoさん

     そうそう、Velvettinoさんのコメント読んで思い出した事があります。

     私が若い頃は、サザンオールスターズがアイドルグループのように人気があって、カラオケに行くと、女子にもてたい男子は、サザンの曲を一生懸命に歌ったものです。で、その歌は…当然、ヴォーカルの桑田の歌真似で、あの独得の発音発声を真似して歌って、カッコつけていたわけです。ほんと、あの頃は、どのカラオケにも、桑田のニセモノがたくさんいたんです。

     私は同郷という事もあって、サザンの曲にはすごくシンパシーを感じていたし、実際、彼らの曲は素晴らしい曲も多かったので、私もカラオケでは歌わせてもらったけれど、一度たりとも、真似はしなかったよ。桑田さんには似ても似付かないくらいに、きちんと活舌よく歌いました。「歌は歌うけれど、真似じゃなくて、私なりの歌い方で歌うんだ!」と意地になってました。

     あの頃から、誰かのコピーでいる事に我慢ならない私だったのかもしれません。

     若い頃から、厄介な人間だったんだな、私って(笑)。

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