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ロイヤル・オペラのライブビューイングで「カルメン」を見てきました

 さて、話の流れ的には、今回は池袋でのLFJの話を書かないといけないのですが…こちらを優先したいと思います。

 標題の通り「カルメン」を見てきました…が、今回はこの上演を見る事について警告したいと思います。ってか、ザックリ言っちゃえば「見るなら、自己責任で。私は薦めないよ」って事です。

 正直言って、今回のロイヤル・オペラの「カルメン」はゲテモノです。なので、ゲテモノ好きか、あるいは「カルメン」は飽きるほど見て、とにかく変わったモノなら、なんでも歓迎!という人ぐらいにしか薦められません。

 薦められない理由を5つ書きます。

1)音楽が薄い

 歌劇「カルメン」の良いところは、捨て曲がない事。どの瞬間にも美しい音楽があふれている稀代の名オペラである事。しかし、今回の上演では、音楽は軽い扱いを受けています。

 まず、レチタティーヴォがありません。レチタティーヴォにあたる部分は、アナウンスで説明されて終わりです。まあ、そもそも「カルメン」のレチタティーヴォは、ビゼーの作曲ではなく、補作したギローの手になる部分ではあるけれど、今となっては、あれはあれで大切な「カルメン」の一部なのです。そこを大胆にカットしちゃった事は…どうなんでしょうね。

 そもそも「カルメン」って未完成なオペラなんです。ビゼーが書いたのは、たくさんの音楽の断片であって、それを放り出したまま、作曲家であるビゼーは死んでしまったわけです。未完成だけれど、美しい音楽がたくさんあったこのオペラを整理して、良い部分は効果的に配置して、ダメな部分は捨てて、足りない部分は補って、現在我々が知っているカタチの「カルメン」にしたのが、友人の作曲家であるギローってわけです。

 ギローって、一流の作曲家ではありません。彼のオリジナルの作品は、現在残っていないしね。でも、音楽家として全く無能だったのかと言えば、そんなわけはなく、彼はビゼーの「カルメン」だけでなく、オッフェンバックの「ホフマン物語」も未完成のまま作者が死んでしまったので、何とか上演できるカタチに仕上げた人でもあります。まあ、作曲家としては一流ではなかったのでしょうが、残された断片を使って、素晴らしいオペラを作り出すのは得意…って事は、編曲家としてはまずまずの腕前だったと思われます。

 でもまあ「ホフマン物語」では、オッフェンバックの音楽をカットしすぎてしまい、後に別の編曲家の方々が、ギローが捨てた部分も拾い出して、今の「ホフマン物語」にしたわけです。まあ、確かにジュリエッタのシーンを丸々捨ててしまったのは、さすがにギローもやりすぎたと私も思います(笑)。

 閑話休題。で、今回の「カルメン」では、ギローが書いた音楽は捨てて、ギローが捨てたビゼーの音楽を復活させたわけだけれど、これがまあ、ギローが捨てたのが正解だと思われるような陳腐な音楽ばかりを拾ってきたわけです。おまけに、ストーリーの進行を優先させたためか、音楽の繰り返しが少なくて、我々が知っている音楽も、かなりショートバージョンにされて演奏されました。結果、美しいメロディーにあふれていた旧来の「カルメン」が、アナウンスと陳腐なメロディーの中にたまに美しいメロディーが混ざっているという、まさに音楽的に“混ぜものいり”の魅力の少ない音楽に仕上がっています。

 こんな薄い「カルメン」を「カルメン」とは思って欲しくない…というのが、一人のオペラファンである私の正直な気持ちです。

2)芝居とストーリーがちゃんとつながっていない

 芝居…つまり、演出の話になります。この上演の演出は、実に刹那的です。一曲ごとの演出は、まあ目新しいし面白いと思います。でも(現代的演出だと大抵そうなるけれど)歌詞と演出は少々乖離していると思うし、曲と曲の演出は決して繋がっていません。まるで「カルメン」の音楽で作られた、ビデオクリップ集を見ているような気分になります。一見すると、とても演劇的な演出だけれど、全体のストーリーがうまくつながっていないと思うわけです。だから演劇的な演出ですらないと思います。

 だから「カルメン」を見慣れた人だと、そこを面白く感じると思う(私も面白かったです)わけだけれど、「カルメン」はもちろん、オペラそのものに不慣れな人(人類の大半がそうでしょうね)たちにとっては、あれこれ誤解を招くし、誤った理解をさせてしまう、罪深い演出だと思います。

 この演出では、ストーリーも音楽も、いわゆる「カルメン」から、遠く離れすぎている…と私は思うのです。

3)歌手たちは精一杯やっているけれど、結果的に残念

 ここで今回の主要スタッフを書いておきます。

 指揮:ヤクブ・フルシャ
 演出:バリー・コスキー(この人が今回の戦犯です)

