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みんな材質に期待しすぎ

 フルートは、材質によって楽器の価値や質、音色が変わる…と、そういう思い込みが我々にはあります。洋銀よりも総銀が、総銀よりも9Kゴールドが、9Kゴールドよりも14Kゴールドが…なんていう序列を無意識のうちに持っている人もいます。
 事実、この順番で楽器のお値段は高くなっていくし、実際、演奏してみた感じでも、この順に楽器が良くなっているのは感じられます。だから、フルートにとって、材質の違いは大きな問題なのだなあ…なんて考えてしまうわけですが…。
 フルートって、打楽器とは違って、楽器そのものが音源になって音が出ているわけではなく、管内の空気が振動して音になって、それが聞こえるのです。つまり、鳴っているのは空気であって、フルートという楽器は、その空気の入れ物に過ぎないわけです。
 紙コップに入っていても、ペットボトルであっても、美しいヴェネチアグラスのコップであっても、その中に入っている液体が水であるなら、どれもこれも基本的には、入れ物の中のモノは同じモノ…と言えます。つまり、ここで大切なのは「何が入っているのか」であって「何で入れているのか」ではないって事です。
 楽器の値段が高くなるにつれ、楽器としての仕上がりが良くなり、楽器としての質も向上し、音色だって美しいものになるのは、ある意味当たり前と言えます。なぜなら、高い楽器ほど、熟練された職人が手間隙かけて一つ一つ手作りしているからです。良質な手工芸品なのです。そりゃあ素晴らしいに決まっています。つまり、フルートの楽器としての良し悪しは、それを作った職人さんの腕と、その楽器の製作にかけた時間や手間によって決まるのです。材質の違いは(私が思うに)二次的な要素にしか過ぎないだろうと思ってます。
 では、フルートの値段が高価になるにつれ、材質が変わっていくのは、私が思うに経済的な理由が強いのではないかと思われます。つまり、高価な材質を使って作られた楽器ならば、高価な値段をつけて販売されても、購入者は納得します。
 それに、楽器の値段を高くすれば、それに伴って、利幅を増やすことができます。安価な楽器は購入者も多いので、利幅が少なくても、多くの楽器が売れますので、総体としての利益は確保できます。一方、高価な楽器は購入者が限られるので、そんなにポンポンと簡単には売れません。なので、利幅を増やして、楽器を一つ販売する毎に多くの利益を確保しなければなりません。そのためには、購入者が高いお金を出しても納得できるような付加価値が必要なのです。
 その付加価値が、フルートの材質の違いなのだと思います。
 洋銀よりも銀の方が、銀よりも金の方が、高級な材質ですし、高級感が生まれるし、購入者も高級品を購入したという満足感を感じる事ができます。ですから、材質の違いは付加価値の違いであって、楽器の本質とは無縁な要素であると、私は考えます。
 洋銀を材質とした高級フルートは、現存していませんので、比較できませんが、銀を材質とした高級フルートと、金を材質とした高級フルートは、ともに存在します。両者を比較検討した際、そこに明確な優劣の差は無いと私は感じています。あるのは、奏者の好みとステージ映えぐらいです。材質の違いが楽器としての優劣につながるのなら、プロ奏者は全員、金のフルートを使っているはずですが、実際の話、銀のフルートを愛用するプロ奏者も大勢います。つまり、プロの目から見れば、その程度の違いしかないのでしょう。
 一般的に、重い楽器の方が音をよく飛ばす(これはオーディオの基本です)ので、同じ形態なら比重の重い金属で作られた楽器の方が遠くまで鳴ります。なので、比重の重い金で作られた楽器の方が、銀で作られた楽器よりも、遠鳴りがしそうですが、実際のところ、普通に楽器店で販売されているフルートの場合、銀の楽器は標準的な管厚のものが多いのですが、金の楽器の管厚は薄目に作られている事が多いです。これは金の楽器を銀の楽器同様に仕上げてしまうと、楽器が重くなってしまい(女性奏者の多い日本では特に)奏者に負担がかかるので、金のフルートは軽量化がはかられているので、結果的に、金のフルートも銀のフルートも、楽器の重量的にはあまり変わらない事になります。そうなると、遠鳴りに関しての金のフルートのアドヴァンテージ等は、無くなってしまいます。比重が重い金の特徴を活かすならば、金のフルートの管厚は標準~厚めにするべきなのですが、実際はそうではないのです。
 つまり、そういう事だろうと思います。フルートの材質の違いなんて、その程度の違いしか、本来は無いのです。
 値段の高い楽器ほど、楽器としてよく出来ているとは思いますし、その目安として材質の違いに着目するのは間違ってはいませんが、だからと言って、材質の違いがダイレクトに楽器の良し悪しには直結しないのです。
 そういう意味では、我々は材質の違いに期待しすぎているフシがあるわけです。

