実はね、そうなんですよ。でもそれで何か困った事があるのかと言えば、別に無いわけです。中卒程度の学力があれば、社会生活を送る上で特に困った事は、普通、発生しないからですし、もっとはっきり言っちゃえば、中卒程度の学力すら危ない人も世の中には大勢いるけれど、彼らも基本的には all right なんですよ。
だから高校以上の学力というのは、人生の余力であって、教養と呼ばれる部分になっていくのだろうと思うのです。いきなり、こんな話をしちゃうのは、今の日本の社会が、あまりに学歴を重視し、そのくせして学歴の中身に無頓着すぎるなあって思うからです。
以上の話は、高卒であっても、きちんと教育が施されずに、ほぼほぼ中卒程度の学力のまま卒業したり、大卒であっても、きちんと教育が施されずに、ほぼほぼ中卒程度の学力のまま卒業している人が大勢いるって話の…いわゆる“底辺高校”問題であったり“Fランク大学”問題もありますが、これらが今回の記事の目的ではありません。この手の問題については、また別の機会に語れると良いかなって思ってます。
私が今日、話題に取り上げたいのは、普通の学力があって、学校でも普通に学んで、必要な科目を学び終えて、きちんと高校なり大学なりを卒業した人の中にも、中卒程度の学力しかない人が、実は大勢いるって話です。
「おバカちゃんたちの話ならともかく、そんなわけないだろ?」
いやいや、実はそうなんです。で、その事実に当人たちも気づいていなかったりするんです。
分かりやすく、大学の話から始めます。大学って、それぞれ学部ごとに専門科目を中心に学びます。だから、例えば、経済学部に行った方は、お金の動きを中心にこの世界の有り様をしっかりと学びます。医学部に行った方は、お医者様になるべく、微に入り細に入り病気とその治療法について学びます。でも、それ以外の事については、ほとんど学びません。教養科目として、若干の科目については学べますが、それも数ある科目の中から、ほんの少しの科目を選択して学ぶものです。だから経済学部に行った方が有機化学について学ぶ事は、ほぼほぼ無いし、医学部に行った方が哲学について学ぶ事はほぼほぼ無いわけです。
「でもさ、たとえ大学では習わなくても、有機化学は高校の化学の時間に、哲学については倫理の時間に学ぶわけでしょ? だから高校で学んでいるんだから、中卒程度の学力ってのは、言い過ぎじゃないの?」
残念な事に、高校では、化学も倫理も選択科目ですから、別に学ばなくても良いのですよ。そして、今の高校では、かなり多くの科目が選択科目になっていますから、昔々の生徒たちが普通に学んだ科目も、今ではその多くが選択科目になっている事もあって、学ばずに卒業できちゃうのです。
と言うのも、高校のカリキュラム(時間割のことね)は、実は全国共通ではなく、文科省によって、ある程度の枠組み(ってか、最低限の枠組み)は決められているけれど、実際のところは、各高校まかせになっています。ですから、高校ごとに卒業までに学べる科目に違いがあるのです。
俗に言う進学校では、優秀な生徒が多いせいもあるし、大学入試の際に多くの科目が試験に課せられる事もあり、割と偏りの少ないバランスの良い昔ながらのカリキュラムになっている学校が多いです。こういう学校では、高校で学ぶべき内容をひととおり学べます。
しかし、世の中の大半を占める中堅校以下の高校では、そうではないケースが目立ちます。生徒の実態に合わせた、わざと偏ったカリキュラムにしている学校が多いのです。
例えば、大学入試を念頭において、入学時から生徒を文系理系に分けて、それぞれに偏重したカリキュラムで教えている高校とか、特定の科目(英語が多いですね)に力を入れて、それ以外の科目は最低限で抑えている高校とか、もっと言っちゃえば、スポーツや音楽や芸事に力を入れて、その他の科目を最低限に抑えている高校もたくさんあります。
当然、そういった高校では、科目の選択によっては、有機化学も哲学も学びません。でも大学入試実績は立派だったりしますので、世間的には良い高校だとみなされるわけですし、そこの卒業生たちも、まさか自分が受けた教育に大きな欠けがあるとは思わないわけです。
高校で学ばなかった事については、大学でも学びませんから、そういった教育を受けてきた方は、大卒であっても、自分の専門以外の学力は、中卒程度でしかなかったりするわけです。これが今回の表題の意味です。
でも、別にそれでも、日常生活や職業生活で苦労される事はないでしょうから、問題は無いと言えば、ありません。
つまり高卒であるとか、大卒であるとか言っても、高校では受験に必要な科目以外、大学での専門科目の勉強以外は、あまり学んでいなくて、それ以外については中卒程度の学力しか持ち合わせていなかったりする方が大勢いらっしゃるわけなのです。
