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ドミンゴのバリトン歌唱について

 皆さんは、プラシド・ドミンゴというオペラ歌手をご存知でしょうか? 御年79歳で、かつては三大テノールの一人として、オペラ界でブイブイ言わせていた、いわゆる“リビング・レジェンド(生きる伝説)”ってタイプの大歌手です。ちなみに、79歳だけれど、今でも現役のオペラ歌手&指揮者です。
 最近の話題としては、昔起こしたセクハラ事件を最近掘り起こされて、それでアメリカのオペラ界から追放されてしまうというスキャンダルを起こしてます。アメリカ人はセクハラには厳しいからね。もう二度とメトでは歌えないんだそうで、ちょっと残念です。
 それはともかく、ドミンゴは、かつては飛ぶ鳥落とす勢いの大テノール歌手だったわけです。それが70歳を迎える頃から、バリトンの役を歌うようになったわけです。今回は、そんなかつての大テノール歌手が、最近ではバリトン役ばかりを歌うようになったので、それについての記事です。
 さて、一般的には「ドミンゴはテノールからバリトンに転向した」と言われています。実際、一度は(2010年頃)「バリトン転向宣言」をして、バリトン歌手を名乗るようになったそうですが、どうも最近(2015年頃)は、また御自分の事をテノール歌手であると言い出して、今はテノール歌手のまま、バリトン役を歌っているというスタンスを取っているようです。
 つまり、今は「バリトン歌手に転向したからバリトン役を歌っている」のではなく「テノール歌手だけれどバリトン役を歌っている」という事にしているようです。まあ、こんなふうに言っているのには、彼なりの言い訳のようなものが(たぶん)あるんだろうなあって思います(が、そんなことはどうでもいいと私は思ってます)。
 そもそも、ドミンゴという歌手は、極めてレパートリーの広い歌手なんです。卓越した歌唱力に加えて、優れた言語能力を併せ持った、天才的な歌手なので、若いときから、様々なテノール役を歌ってきました。声に合わない役(例えば「愛の妙薬」のメモリーノとか、「ドン・ジョヴァンニ」のドン・オッターヴィオとか)ですら、なんとか歌いこなしてしまうくらいのテクニックを持っている人なので、本当に声が全く合わなくて歌えない役以外の、数多くのテノールの役を歌ってしまった人なんです。常に新しい役を求めている、貪欲な歌手なんだと思います。
 そんな彼だから、おそらくバリトン役を歌うことは、かつてワーグナー・テノールに挑戦したのと同じような感覚なのかもしれません。ドミンゴがワーグナー・テノールに挑戦した時も、当時の世間はアレコレ言ってたのを思い出します。
 で、昨今のドミンゴは、加齢によって高音が出づらくなった事(そもそもドミンゴは高音が苦手なテノールでした)もあって、バリトン役を歌うようになったと言われています。それに、ドミンゴはデビュー当時はバリトンだったわけだしね。ある意味、原点回帰なんです。
 さて、そんなドミンゴのバリトン歌唱ですが、ワーグナー・テノールに挑戦した時以上に世間の風当たりはキツイようです。曰く「あれはバリトンの声ではない」「歌に深みが欠けている」「ドミンゴの歌を聞くくらいなら、もっと別の本物のバリトン歌手の歌を聞くべきだ」とかね。
 私は、そんな世間の声の言い分については、正解だと思ってます。オペラと言えども、クラシック音楽であって、基本的に再生芸術なんです。作曲家が想定した声で歌うのが筋というものですし、そういう意味では、ドミンゴのような声でバリトン役を歌うのは、作曲家の想定には無いだろうと、断言できます。
 なので、クラシック音楽&オペラファンとしては「ドミンゴはバリトン役を歌うべきではない」と、私も思わないでもないです。
 実際の音源で比べてみましょう。曲はヴェルディ作曲の「椿姫」のバリトンの名アリア「プロヴァンスの海と陸/Di Provenza il mar, il suol」です。まずはお手本として、名バリトンの誉れ高いディミトリー・ホロストフスキーの歌唱でお聞きください。
 では、我らがドミンゴの歌唱です。
 こういうふうに比べてしまうと、やはりドミンゴは声が違います。バリトン役を歌うべきではない…って言えるかもしれません。上手いんだけれど、バリトンとしての深みが足りないのよね。ちょっと違うかなって気がします。
 でもね、悲しいかな、私はドミンゴファンだったりするんです。
 ドミンゴの歌うバリトン役は、クラシックファンとしての耳で聞けば、全然物足りないし、やっぱり間違っていると思います。でもね、ドミンゴファンとしての耳で聞けば、実に素晴らしいし、絶品だと思うんですよ。もう、ブラボーって何度も叫びたいくらいに良いんですよ。
 「もうさあ、テノールとかバリトンとか、どうでもいいじゃん。ドミンゴは“声種:ドミンゴ”って事で、いいじゃん」って気分にすらなってしまいます。実際、歌は超絶上手いし、表現力だって十二分にあるし…ただ、いわゆる典型的なバリトン声ではない(ってか、やっぱりテノール声だよね)ってだけの話じゃん。もう、そんな小さな事(え?)にこだわるの止めようよ。
 って考えてしまうわけです。ちょっと、脳みそが傷んでますね。
 歌曲って、どんな声種の歌手が歌ってもいいんですよね。もちろん、作曲家は、ある特定の声種を想定して作曲しているのだけれど、その想定された声種以外の歌手が歌ってもいいのが歌曲なのです。
 ならば、オペラも歌曲のような感覚で、歌えるなら、指定された声種以外の声で歌ってもいいじゃん…という、おおらかな気持ちになれないかな? というような、ムチャな考えすら持ってしまいかねないほど、ドミンゴのバリトン歌唱って見事なんです。
 正直に言っちゃえば、ドミンゴのバリトンって、ある意味ゲテモノなのかもしれませんが…それで喜んでいる人が世界中にいるというのも、事実なのです。なら、そんなファンのために、ドミンゴのバリトン歌唱があっても良いと思いますよ。