 カルメン(メゾソプラノ):アンナ・ゴリャチョーヴァ
 ドン・ホセ(テノール):フランチェスコ・メリ
 エスカミーリョ(バリトン):コスタス・スモリギナス
 ミカエラ(ソプラノ):クリスティナ・ムヒタリアン

 まず、カルメンのゴリャチョーヴァから。彼女は、本当に美人です。こんなに美しいカルメンを見たのは、私、たぶん始めてです。実際、ヴォーグの表紙を飾っても不思議じゃないくらいに美人なんです。おまけに、よく動きます。ダンスも良い感じです。

 でもね、歌がね…。たぶん、この人、ちゃんと歌える人なんだと思うけれど、情念が足りないのよ。こういう演出だからそうなんだろうけれど、どのアリアも薄味。カルメンがなぜ、ソプラノ歌手ではなくメゾソプラノ歌手に割り振られているのかと言えば、そこはもう過剰なまでの情念を歌に込めるためだと私は思ってますが、いかがでしょうね。

 ドン・ホセを歌ったメリは…ごめんなさい、劣化版カレーラスにしか思えなかった! 私には彼自身の魅力を感じられませんした。特に「花のワルツ」の最高音を含むフレーズは、晩年のカレーラスが歌ったように、ファルセットで軽く歌ったのですが、ファルセットの扱い方が、カレーラスほど上手ではなく、その前後と声色が極端に違ってしまったのです。ああ、残念。とても残念なのです。そこ以外は、悪くなかったです。イライラするくらい、しっかりダメ人間を演じていたし(これ、褒め言葉です)。

 エスカミーリョを歌ったスモリギナスの歌唱も、カルメンを歌ったゴリャチョーヴぁ同様に、なんか物足りないのです。そういうふうに歌えという指示が演出家からあったんだろうなあと想像しますが、これはお客さんが見たいエスカミーリョじゃないよ。僕らの知っている、カッコいいエスカミーリョを返してくれ!と言いたい気分です。

 ミカエラに関しては、歌の印象がありません(ごめん)。彼女に関しては、その演技力に圧倒されて(だって、本当にハイティーンの女の子に見えるんだよ)、芝居ばかりに注意が行ってしまい、肝心の歌を聞けませんでした。芝居的にはOKなんだろうけれど、それってオペラ的にはどうなの?って感じがします。

 少しは褒めましょう。音楽的に良かったのは、なんと言っても合唱団の皆さんたちです。オトナの合唱団も良かったし、子どもたちの合唱団も良かったです。合唱団の人たちの、メイクとか衣装とかは、ちょっとなあ…と思うし、歌いながらの演技も大変だろうと思うけれど、歌唱は良かったです。コーラスマスターさんは頑張ったんだろうなあって思います。

4)歌手たち以上にダンサーたちの舞台なんだよ

 この上演で、一番目立つのは、ダンサーたちです。誰よりも目立ってましたね。とにかく、強烈なんですよ。このオペラは、ダンサーのためのオペラなんじゃないの?と思ってしまうくらいに、ダンサーたちが目立っていました。実際、時折、歌が邪魔に感じる事すらありましたよ。それくらいに、ダンスが大きな比重を占める演出となっていました。

 ダンス好きならば、大いに楽しめると思うし、ダンサーさんたち、大活躍ですよ。

5)多くの演出が意味不明

 衣装にせよ、メイクにせよ、やたらと派手で目を引きますが、なぜそうなのかは、結局分かりません。ダンサーさんたちの振り付けも(バレエの振り付けのように)意味があるようで、意味を感じられないし、歌手さんたちもアリアを歌いながら芝居をしますが、なぜそういう演技をするのか、意味が分からないし、刹那的に面白い瞬間もたくさんありましたが、ちょっと考えてみると、なぜそんな演出をするのか、分かりません。

 だいたい、最後。カルメンはホセのナイフには刺されますが、死なないで、ケロッとしてますしね。ほんと、意味不明。

 何度も何度もこの上演を繰り返して見れば、その演出意図ってヤツが分かるのかもしれませんが、この上演は二度見る必要はないと思うので、結局、演出家の演出意図は分からずじまいです。観客に分からないモノなんて、エンタメとしてはダメなんじゃないかな?

 まあ、そんなわけで、この上演は、本当にお薦めできません。この5つの理由の前には、舞台上の大道具は、大きな階段一つで、舞台装置らしい舞台装置がない事なんて、全然問題になりません。時代や場所が不明であったり、現代演出であったりする事も、全然問題になりません。

 とにかく、演出家さんの「オレってすごいだろ?」臭がプンプンとした、ゲテモノな「カルメン」に仕上がっております。ってか、この演出ならば、別に音楽は「カルメン」じゃなくても、よかったんじゃないのってすら、思います。それくらい、音楽なんて、どうでもいいって扱いの上演でした。

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