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コメント

  1. tetsu より:

    こんばんは。
    >みんな材質に期待しすぎ
    こちらの世代にとって当時「黄金のフルート」はメチャ、キーワードで痺れました。
    具体的なお名前は、Jean-Pierre Rampal, Sir James Galway, Patrick Galloisあたりでしょうか。
    どなたの演奏にはまったかで世代の違いはあります。
    こちらも楽器を変えればこんな音とか演奏ができるかもしれない、とマジ思い込んだ頃もありました。
    その後某師匠と出会い、体をどのように響かせられるか教わり今に至ります。
    当時のレッスンでは「背中の後ろ、腰のあたりまで響かせるように」、という感じです。
    失礼しました。  

  2. すとん より:

    tetsuさん
     うむ、黄金のフルートは、私も憧れます。理屈では「材質なんて音とは無関係」と言いつつも、感情は別問題ですからね。私も本音で言えば、黄金のフルート、欲しいです。
    >具体的なお名前は、Jean-Pierre Rampal, Sir James Galway, Patrick Galloisあたりでしょうか
     私のフルートアイドルはガロアですが、ガロアは“金のフルート”ではなく“木管フルート”のイメージがあります。実際、コンサートを見に行った時も、変態なデザインの木管フルートを吹いていたもの。そういう意味では、私の中での金のフルートの使い手は、ゴールウェイですね。ただ、ゴールウェイには憧れないなあ…。なんか、別格すぎるんだよね、彼って。

  3. SKG より:

    フルートの材質に関して
    > 鳴っているのは空気であって、フルートという楽器は、その空気の入れ物に過ぎないわけです。
    と仰るのは正にその通りで、「楽器の物理学」(N.H.フレッチャー&T.D.ロッシング著岸・久保田・吉川訳)の542ページに「Coltman(1971)による実験は、銅やボール紙など種々の材質で作った管を持つ単純なフルートの音の間には聴取できる相違はないという見方を確証しており」という記述があります。論文は Effects of material on flute tone quality. J. Acoust. Sc. Am. 49, 520-523 とあります。
    音質に最も影響があるのは頭部管と歌口の形状だとのことです。

  4. すとん より:

    SKGさん、いらっしゃいませ。
     私がなぜそのように思い至ったのかと言うと、私、総銀のフルートの他に、プラ管のフルートを日常的に吹いているからです。総銀のフルートとプラ管のフルート、確かに個性が異なる楽器ですが、大雑把に言えば、やはりどちらもフルートの音がするんですね。総銀だから素晴らしい音がするとか、プラ管だから安っぽい音しかしないとかはありません。ただただフルートの音がするんです。
     ただし、全く同じってわけではありません。違いはあります。それこそ、歌口の形や頭部管など、一番最初の空気の振動を作る部分の違いによってもたらされたものだと思います。

  5. SKG より:

    > 総銀だから素晴らしい音がするとか、プラ管だから安っぽい音しかしないとかはありません。
    そうなんですよね。いい音がするかどうかは一重に奏者の技量なんで(-_-;)‥‥。

  6. すとん より:

    SKGさん
     そうそう、フルートの音って奏者次第のようです。だからフルーティストは、音色づくりに励み、練習時間の多くを使って音色を作っていくのだと思います。私の場合は、レッスンで指が回っていない事は見逃されます(次までに練習して来いとは言われます)が、音色に関してはかなり細かく注意されつづけます。フルートは音色が大切なんだと思います。(それなのに、ちゃんとできてなくて、先生に申し訳ないと感じてます)

  7. カバちゃん より:

