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O del mio amato ben(ああ、私の愛する人の)を訳してみた

 発表会で歌う『O del mio amato ben(ああ、私の愛する人の)』を訳してみたよ。辞書を引きひき、わずかばかりの文法知識を元に訳した直訳と、そこから日本語として自然に感じられる意訳の二種類で訳してみた。

 いやあ、外国語は難しいね。一応、キング先生に提出したけれど、先生も細かいところまではチェックしていないので、もしかすると間違いがあるかもしれないけれど、それは、まあ、愛嬌という奴で(笑)。

 訳した感想は…、この歌は女性も歌うけれど、でも、歌の主人公は間違いなく男性でしょ? だって、歌の主人公はすごく女々しいよ。これだけ、未練たっぷりで女々しい女性なんていないでしょ。今も昔も、女はタフだもの。だいたい、捨てられても忘れられずにウツウツとしているなんて、女々しい男のやることだ。よって、この歌の主人公は男性に決定(笑)。

 それと、訳してて思ったのは、これは布施明の「積み木の部屋」(古い!)と同じ世界だなあということ。つまり「ああ、私の愛する人は」は、イタリア版「積み木の部屋」というわけだ。もっとも「積み木の部屋」は四畳半の物語だけれど、こっちは広い一軒家が舞台。住宅事情の差がアリアリだなあ。

 あと、感情表現が豊かというか、おおげさというか、濃いなあ…つまり感情過多?だよね。情熱的と言えば言えるけれど、女に逃げられたくらいで、この嘆きですか? あんた、大丈夫? と声をかけてあげたくなります。

 でも、これだけ派手に嘆いていても、全然ヘーきなんだろうね、イタリア人だから。

 さあ、どうやって歌おうかな? おおげさな歌をベタにおおげさに歌うか、おおげさな歌だからこそ、控え目に歌って、悲しみをウチに籠もらせて熟成させるか…。ただ、会場のお客さんたちには訳詩などの提供はないという前提で考えるなら、ベタな方向かな?って、今は思います。

 だいたい、楽譜を見ると、ピアノ伴奏からして、ベタベタと言うか、ウェットだし(大笑)。

 では、すとんによる「O del mio amato ben(ああ、私の愛する人の)」です。原文・直訳・意訳の順番で並んでます。

O del mio amato ben perduto incanto!
 (直訳)ああ、私の愛する人のなくなってしまった魅力よ!
 (意訳)もはや、あの人はここにはいない。
 
Lungi e dagli occhi miei chi m’era gloria e vanto!
 (直訳)栄光と誇りであったあの人は、今や私の目から遥かに遠くにいる。
 (意訳)美しい思い出と幸せな日々…しかし、今やここには、あの人の面影さえない。
 
Or per le mute stanze sempre la cerco e chiamo con pieno il cor di speranze…
 (直訳)だが、音のない部屋々々で、私は希望に満ちあふれた心で、いつまでも探して呼び続ける。
 (意訳)ひとりぼっちの部屋にたたずみ、あの頃の思いを込めて、今はいないあの人に向かって、何度も呼びかけてみる。
 
Ma cerco invan, chiamo invan!
 (直訳)しかし、探しても虚しく、呼んでも虚しい!
 (意訳)こんな事ではいけない。無駄な事だと分かっているのだが…

E il pianger m’e si caro, che di pianto sol nutro il cor.
 (直訳)泣く事が本当に私には慕わしい、泣く事だけが私の心を育てている。
 (意訳)今はただ涙。それだけが私の生きている証しなのだ。
 
 
 
Mi sembra, senza lei, triste ogni loco.
 (直訳)彼女がいなければ、すべての場所が悲しく思える。
 (意訳)見るものすべてが悲しみの色に染め上げられている。
 
Notte mi sembra il giorno, mi sembra gero il foco.
 (直訳)昼は、私には、まさに夜のように思われ、火も氷のように感じられる。
 (意訳)何も感じない、何も分からない。
         ※直訳を訂正しました(2012年9月4日)
 
Se pur tavolta spero di darmi ad alta cura, sol mi tormenta un pensiero:
 (直訳)たとえ、時々、その他のなぐさめを望んだとしても、たった一つの考えが私を苦しめるだけだ。
 (意訳)他の事など何も手につかない。ただ、時とともに、楽しかった事ばかりが思い出される。
 
ma, senza lei, che faro?
 (直訳)しかし、彼女なしで何を導き手とすれば良いのだろうか?
 (意訳)もはや、夢も希望も何もない。うつろな人生。
 
