いや、むしろ、ナタリー・デセイのヴィオレッタを見てきました…と言うのが、一番適切な言葉かもしれません。とにかく、ナタリー・デセイというオペラ役者のすごさを堪能してきました。
私は、滅多な事では感動しないし、ましてや、涙など流さない、心が極めて鈍感な人間なのですが、このオペラでは、各幕ごとに、最低一回ずつ、不覚にも涙を流してしまいました。オペラを見て泣いたなんて、人生始めての体験かもしれない。以前(ワーグナーの「神々の黄昏」の日本初演を見て)腰を抜かした事はあったけれど…。
とにかく、痛くて、重くて、悲しくて、見ていて心が苦しいオペラでした。
演じられたのは、世にも有名な、ヴェルディ作曲のオペラ「椿姫」だったし、そこで流れている音楽も、歌われている歌詞も、私たちがよく知っているものです。
だいたい「椿姫」というオペラは、私にとって、今までも、テレビやDVDはもちろん、実演舞台だって、何度も見てきていて、作品の隅々までよく知っている定番オペラのはずですが、今回のオペラを見終わった後の感覚は、私にとって、新鮮なものでした。
…こんな椿姫、今まで見たこと無い…
音楽も歌詞も全く今までのものと同じなのに、オペラの内容が、今までの私が慣れ親しんだ、あの“椿姫”とは、ガラリと違っていたからです。
もちろん、ヴィリー・デッカーによる演出が、伝統的なものではなく、作品が演じられる時代を作曲家が生きていた時代に変更したため、衣裳などが現代的で目新しいという事はありますが、私が思ったのは、そんな事ではありません。実際、このデッカーによる演出の「椿姫」を見たのは、始めてではありません。以前、ネトレプコ主演で同じ演出の「椿姫」をすでに(テレビで)見ていた私です。その時は「ああ~、なんという、あざとい演出なんだ。これなら、今までの伝統的な演出の方が、ずっとマシだよ」と思いましたし「これは私の知っている“椿姫”じゃない」とも思いました。プリプリ怒って、途中で見るのを止めた記憶があります。まあ、当時の私には、この演出は、とても受け入れられないものだったわけです。
その時は、この演出に怒りを感じたものです。念のために書いておきますと、別に主演のネトレプコが悪いとは思いませんでした(正直に言うと、良いとも思いませんでした。ただ、ネトレプコはヴィオレッタじゃないな、とは思いましたが:笑)。演出の奇抜さが、すべてをぶち壊していて、ダメじゃんと思ってました。
なのに、あれから数年たって、全く同じ演出による同じ演目なのに、主役ソプラノが変わっただけで、オペラの味わいそのものが、大きく変わってしまいました。なんとも、不思議な体験です。
主役ソプラノの違いが、こうも演出の印象を変えてしまうものか…と思いました。これは(重ねて書きますが)ネトレプコが悪いと言うのではなく、デセイが素晴らしいのだろうと思います。少なくとも、演出家が意図したヴィオレッタを演じ切れたはデセイの方なんだろうと思いました。
さて、オペラ演出の感想を書きます。この演出では、登場人物の設定などが(おそらく)伝統的なそれとはだいぶ違うように感じられました。
まず、このオペラでの主役、ヴィオレッタは、高齢おひとりさま婦人です。オリジナルどおりの高級娼婦がどうかは定かではありませんが、何らかの職業婦人ではあるようです。彼女は、若干の蓄えはあるようですが、だからと言って、さほど豊かであるとは見えません。容色も衰え、死病(結核)を患い、友人もいなければ、身寄りもなく、オペラの開始直後から、すでに死相の浮かんだ顔で歩き、死に神にとりつかれています。死を受け入れ、絶望の人生の中で死んでいくしかないと思っていた矢先、思わぬ事に、若い男に口説かれ、彼との恋の中に、人生最後の幸せと絶望を感じて、人生の幕を閉じるのです。
彼女を愛したアルフレッドは、若い男です。直情径行な男で、彼の若い熱情で、彼を拒むヴィオレッタをムリヤリに口説き落とします。若く性急で一途な彼は、精神的にはまだまだ子どもであって、結局、ヴィオレッタやジェロモンたちオトナの思惑に惑わされ、翻弄されていきます。
彼の父、ジェロモンは、息子の彼女と、さほど年の変わらぬ中年男性です。彼からすれば、自分のかわいい息子が、父である自分と同年配の年上女に、騙されて貢がされている…とでも思ったのでしょう。そして、彼は分別ある大人です。息子の馬鹿さ加減に呆れつつ、ヴィオレッタの報われぬ愛情に同情しつつも、自分たちの家のために、ヴィオレッタを落ちていくままに見放し厄介払いをし、アルフレッドを真っ当な人生に引き戻します。