     >クラシック声楽を学べば、クラシック系の歌は上手になります。 でも、ポピュラー系の音楽はダメでしょうね。
     
     二週間ぶりにすとんさんのブログを訪れると、<クラシックで声楽を学ぶと歌がうまくなるのか?>に出会いました。それに誘発されて小生の主観を述べさせていただきます。
     すとんさんのブログは、例によってご自分の主観なのか一般論かが不分明ですが、たぶんご自分のことをおっしゃっているのでしょうね。
    小生の考えは、歌というものはクラシックでもポピュラーでも、「ある条件」を身に着けていなければ習って上手になるものでもないということです。もちろん「ある条件」を身に着けていなくとも、習うことによってほんの少しだけ進歩する人はいるかも知れません。しかしそれも例外を除いて自己満足の範囲に留まる、というのが79年間の小生の観察結果です。決して教育の効果を否定するものではありませんが、歌に関しては限度があるということです。
    「ある条件」とは何か。「歌の上手い人」は美空ひばりを挙げるまでもなく、思春期までに歌に対する感性を身に着けています。それを才能と言う人もいるでしょう。一つは情感の襞をメロディーや空気=音の流れに乗せる能力、つまり鳥が空気の流れや粗密に乗って自由に大空を滑空するような能力です。もう一つは人(他者や自己自身)や自然界の機微と共鳴しあえる感性を備えていることです。歌の上手い人は人の情や大気の流れと共振(ともぶれ)しあえる人です。それは理屈ではなく感性の問題で、小生の観察では後天的で、親や生活環境による影響が大きいと思います。どちらかと言うと、経済力に恵まれない家庭で育つ人の方に感性が研ぎ澄まされる傾向を感じます。成長過程で自問自答することや悩みをより多く克服しなければならないからでしょう。それが自分自身の内部で響きあうのが歌なのだと思います。お金や友人がなくとも歌は仲良くしてくれるのです。ピアノや楽器奏者と異なり、歌の基本を身に着けるために経済力は必要ではありません。生きるということと表裏一体だからです。
    折口信夫博士は、「歌」の語源は「訴う=うっとう=歌う」だと言い、徳江元正博士は「(魂を)打つ=歌つ」だと主張しておられる。どちらも心の叫びや魂の発露が初源だということです。一方、ヨーロッパで「歌」はイタリアではcanzone、フランスではchanson、スペインではcancion です。フランス語だけ中にhが入っていますけど、みなcanです。これらはいずれも、ラテン語のcanto(=歌うとか鳴くとかいう意味ですが、合図する、響き合う、賛美するなどの意味もあると言われています)をルーツにしています。「歌」の本質は洋の東西を問わず人類共通のような気がします。だからいい歌は時間や空間を越えて人の心を「打つ」、つまり共感とか感動を呼び起こす要素を内在しているのでしょう。
     ディ・ステファノやカレラスなど世界的名歌手の少年少女時代の歌が動画サイトで見られますが、すでに例外なく上手いです。マリオ・ランツァはトラック運転手だったし、フランコ・コレッリはアンコーナ市役所の職員だった。今や飛ぶ鳥を落とす勢いのマルセル・アルバレスも家具職人。ちょっと質は落ちるがアンドレア・ボチェッリは弁護士、さらに名歌手と呼ぶには気が引けるが、ポール・ポッツ(保険営業マン)にスーザン・ボイル(ごく普通のおばさん)…、これらの歌手は先生に習わなくても若年時に自力で歌の基本を身に着けています。ということで、上手い人の多くは少なくとも20歳くらいまでに自力で、歌とは何かを理屈抜きに身に着けているように思います。そういう条件を身に着けている人は習えば習うほど上達するでしょう。そうでない人は20歳以降に歌を習い始めても、例外はもちろんあるにしても、そして趣味として人生を豊かにすることはあっても、さらに合理的発声法を身に着けられることはあっても、上手になるかどうかという観点からは大した進歩はないというのが小生の仮説です。
    小生はすとんさんとは異なり、歌が上手いか下手かを考える時にクラシックかポピュラーかなどジャンルを分別して考えません。クラシック畑の人でも上手い人は歌謡曲もポピュラーも上手く歌うと考えています。昭和の歌謡曲歌手は淡谷のり子にはじまり、藤山一郎、伊藤久雄、岡本敦郎、林伊佐緒などクラシック出身者が目白押しです。現在でも、手元にある島田祐子(「思い出の青春]CBSソニー」や鮫島有美子(「千の風になって」コロンビア)などのクラシック歌手のCDを聴くと、ジャンルを超えて上手い人は上手いという当たり前のことが分かります。クラシックを勉強してポップスが下手になることはありません。そういう人は最初から下手なのです。世界のポピュラー歌手やミュージカル歌手でクラシックを勉強した経験の持ち主は枚挙のいとまがありません。歌が上手い人は「クラシックもポピュラーも上手い」というのが小生の結論です。
    逆に日本のオペラ歌手の中には歌が下手な人が散見されます。それを最初に痛感したのが中学生の時に聴いた大橋国一氏の「魅惑の宵」で、彼はその当時日本のバリトンの第一人者の一人とされていましたが、いい声だがいつも耳にしているエッツィオ・ピンツァやジョルジオ・トッツィ(映画「南太平洋」で名優ロッサノ・ブラツィの吹き替え役)などのメトロポリタン歌手とくらべて何と下手なんだろうと子供心に思った経験があります。クラシック歌手でポピュラーが下手な人は歌の才能に欠けている人ではないかと考えるきっかけになった「事件」でした。毎年恒例のNHK「新春オペラコンサート」の中にも「この歌では海外では通用しないな」と思う「オペラ歌手」が珍しくありません。それはクラシックを習ったからではなく、そんな能力でも大きな顔ができる日本のクラシック界とクラシックを特別視している日本の聴衆の資質に問題があるからだと思っています。