Mi par cosi la vita vana cosa senza il mio ben.
 (直訳)いわば、私の愛する人がいなければ、人生は中身のないものである。
 (意訳)なぜなら、あの人が去った日あの日に、私の心は死んでしまったからだ。

 ようやく『練習禁止令』が解けたので、ついに音取りと暗譜が開始です。事前にタンとリズム読みと翻訳をしたので、今回の音取りは比較的簡単にいけるかな? なんてね。

コメント

  1. 美紀 より:

    私はこの曲、亡くなった家族またはパートナーを思って歌うような気がするんです
    別れた恋人を思っているにしては音楽が美しすぎるんです
    恨みや、後悔が感じられなくて、
    純粋に自分の中に生まれた空白をいとおしんでる感じ

  2. すとん より:

    >美紀さん

     なるほど、ならば『妻に先立たれた夫の歌』となるわけですね。たしかに、音楽は美しすぎるし、恨み節はないし…。生き別れではなく、死に別れ。その線は十分にありうるわけだ。

     メロディの音域が低めなのも、主人公の年齢を言外に表現しているのかもしれないし…。うむうむうむ、ありうるなあ。

     日本の恋歌はあくまで現役世代、もっと言っちゃえば若者の歌中心だから、最初からそういう先入観を持って聞いてしまいました。

     実際に歌を自分に引きつけて考えてみると、私自身が人生後半戦な人ですから、今更「恋人と別れて寂しい」という気持ちよりも「妻に先立たれて自失呆然」の方が、よりシンパシー感じます。

     ただ、日本の男なら、妻に先立たれても泣かないし、歌わないような気がする…。悲しみを心の箱にしまって、フタを閉じて鍵をかけてしまいそうな気がする。不器用ですから。そういう意味では、やっぱりイタリア野郎だな。

     さあてと、どっちでも行けそうな気がするなあ…。どっちで行こうかな…。

  3. 橘深雪 より:

    和訳、お疲れ様でした。大変な作業だったと思います。
    直訳だと、意味不明な部分があるのですね。
    今まで自分で訳すことはしなかったのでビックリです。
    言葉を意識して歌う方が、感情込めて歌えるからいいのでしょうね。
    練習禁止令がとけた分、張り切りすぎないようご注意下さい。

  4. すとん より:

    >橘さん

     学校で習った外国語というわけではなく、『テレビ イタリア語講座』を数カ月見ただけの語学力で訳すのは、大変でした。辞書に載ってない単語も結構あったし…。

     声楽をやっている以上、イタリア語とは縁が切れませんから、どこかでしっかり勉強しておく必要はあると実感しているのものの、なかなか実践できずじまいにいます。イタリア語の他にも、ドイツ語とフランス語とラテン語も、声楽では必須の言語なんだよねえ…。ある程度できないと困るわけで、はあ~っという気分です。いっそ「イタリア語以外は歌いません」宣言しちゃった方が楽か?

    >言葉を意識して歌う方が、感情込めて歌えるからいいのでしょうね。

     おっしゃるとおりです。特に今回は“歌曲”なので、音楽よりも詩の方が優先順位が高いのです。音楽は詩を伝えるための道具の一つでしかありません。だから、歌曲では詩の勉強が必要なのです。

    >練習禁止令がとけた分、張り切りすぎないようご注意下さい。

     いえいえ、張り切るどころか、臆病になってビクビクしてます。これじゃいけないだろうと自分で思ってますが…。

  5. 名無し より:

    直訳が大事なとこで間違ってますよー
    昼も夜に感じられる、だと思います。というか、そうです。
    夜を昼に感じられるのなら、相当テンション高いですよ。

  6. すとん より:

    名無しさん

     あら、本当だ。間違えている。もっとも、この間違い、2009年当時、うっかり間違えたのか、真剣に間違えたのか、今となっては覚えていないのが悲しいです。ってか、ご指摘のとおり、イタリア語うんぬんではなく、日本語にした段階で、間違いに気づかないとダメですね。さっそく、本記事の方を、訂正しておきます。

     どちらにせよ、ご指摘、感謝です。次からは、コメント下さる時は、仮のモノでも結構ですから、ハンドルネームを入れてくださいね。「名無しさん」とお呼びするのは、心が痛みます。

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