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喉声って、そんなに非難されるような声なのでしょうか?

 このブログを含む、声楽系の素人ブログでは、しばしば“喉声”が批判され、非難されます。なぜそういう記述が多いのか言えば…まあ、彼らの発声が基本的に喉声であり、それで散々注意され矯正させられ「喉声って悪い発声なんだな」と刷り込まれるからです。

 でもね、本当に喉声って、そんなに非難されるような声なのかな?

 実際のオペラを聞いてみれば、喉声ってテクニックの一つとして使われるよね。特に、怒りの表現などは、ヘラヘラってした声よりも、どっしりした声の方が良いし、そうでなくても、ヴェリズモなどの激しい表現を伴う曲の場合は、かなり喉声寄りの発声で歌われる事があります。もちろん、全員ってわけじゃないし、喉声の要素をかなり少なくして歌っている歌手もたくさんいます。

 おそらく、私が思うに、喉声には“美しい喉声”と“美しくない喉声”があり、“安全な喉声”と“危険な喉声”があり、“テクニックとして使い回しの効く喉声”と“不器用なだけの喉声”があるんじゃないかなって事です。

 まあ“喉声”ってのを“ファルセット”と置き換えると、割りとすんなり理解されるんじゃないかな?

 美声と言うのは、ノドに適度な力を加えて、適切にコントロールして発声された時に得られるモノで、力を込めすぎると喉声に、力を抜きすぎるとファルセットになってしまうと…私は考えています。

 力を込めるとか抜くとか言ったって、それは定量的に言えるものではなく、あくまでも、その人の体型とか声質とか年齢とか様々な要素で変わってくるわけです。他人が「この人、喉声で歌っている」と感じても、実は本人的にはかなりリラックスして発声している事もあるし、逆に本人的にはガチガチに力を込めているつもりでも、そうは聞こえない場合もあるわけです。

 ほんと、それこそ、声なんて人それぞれなんですよ。

 まあ、演劇表現として、筋肉を緊張させる事で表現される感情ってのがあるわけで、それは怒りの感情であったり、恐怖の感情であったり、我慢であったり…それらを歌唱で表現しようとすれば、ノドを含む身体を全体的にあるいは部分的に過緊張させる必要はあるかもしれないし、その表現として喉声あるいは、喉声寄りの声を使う事だって十分あるでしょう。

 結局、何が言いたいのかと言えば、純粋に発声技法として考えるならば、喉声は不健康だし不健全だし、批判され非難されるのもやむをえないし、素人は喉声歌唱をするべきではないけれど、喉声はファルセット同様、歌唱テクニックとしては有用な発声であるから、安全で美しい喉声を巧みに使いこなす事は、プロ歌手さんにとっては必要な事であろうと思うわけです。

 つまり、素人には禁忌だけれど、プロには必須な声ってわけです。

 実際、プロ歌手となれば、程度の差はあっても、喉声寄りの発声は出来ないと困ると思います。だって、実は、我々日本の庶民は、喉声が大好きだもの。

 我々の喉声好きは、たぶんDNAレベルで大好きなんだと思います。と言うのは、江戸時代に発展した歌付きの邦楽を聞いてみれば分かります。どれもこれも、強烈な喉声で歌うわけだし、そうやって唸った声を美しいと思っていたわけです。これが我々の本質であり、我が民族の声の好みなのです。

 だから、たとえ西洋音楽を歌うにしても、そういう唸りの要素(つまり喉声)を入れた声で歌えば「ああ、いい声だね」「朗々とした声だね」って思ってもらえるわけです。それを純粋に響きの声で歌っちゃうと「なんか物足りないんだよね」と思われて、次のコンサートのチケットの売上はガタ落ちしちゃうわけです。

 クラシック音楽のコンサートと言えども、所詮は興行だもの。お客さんが来てナンボでしょ?

 プロレスは筋書きがあってガチじゃないからダメって言う人がいるけれど、ガチの格闘技なんて地味で、素人が見ても面白くないよ。分かりやすく言えば、オリンピックでレスリングを見ても、たいていの人は、ちっとも面白いとは思わないのと一緒で、レスリングのままでは、興行としては成り立たないわけです。あれに筋書きを入れて、高度な肉体パフォーマンスショーにしたから、興行として成立するわけです。

 歌も同じ事なんだと思うよ。

 教科書どおりに歌っても、それが客に受けなきゃダメなわけです。客に受けるためには、ダメと言われるような発声方法でも、上手に使いこなせないとダメなわけです。だから、プロは、安全で美しい喉声発声ができるようにならなきゃダメなのです。でもそれはプロだからこそ求められる事であって、素人がプロレス技を見よう見まねで使うと、大怪我させたり死人を出したりするのと同様で、素人が喉声発声なんてしちゃいけないのです。

 つまり、喉声はダメよ…と言うのは、素人レベルの話であって、プロやハイアマチュアの人たちは、決してその限りではないって事なのです。

 …と私は思ってます。

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コメント

  1. ドロシー より:

    すとんさん、こんにちは。

    芸術として「美しさ」を求めるのであれば、喉声でなくても歌えるようになる、という意味ではないのでしょうか。私が思う芸術とは美しいことばかりでもなく、ヴェリズモのような醜い感情まで表現する必要性があるということも踏まえれば、喉声は確かに100%ダメというわけでもないのだと思います。
    必要に応じて喉声を使う場合がありえたとしても、喉声をやめる発声を身に着けるというのは、大切な基礎なのだと思います。
    その方がよく非難されている声楽教師の方、よく自分のレッスンの様子を動画で配信しておられる方だと思います(生徒の顔は写らないようにしています)。その方のおっしゃっていることが正しいのかどうかは判断できませんが、自分の演奏はアップしていても、生徒の様子まではアップしていない先生が多い中、尊敬に値するとは思います。