そういったわけで、大学センター入試とか、今度始まる共通テストでかで、5教科7科目とか6教科8科目も課せられる国立大学の入試って、大変だけれど、健全だよなあって思うわけです。だって、5教科7科目も試験科目があったら、偏った勉強していたら対応できないからね。きちんとまんべんなく高校で学ばないとダメなわけです。
でも、その一方で、3教科3科目とか、2教科2科目とか、1科目+小論文とか、もっと言っちゃえば、面接と小論文だけでいいですよという大学が、この世にはたくさんあるわけで、そんな現実がある以上、高校できちんと勉強する必要は無いわけで、必要な科目だけを効率よく学べば良いとも言えるわけで、そうなると、偏りのない学びなんて、全く無理なわけです。
「これじゃあ、日本の将来はどうなるんだろ?」
別に心配する必要はないんじゃないかな? 日本には、学力の伴わない学歴偏重主義が横行しているだけの話で、日常生活を送るにはそれで不便はないし、大半の職業においても、その程度の学力があれば十分なんだから。問題は、そんな学歴偏重主義であって、むしろ、勉強が苦手な人たちを、むりやり高校や大学に進学させる事こそが問題だと私は思ってます。
勉強が苦手なら、さっさと社会生活を送れるようにしてあげる方が、その人たちにとっても、社会にとっても、 win win な関係になるんじゃないかとすら思っている私なのです。
でも、そのためには、数多くの偏差値がリーズナブルな大学を潰さないといけませんが、それはそれで問題が多いなあと思うわけです。だってサ、大学の教職員にも生活があるからね。
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コメント
すとん様と完全に意見が一致しているわけでは「ない」と思いますが、
私も、学歴と学力について、書かせていただきますと、
学歴が全てとは、私も思っていませんが、
学歴って、まあ、大事だなとは思っています。
ハッキリ言って、いわゆる1流大学を出ているのに、
「この人、頭、悪いなあ」と思ったことは何度もあります。
一方、いわゆる3流大学を出ているのに、
「この人、頭、いいなあ」と思ったことは1度もありません。
できることなら、子どもたちには1流大学に行って欲しいなあ、と思います。
私大文系で、入学試験に数学を課す大学は少ないようですが、
こんなことだから、日本の全体的学力は低下していくのであり、
国公立のみならず、私大も、大学入試には、5教科7科目を課すべきですなあ、
と思います。
おしまい
オペラ座の怪人の怪人さん
高学歴の方は学力はあるわけですが、世間は学力だけが知力であるとは考えないわけで、一流大学を卒業しているのに優秀には思えない人は、学力はあっても何かが欠けているわけで、三流大学の方はそもそも学力が欠けているわけですから優秀には思われないわけです。
知力を構成する学力以外の要素ってなんでしょうね? 教養? コミュニケーション能力? カリスマ力 or 人たらし能力? そのあたりの事は、また時を改めて考えてみたいと思います。とにかく、学力だけでは十分ではないわけです…が、学力が無ければお話にならないって事でしょう。
私文出身者です。
理系科目については、今でも中卒程度(高校で一通り習ったのですがほぼ忘れた)です。
今になって真面目に勉強しときゃよかったと後悔しきりですが、やはり個々の適性というものはあるので、「まんべんなく」できる人間でないと上の学校に行けない(専門性を極められない)というのも問題ではないかと思っています。
色々な分野でエキスパートがいて、お互い不足分野を補いつつ集団で総合的な「知力」を発揮できる社会を夢見ております。
如月青さん
私は、世の中というものは、それぞれのスペシャリストたちが回していき、それを少数のゼネラリストたちが統括していけば良いと考えています。そういう意味では、今の世はまあまあ良い感じではないかと思ってます。
ただ、それと子どもたちの教育は別であって、出来る出来ないはともかく、知らないとか、学んだことが無いというのは、問題ではないかと思ってます。学んだ結果、よく理解できなかったのならともかく、最初から与えられていないので知らない…というのは、ある意味、知的なネグレクトではないかと思ってます。
あと、みんな学校に行き過ぎ! 進学すりゃあいいってもんじゃねえぞ! とも思ってます。今の少子化時代の原因の一つに、無駄に社会が高学歴化した事もあるんじゃないかとすら思ってます。学校行ってる暇があったら、さっさと稼いで、さっさと結婚しろ!とか思っちゃいます。学校なんて、特に上級学校なんて、勉強する以外に能のない、陰キャな兄ちゃん姉ちゃんたちだけ行けばいいんじゃねえのってすら考えてます。
でもそれじゃあ、富国強兵にはならんけどね。