  8. すとん より:

    カバちゃんさん
    >すとんさんのブログは、例によってご自分の主観なのか一般論かが不分明ですが、たぶんご自分のことをおっしゃっているのでしょうね。
     断定調で書かれているのは私の意見で、伝聞調で書かれているのは他人の意見(一般論)です。私、他者の剽窃をするほど恥知らずじゃないつもりです。
     さて、カバちゃんさんの御説は、いわゆる“天才”と呼ばれる人、ごく一部の希少な方々を標準に捉えた評論家さんたちの目線だろうと思います。一方、私の目線は、世間一般の大半を占める、ごく普通の平凡な方々の奮闘努力の賜物を見ているつもりです。
     神様に愛されている方々は、愛されている同士で話し合うなり意見交換をすればいいと思ってます。私達のような凡人は凡人同士で、いかに自分たちを高めていくかという意見交換をすればいいし、自分は消費者として実演家たちを消費していくんだという人たちは仲間内であれこれ言っていればいいと思ってます。なので、カバちゃんさんとは意見が違っていても仕方ないなあと思ってます。
    >逆に日本のオペラ歌手の中には歌が下手な人が散見されます。
     日本人に限らず、外国にだって歌の下手なオペラ歌手さんはごまんといるでしょう。我々文化芸術の辺境に住んでいる者が聞ける海外の歌手さんって、録音録画をワールドワイドに販売していたり、手広く海外公演をするような、それこそ“天才”歌手ばかりなので、外国のオペラ歌手はみんな歌が上手だと錯覚してしまいがちですが、別にそんな事はないでしょう。少なくともウチの近所の市民会館にやってくるような海外のオペラ歌手さんたちは、日本のトップレベルのオペラ歌手さん並の歌唱力で、金髪碧眼である以外は日本のオペラ歌手さんと(演技力以外では)大きく変わりません。
     そういう意味では、日本のオペラ歌手さんたちは、とても頑張っていると思います。こんな文化の果ての日本に生まれて生活しているのに、本場の人々に追いつけ追い越せで、かなり近い線までたどり着けるようになったのだから、大したもんだと思います。骨格だって全然違うわけだし、まだ日本が西洋文化を取り入れて、百年とちょっとしか経ってないんですよ。ほんと、頑張っていると思います。
     ただ、まだまだ我彼では、オペラ歌手という職業の絶対数が全然違いますから、我が方には歌の上手い人たちがごくわずかしかいないのも仕方ないと思います。裾野が小さければ山は低くなる…って話です。それに日本じゃオペラ歌手で稼ぐのは難しいですから“天才”たちは歌の世界を目指さないだけだと思います。
     でも、日本も世界もオペラ歌手の大半は“天才”ではなく、凡人たちが努力をして成り上がった人々ばかりです。ま、それは歌の世界に限らず、どんな職業の世界でもそうでしょ? 世界は凡人たちが努力をして、一生懸命に回しているんです。そんな頑張っている凡人たちを“天才”たちと比べて「お前、まだまだダメだぜ」とは私は言えないなあって思います。
     私のブログでは、私らのような道楽者は“天才”はおろか、日々奮闘努力をしているプロの方々と比較するのもおこがましいと思って書いてます。月とスッポン? 同じまな板に載せてはいけないとすら考えてます。

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