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コメント

  1. ドロシー より:

    すとんさん、こんにちは。
    おそらく、個々の人間の声を6つのタイプに分けるということ自体に無理があるのだと思います。
    女性歌手だったら、ソプラノもメゾも歌う人いますけど、男性の場合、テノールとバリトン・バスの違いははっきりしていますよね。
    ドミンゴのジュルモン、とても息子を諭しているように聞こえません。でも、ドミンゴだから、何やっても許される、と考える人がいても不思議ではないですね。

  2. すとん より:

    ドロシーさん
     ドミンゴの容姿は十分に“お父さん”、それも“年老いてから生まれた息子が可愛くて仕方がないお父さん”に見えるんだけれど、声を聞いちゃうとね…。声が若いんだよね、ドミンゴは。お兄ちゃんか、年の近い叔父さんぐらいにしか聞こえません。やっぱり、声がバリトンじゃないんだよなあ。
    >ソプラノもメゾも歌う人いますけど、男性の場合、テノールとバリトン・バスの違いははっきりしていますよね。
     男声でも、バリトンとバスの両方を歌う人はいますが、テノールとバリトンを掛け持ちする人って、あまりいません。テノールとバリトンは、音域は近いのですが、発声が全然違うんだよね。
     たまに市民合唱団あたりで、テノールとバリトンを兼務している人がいますが、ああいう人は大抵“高音が得意なバリトン”だったりします…ってか、合唱のテノールパートには、声がバリトンの人が大勢いらっしゃるなあって思います。実際のところ(いわゆる邦楽系の合唱曲だと)テノールパートって音が低いから、本物のテノールだと歌いづらいだろうなあ、声が減っちゃうよなあって思います。

  3. カバちゃん より:

     声楽初心者の80歳目前の老人です。コロナ禍蟄居中、ストンさんのブログ発見。勉強になりました。ありがとうございます。
     今日拝見のブログでは、ドミンゴのバリトンの声に「深み」がないと書いておられます。それは役柄として失敗しているということでしょうか? 初心者の私はドミンゴのバリトン、受け入れられる方です。バリトンの声に対する固定観念からすると確かにやや腰高でしょうね。これは彼がまだテノールを退いていないため、第2パッサージオの位置(Fis?)を変えずに歌っているからだと思います。バリトン時代の若いドミンゴならパッサージオはE前後で低音は深く響いたと想像します。
     デル・モナコも『オテロ』で時々、ヤーゴの「プロローグ」を歌いました。アルド・プロッティなどの本職に比べると腰高でしたが、これはこれでプロッティに負けない素晴らしい歌唱でした。腰高の原因はドミンゴと同様、パッサージオの問題と考えます。彼らが本気でバリトンに転身しようと考えるならパッサージオを下げるでしょう。そして彼らの声なら低音は間違いなく深く響きわたると思います。G.GiacominiやN.Todiscoと言ったイタリアの名テノールにも当てはまると思います。
     私は、声質と役割の関係に固定観念を持たないようにしています。その方が手垢の染みついた古い観念のオペラに新しい発見があるからです。作曲家に対する侮辱だと考えないで、今、作曲家が生きていたらどう割り振りするだろうかと考えることにしています。
     なお昨日、ストンさんの発表会の録音を聴きました。恥を忍んですぐ感想を書きました。ストンさんだけに届けようと思ったのですが、ちょっと長文(2300字くらい)になりました。送るかどうか迷っています。ストンさん宛のメールは何字くらいまでなら送れるでしょうか。