そして(通常の演出では登場しない)死に神は、常にヴィオレッタに付きまとい、彼女が最期の時を迎えるまで、静かに彼女を見守っています。彼女にとって、本当に親しい人は“死に神”だけ…だったのでしょう。また、通常の演出では、彼女の(娼婦としての)客引きの道具として使われる白い椿の花が、この演出では、ヴィオレッタ自身の真心の象徴として用いられるのも、面白いです。
演出も通常のものとは違い、興味深いものではあるものの、とにかく、今回のオペラは、ヴィオレッタを演じたデセイがすごいです。彼女の一人オペラと言ってもいいくらいに、デセイ色に染まった「椿姫」でした。
私は今までに色々なソプラノが演じるヴィオレッタを見てきましたが、本当に死病を患っているヴィオレッタを見たのは、彼女が始めてです。普通のソプラノさんは、臨終のシーンでも「こんなに元気なのに死ぬわけないじゃん」としか思えないのですが、デセイのヴィオレッタは登場直後から、すでに重病人で今にも死にそうなのです。いつ死んでも不思議じゃないほど、最初から弱っているヴィオレッタなのです。だから、死に神に取りつかれているのも自然だし、その死にも説得力があるんです。
いや、その死に向かう演技だけではありません。彼女の一つ一つの動作や表情が、悲しくて凄まじいヴィオレッタを表現しています。
それほどに感銘深い公演でした。
私が今まで見た「椿姫」の中でも、最高級の「椿姫」が、今回のデセイの「椿姫」です。
そこまで私にとって素晴らしい公演でしたが、では、この公演は、万人受けするかと言うと、少し疑問です。
まず、音楽的にはキズが多くあります。オケが重くて、歌手の歌についていけない事が多々ありました。また、主役のデセイは演技に力が入りすぎ、しばしば発声をヘマっています。テノールのボレンザーニや合唱たちは、デセイの演技にひきづられて、歌がしばしば荒れています。まあ、そういう点では、決してデセイにひきづられない、バリトンのホヴォロストフスキーは見事です…が、一人だけこのオペラに溶け込んでいないとも言えます。
また、演出もシンプルなのに過剰です。そして「椿姫」なのに、地味でモノトーンなのです。舞台に出てくる女性はヴィオレッタ、ただ一人。フローラなどの女声は…おそらくオネエ(つまり、ゲイ)という設定(苦笑)でしょう。あまりに、今までの「椿姫」とは違いすぎます。
なので、このデセイの「椿姫」は、今まで数多くの「椿姫」を見てきて、もう見飽きましたという方々に、おすすめなオペラです。色々な意味で、こんなにアクの強い「椿姫」は、初心者向きではありません。とにかく、今までの伝統的な「椿姫」からは、かなり遠く離れたところにある、きわものオペラです。
しかし、デセイは歌手と言うよりも、女優なんだね。とびっきり歌の上手い女優なんだね。
最後に、YouTUBEで今回のデセイの「椿姫」の画像を見つけたので、貼っておきます。曲目は、第一幕の最後のソプラノの有名なアリア「花から花へ」です。
通常の演出では、ヴィオレッタが、軽い気持ちで、いつもの仕事のスタイルとして、若いアルフレッドに白い椿の花を渡していますが、それが実は、いつもの営業行為ではなく、自分の中に芽生えた、真実の恋心から彼に白椿を渡してしまった事に気づき、自分自身の気持ちに困惑する…というものですが、今回の演出では、アルフレッドの好意に気づきながらも、自分たちが釣り合わない関係である事を知っているヴィオレッタを、アルフレッドが若い熱情で、情に訴え、口説き落とすというシーンになっています。
アリア一曲だけでは、なかなか分かりづらいとは思いますが、とにかく、すごいオペラを見てしまいました。今週いっぱいは、日本各地で上演されていますので、よろしければ、ぜひどうぞ。
しかし、こうなると、デセイによる通常演出版の「椿姫」も見てみたいものです。
さて、これで今シーズンのメト・ライブビューイングもお終い。全部は到底見れなかったけれど、でも、見ることのできた作品は、どれも素晴らしかったです。来シーズンも楽しみです。
来シーズンは…と言うと、これまた、楽しみな演目が目白押しです。ドニゼッティは「愛の妙薬」と「マリア・ストゥアルダ」でしょ、ヴェルディは「オテロ」「仮面舞踏会」「リゴレット」でしょ。ワーグナーは「パルシファル」(!)。そして、ベルリオーズの「トロイ人」もある。デセイはヘンデルの「ジュリアス・シーザ」に出演するそうです。そう言えば、毎年必ず、1公演には出演していた、プラシド・ドミンゴが来シーズンのラインナップの中に見当たりません。いよいよ、彼も終わりなのか…残念かも。
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コメント