  2. すとん より:

    ドロシーさん

    >喉声をやめる発声を身に着けるというのは、大切な基礎なのだと思います。

     記事にも書きましたが、ノド声で歌っていいのは、それを必要とするプロやハイアマチュアの人たちであって、私のような、そんちょそこらに転がっているような路傍のアマチュアさんは、ノド声は禁忌だと思ってます。素人は、まずノド声で歌わない事が大切です。

     でもその一方で、我々日本人って、ノド声、大好きだよね。おそらく、オペラを始めとするクラシック声楽が受け入れられないのは、声に対する美学が日本と西洋社会では、根本的に異なるからではないでしょうか! そういう意味では、オペラ大好きな私なんて、日本文化的には変態なんだろうと思います。

  3. ドロシー より:

    すとんさん、

    イタリア人の先生についた人によると「イタリア人は、元々喉声ではないから、喉声を直す方法がわからない」と言っていました。
    やっぱり、喉声というのは、日本語の特性の影響のようです。

    >声に対する美学が日本と西洋社会と
    クラシックならそうかもしれません。やっぱり、子供の頃から教会に馴染みのある生活しているかとか、言語的な問題とかあるのかもしれません。
    一方で、シャンソンとかフラメンコの歌手はダミ声で声を張り上げたりしますね。
    フラメンコの世界って、どうも「情念」という感じで日本の演歌の世界に通じるなって、思ったことがあります。

  4. すとん より:

    ドロシーさん

    >イタリア人の先生についた人によると「イタリア人は、元々喉声ではないから、喉声を直す方法がわからない」と言っていました。

     なるほど、なるほど、なるほど。そうなんだ、目からウロコな話です。

    >日本語の特性の影響のようです。

     日本語というよりも、日本人の好みとか美意識とか問題なんだと思います。

     ある人が言うには、その好みの違いは建築の違いに起因するんだそうですよ。木と紙と泥で作られた家に住む人間と、岩やレンガで作られた家に住む人間の違いなんだそうです。声が突き抜けてしまって全然響かない家に住んでいる人間と、声が反響しまくる家に住んでいる人間の違いであり、低い天井の家に住んでいる人間と、高い天井に住んでいる人間の違いでもあるそうです。

     そうなのか? やっぱり、そうなのかな?

  5. tetsu より:

    ドイツリートと喉声でググッてみつかったサイト。

    https://ameblo.jp/molto-piu-acute/entry-12290740358.html
    ヴンダーリッヒのドイツ語版トスカは初めて聴きました。ビックリです。でもちょっと無理あるような。

    マリア・カラスは発声がいろいろ言われても、まだ若いほうのカスタ・ディーヴァみたいな録音(生で聴いたことありません)は大好きです。

  6. すとん より:

    tetsuさん

     今でこそオペラは原語歌唱が多いのですが、昔はどこの国も自国語に翻訳して歌っていたそうですよ。ウンダーリヒのアルバムはいくつか持っていますが、彼はドイツ語でイタリア・オペラを普通に歌っている歌手です。彼の次の世代のルネ・コロになると、イタリア・オペラはイタリア語で歌うので、ちょうど端境期な歌手だったんだろうと思います。

     オペラは歌であると同時に演劇でもあります。私がプロ歌手はノド声でも歌えないといけないという理由の一つにオペラがあります。オペラではノド声でも歌えないと劇的表現が厳しいんですよ。その点、ドイツリートはきれいきれいに歌っていればいいので、ノド声発声は不要でしょうね。

     で、アマチュア歌手の場合、オペラを歌う人なんて、ほぼいませんからね。歌っても、アリアを1~2曲程度です。私のように、部分的にであってもオペラの各幕を歌っちゃう人って、本当に稀有なんだろうと思います。

     ボエームの最後のロドルフォのミミを呼び求める声は、結構高い音ですが、ノド声要素が強くないと、締まらないですよ。あそこは響きやらアクートやらでピャーって歌っちゃダメな箇所です。それこそ、ぶち壊しになります。

     ウェルディやプッチーニはノドの声でも歌えないと厳しいですよ。だから、若い歌手たちは、ノドの声の要素の少ない、イタリア古典歌曲とかモーツァルトとかから学び始めるわけです。私がよく歌っている、トスティとかヴァリズモ系のオペラアリアなんて、本当はノド声の要素が強いので、あんまり素人が手を出しちゃいけない曲だったりします。

     でも、好きなんだよねえ(笑)。

  7. tetsu より:

    こんばんは。

    > その点、ドイツリートはきれいきれいに歌っていればいいので、ノド声発声は不要でしょうね。

    こちらはフルートしか表現手段はなくて、方法は別にして「きれいきれいに」(音色とかその他もろもろ)を極めるしかありません。

  8. すとん より:

    tetsuさん

     フルートに限らず、楽器というのは“きれいにきれいに”という方向に音色が進化してきたわけですが、現代の音楽表現では、それだけでは物足りなくなってきたので、現代奏法のテクニックとして、音色を汚すような奏法(例えば、フラッターツンゲとかグロウルとか)が生まれてきたんだろうと思います。

     そう言えば、ジャズフルートをやっていた頃は、これらの汚し系の吹き方を多用していた私でした。やっぱジャズで管楽器って言うと、サックスのイメージがあって、フルートでサックスっぽい事がしたかったのかな…って今更に思います。

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