  4. すとん より:

    カバちゃんさん、いらっしゃいませ。
     まずオペラはクラシック音楽であり、クラシック音楽は再生芸術であるという前提があります。つまり「作曲家の意図した音楽を、その意図通りに具体化して演奏する」というのを理想としている音楽なんです。「それもアリだよね」とか「私は好きだよ」というポピュラー音楽的な価値観の通用しない音楽ジャンルなんです。
     私はドミンゴファンですから、ドミンゴのバリトン歌唱は好きだし、これからも聞きたいのですが、クラシック音楽ファンとしては、ドミンゴの声でバリトンの役を歌うのは、無しだと思ってます。というのも、そもそも作曲家は、バリトンを指定しているのですから、バリトンの声でバリトンの役を歌わないと、再生芸術としては最低限のノルマすら果たしていない事になるわけです。
     ま、オペラは古典芸能だからね。日本で言えば、歌舞伎みたいなモンです。お約束事は大切なんですよ。お約束事を守らないと、それはもう歌舞伎じゃないのと同じです。オペラもオペラのお約束事を守らないと、たぶんオペラにならないと思います。
    >今、作曲家が生きていたらどう割り振りするだろうかと考えることにしています。
     それは私も考えます。私が考えるに、モーツァルトは職業音楽家としてアイドルグループのプロデュースとかしているだろうし、ロッシーニも職業音楽家としてアニソンをバンバン書き飛ばし、ヴェルディやワーグナーは音楽家ではなく映画監督になっているだろうと思います。プッチーニは…オペラではなく、宝塚で演奏できそうな、ラブラブのミュージカルを書いているんじゃないかな? おそらく、誰一人としてオペラは書かない…というのが、私の妄想です。だってさあ、21世紀のオペラってオワコンじゃん(笑)。でも、彼らなりに才能は開花させると思うんですよ。
    >送るかどうか迷っています。ストンさん宛のメールは何字くらいまでなら送れるでしょうか。
     ホットメールで受けますので、字数はあまり気にしなくて平気ですよ。
     もしもメールを送られたらお知らせください。

  5. カバちゃん より:

     ストンさん、お返しのコメントありがとうございました。自信に満ちた「ストン節」が炸裂し、気絶しそうになりました。なるほど、ストンさんのオペラ観は分かりました。
     ストンさんのお考えとは異なり、ドイツなどでは逆のオペラ観も盛んで、ドイツ政府は新しい解釈による「読みかえオペラ」を特に奨励して実行したオペラ劇場に補助金を支給しています。オペラの「正統」「異端」論争も盛んです。若者のクラシック離れが久しい折、時代とともに常に見直しをすることでオペラを蘇らせようという考えです。背景には、従来の舞台装置などの保管、運搬、修理、人件費を含むそれらに要する費用が莫大な額になり、従来の考え方でオペラを維持することは困難だという切迫した事情もあります。
     メトロポリタン歌劇場はピーター・ゲルブ総裁の手腕でMETライブビューイングなど世界の映画館への配信で経営の危機を乗り越えていますが、スカラ座は政府の補助なしでは従来の舞台を維持できません。経済不況の中、イタリア政府にもスカラ座に従来のような補助をすべきではないという強硬意見もあります。そういう時代の中で、ストンさんのお考えに反して、今後は電子機器が多用されたシンプルな舞台の「読みかえオペラ」上演がさらに増えると思います。それら時代の要請に応えられない固定観念に凝り固まったオペラは消えていくのでしょう。
     現代上演されているオペラが正統かどうかも考える余地があります。ヴェルディは自作のオペラの指揮を依頼されたオーケストラのA音が450ヘルツだったので拒否したという記録が残っています。自分の音楽が変わってしまうと考えたのです。彼はA=432ヘルツが人間の声とオーケストラが自然に融合すると考えていました(=ヴェルディアンA)。実際、1884年、イタリア政府はA=432と法律で決めています。
     私達は今、A440のオペラを当たり前だと受け入れていますが、ヴェルディのようにそれはオペラ自体を変えてしまうと感じる人もいます。現在の国際基準A=440が決定されたのは1953年のISO総会で、比較的新しい出来事です。それまではまちまち。バッハは415、ヘンデルは422.5、モーツアルトは421.6、ベートーベンは433ヘルツの楽器を使って作曲していました。つまり現在、私達がこれがクラシックだと思って聴いている音楽は作曲者の考えと一致しているかどうかは考える余地があるのです。当時の楽器を当時の周波数に調律して演奏すると違う音楽に聴こえます。「アマデュース四重奏団」は現在も国際基準の440ではなく、432で演奏しています。彼らの音楽観はストンさんとは違うようです。ナチスのゲッペルスは国民を戦争に駆り立てるためにさらに高い周波数を求めました。つまり楽器の周波数を変えるだけでも作曲者の意図と異なる音楽になりうるということです。オペラに関してなら、まだお読みでなかったら岡田暁生著『オペラの運命』(中公新書)など面白いと思います。ストンさんのオペラに対する考えが変わるかどうかは分かりませんが。
     チャオ・ユアンプ著『ピアニストが語る 音符ではなく、音楽を!』で、「ラフマニノフは演奏中に自作の楽譜の通り弾かない時があった」と名ピアニストアシュケナージが証言しています。つまりクラシックであっても刹那や瞬間とスパークして生まれ変わることがあるということです。もちろん時代状況によっても同じ音楽が変容したり消滅したりします。そういう歴史の変遷にも生き残るのがクラシック音楽だと思います。クラシックはこうだ、それはポピュラー音楽の考え方だと決めつけるのは、クラシックファンの思い上がりだと、初心者の私は考えます。ポピュラー音楽を過小評価してはいけません。ポピュラー音楽として誕生し、時代の洗礼に耐え、今、クラシック音楽に分類される音楽には枚挙のいとまがないくらいです。逆に、クラシックだと鼻高々に世に出しても、あっという間に跡形もなく消えていくのも数えきれないでしょう。
     
     私がストンさんの実技(歌の実力)に特に関心を持ったのは、私の拙い観察では、ストンさんのように歌に対し高説を説く人は、例外を除いて、歌を習っても上達しない傾向があるからです。例外とは、思春期までに歌の本質を身に着けた人です。さてストンさんはどうか? メールでストンさんの歌唱を聴いた初心者の「率直な」感想を送らせていただきます。
                            2020・9・21  by カバちゃん 

  6. すとん より:

    カバちゃんさん
     ブログの過去記事をご覧いただければ分かりますが、私は「読み替えオペラ」こそがオペラがオワコンである証拠であり、オペラがご臨終状態にある事の証であると考えています。分かりやすく例え話で言えば「背広を着た老人(会社の会長?)が全国支店を巡って不正を暴く」お話は水戸黄門ではないでしょ?
     オペラは音楽である以前に、演劇であります。「読み替えオペラ」も一部の作品では成功していると思います(ヘンデルの一部のオペラとか、後は「椿姫」ぐらいかな)が、多くの作品では…ダメでしょう。私はそう思ってます。
     そもそもオペラが金持ちのパトロンや民衆から見放され、その代わりに税金が導入されるようになり、やがて税金がなければ立ち行かなくなってきたので「読み替えオペラ」が生まれてきたわけです。税金が入らないと成り立たないくらいなら、すでに芸能としては終わってます。
     そもそもヨーロッパには歌劇場が多すぎるし、オペラ歌手も多すぎると思います。だから…って話は、日本人である私がするべき話ではありませんね。当事者であるヨーロッパの人々が考えればいいわけだし、オペラも彼らの文化文明の一部ですから、どうなろうとも彼ら次第…ってわけです。私はむしろ、歌舞伎の行く末の心配と(微々たるとは言え)経済的にどう支えていくべきかを考えないといけないと思ってます。
     オペラは滅んでしまって仕方ないですが、歌舞伎は今後もずっと続けていって欲しいと思ってますよ。
     ピッチの件については、私、A=440~442Hzが正義だと思ってます(笑)。そもそも、私の音楽ルーツはクラシックではなく、ポピュラー音楽であり、真剣に音楽を学んだのは、実はジャズ(最初の師匠がジャズ系のミュージシャンでした)でしたので、A=440~442Hzが正義なんです。実際、私が愛用している音叉は442Hzだし(笑)。クラシックの…とりわけ古楽などはピッチが低いわけで、それが歴史的に正しいのかもしれませんが、私は嫌いです。聞いていて、気持ち悪いんです。
     「すとんさん、それはスジが通ってないよ」
     うん、通ってないです。自覚しています。でも私は学者じゃないですし、そういう矛盾を抱えていてもいいかなって、ゆるく考えています。要は理屈よりも、好き嫌いとか気持ちの良し悪しとか慣れとかを優先しているわけです。
    >私の拙い観察では、ストンさんのように歌に対し高説を説く人は、例外を除いて、歌を習っても上達しない傾向があるからです。
     そうです。私もそう思いますよ。
     これもブログでは何度も書いてますが「偉そうな事を言ってるヤツは、いったいどれくらいの実力があるの?」って、いつも私思ってます。実際、ネットで偉そうな事を書いている素人さんってたくさんいるでしょ? そういう人が自分の演奏をネットに上げる事って、まあ無いです(カバちゃんさんはご自分の演奏をネットに上げてますか?)。
     それっておかしいでしょ?って私は常々思っているわけで、なので私はずっと前から(今回のように)どんなにひどい演奏であってもネットにありのままアップするようにしているのです。すとんという人間は、普段偉そうな事を書いているけれど、実際のところはこんな程度の実力なんだから、普段書いている事も、眉にツバでも付けながら読んでください…って事ですよ。
     これも何度も書いてますが、私は“落語「寝床」の旦那”なんです。あるいは“下手の横好き”なんです。音楽は好きで、その好きな気持ちは他人に負けているとは思ってませんが、才能は皆無だし、ろくな努力もしてません。上達したいとは思ってますが、日々、老い衰えていく自分との戦いです。
    >思春期までに歌の本質を身に着けた人です。
     オトナは若者にはかないませんよ。オトナが真剣に10年かけて学んで得る事なんて、若者はほんの三ヶ月か半年程度で身につけちゃいます。さらに若者が1年も真剣に学べば、学んだ事が血肉となり、一生の宝になりますが、オトナが10年かけて学んでも、半年も休めば、全部元の木阿弥になってしまいます。
     だから、オトナは面白いって、私は思ってます。
     あと、メールの返事は、もうちょっと待ってください。

  7. カバちゃん より:

    ストンさん、早速、相手をしてくださってありがとう。
     読ませていただき、ストンさんの気宇の大きさに脱帽です。「親分!」と叫びたいくらいです。子猫がライオンにチョッカイを出し、しっぽ先で「おとなしくしててね」と、頭を撫でてもらった感じ。それでも子猫は嬉しいのですニャ。
    >理屈よりも好き嫌いとか気持ちの良し悪しとか慣れなどを優先しています。
     そう言われると取り付く島がありませぬなあ。鉄壁の防御。ライオンにチョッカイを出したことを恥ずかしく思います。
    >カバちゃんはご自分の演奏をネットに上げていますか?
     もちろん上げていません。歌うことも書くとことも基本的には自分の内部に対してで、コンサートも妻や友人にも伝えません。録音もしません。ただ一度だけ、歌い始めて2年後のコンサートに妻がこっそり来たらしく、二階席から私の歌を録音しました。それが唯一の記録です。それを聴いて、あまりの下手さに汗が噴き出ました。他人様に聴いていただけるようなシロモノではございませぬ。
     新コロナで蟄居していなければ、ライオンに失礼なチョッカイなど出しませんでしたのに。                             by カバちゃん      

  8. すとん より:

    カバちゃん
    >それを聴いて、あまりの下手さに汗が噴き出ました。他人様に聴いていただけるようなシロモノではございませぬ。
     それは私も同じ。特に今回は、本当にヒドいと自分でも思いました。今回に限っては、ネットにアップするのを止めよう…とまで思いましたが、それでは自分の今までの言質に責任が取れないわけで、そこは恥をしのんで…と言うか、いつもどおり恥をかき捨ててアップしています。
     ま、私はプロではなく、あくまでも趣味の声楽学習者ですからね。エラそうな事を言ってても、所詮は旦那芸なんです。そこは私自身も割り切ってますし、皆さんにもご勘弁いただいているつもりです。
     演奏にしても、ご自身のご意見やお考えにしても、世間に公表する事で得られるものはあります。自分の狭量さを思い知り、鼻を折ってもらう事も、上達するためには必要な事です。まあ、麦踏みですね。麦は踏まれることで強くなるでしょ? 人間の芸だって、ダメ出しされる事でより上達するんです。ダメ出しをしてもらわないと…それこそ天狗になって、そこでお終いになってしまうんですよ。だから、世間様の目にふれる事は、とても大切なんです。

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