5月21日にエクサンプロバンスの演奏がBSプレミアムで放送されますね♪
歌手のことはあまりわからないのですが、すとんさんの載せてくれた動画を見て、
こんなに動きながら歌えるなんて!!と驚きました。
ちょっと軽い感じの声も死が間近にある感じがしました。
オペラってお話がつまんなくて、あんまり好きではなかったのですが
以前同じ番組でロイヤルオペラのトスカを観て、ちょっとオペラも気になってきました。
いがぐりさん
>5月21日にエクサンプロバンスの演奏がBSプレミアムで放送されますね
ん? と思って、ググってみましたら、おお、デセイが別演出で「椿姫」を歌うのですね。そりゃあ、さっそく楽しみじゃないですか! しっかり予約録画(笑)して見なくちゃ! 情報、サンスクです。
>こんなに動きながら歌えるなんて!!と驚きました。
昨年の「ランメルモールのルチア」では、デセイは、ウェディングドレスの裾をめくり上げて、舞台の端から端まで、何度も走ってましたよ(笑)。それを見て、「走れるオペラ歌手がいる…」って絶句しちゃいました。普通、オペラ歌手なんて、突っ立ったまんまで、走るなんて無理な人たちばかりだもん。ちなみに、来年のジュリアス・シーザーでは踊るという噂です(驚)。
すごいなあ…。
>以前同じ番組でロイヤルオペラのトスカを観て、ちょっとオペラも気になってきました。
たしかに、以前のオペラのイメージは「デブが大声出して叫んでいる劇」というイメージがありましたが、最近はそのイメージを覆すようなオペラ歌手もたくさん出てきました。スタイルが良くて美人だったり、イケメンだったり、演技力抜群だったり、色々な人がいます。演目や演出にもよりますが、なかなか面白いものをたくさんあります。
チャンスがあったら、オペラもどうぞ。エクサンプロバンスの「椿姫」は、たぶん、期待していいと思いますよ。
演出が違う・・・ちゃんとそこまで見てませんでした^^;
ジャン・フランソア・シヴァティエさんという方の演出ですね。
衣装がとてもすてきなので期待しちゃいます♪
トスカを演じてられた歌手の方は肉感的で色っぽい方でした。
いつポロッと出ちゃうんじゃないかとヒヤヒヤしながら観てました(うそです 笑)
調べてみると、アンジェラ・ゲオルギウさんという方。
警視総監のブリン・ターフェルさんは悪徳代官みたいな風貌で
トスカに迫るシーンは「よいではないか、グヒヒヒ」って感じである意味おもしろかったです(笑)
ラ・フォル・ジュルネ、東京は無理ですがびわ湖ホールでもやってるようなので、来年はチェックしてみようかなぁ^^
でも、今年のはほとんどピアノだったんですよね・・・。
幅広く、いろいろしてくれたらいいのになぁ。。
いろんなことを教えてくれてありがとうございます♪
いがぐりさん
おお、シヴェティエさんの演出は衣装が豪華ですか、それは良いですね。ってか、一般的に「椿姫」は衣装やセットが豪華になるのものなんです。メトがあまりに地味なだけだと思います。
それにしても、ゲオルギウとターフェルですか、なかなか良い組み合わせの「トスカ」ですね。ま、たしかにゲオルギウのトスカは肉感的かもしれません。でも、トスカって役は、それくらいでちょうどいいのかもしれませんね。私も見たかったかも…。
びわ湖のラ・フォル・ジュルネもなかなか良さ気ですよ。ピアノが多いのは、東京も同じです。おそらく経費の問題もあって、ピアノが多いんだと思います。ピアノ音楽も良いのですが、せっかくの音楽祭ですから、色々な楽器による多彩なコンサートを見てみたいですよね。
録画した椿姫観ました。
泣きました~~~。最後の方はヒックヒックやってました^^;
今まで、観たことないってことでもないんですよ。
けど、最後まで観たことはなかったのです・・・。
というのも、おもしろく感じないんです。途中で飽きちゃうんですよね・・・・。
ところが!これは全然飽きなかったです。
お芝居の要素が大きかったからだと思うんですが、どうでしょ?
余談ですが、椿姫に好意を寄せる男爵役の方、かっこよかったです(笑)
いがぐりさん
いいなあ~、私も録画したけれど、忙しくて、まだ見てません。なにしろ、二時間半のオペラですから、万難を排して、時間を聖別できた時にみるつもりです。来週かな? 再来週かな?
で、泣いちゃいましたか。やっぱなあ…。録画中に二幕第1場をちょっとだけ見たんですが、熱演していましたものね。あの調子で最後までいったら…楽しみって思ってました。
この公演は実はDVD化されているのですが(それもアマゾンで購入すると2000円ぐらい)、リージョンがアメリカ向けになっているので、国内では見られないのが残念です。