心理学的な常識として、我々人間には“否定命令文”を理解して、その命令に従うことはできない…と言われています。
“否定命令文”とは、簡単に言えば「禁止命令」の事であり「~してはいけない」という命令文の事を言います。この否定命令文、文法的にはごくごく簡単なモノであって、我々も日常的には否定命令文を自覚なしに使っていたりするのですが、この否定命令文で命令されたことを守れる人間は、まずいないと言うわけです。
具体的に言えば「昨日の夕食の事を思い出してはいけない」と言われたとします。この否定命令を受けた人のうち、何人の人が、昨日の夕食の事を思い出さずに済んだでしょうか? おそらく、10人中10人どころか、100人中100人までもが、この命令を受けた途端に、即座に“昨日の夕食…何を食べたっけ?”と思いを馳せたはずです。…でしょ?
人間という生き物は、禁止されると、禁止された事に思考が集中してしまうという特性があり、その結果、禁止されたことを、禁止されたにも関わらず、実行したり、考えたりしてしまうのです。
いや、もしかすると“禁止”自体は、本来関係ないのかもしれません。我々は単純に、命令された事を実行しようとする性質があるだけなのかもしれません。他者から「上を向け」と言われれば上を向き「前に進め」と言われれば前に進むだけの、単純な生き物なのかもしれません。それゆえに、人間という種は、社会性を獲得できたのだと思います。(逆に言えば、他者の命令に従えない人は、反社会的な存在として扱われるわけです)
ただ、人間には社会性と同時に知性もあります。知性があるので、他者に対して命令する際に、指示的な(肯定的な)命令だけでなく、禁止的な(否定的な)命令もレトリックを駆使して、命じてしまう事があるのです。
この禁止命令(否定命令)ってのが厄介なんです。
我々は命令を受けた際に、その命令の肯定否定以前に、無意識に、先ず命令を実行しようとするのです。「前に進め」と「前に進むな」は、命令内容としては真逆であり、我々は知的には、その命令文の内容が真逆である理解できますが、命令を受けたカラダは、たとえ「前に進むな」という命令であっても、それを「前に進め」という指示的な命令として無意識に受け止めて、それを無意識に実行してしまおうとするわけです。
我々は知性がありますから、前に進もうとするカラダを知性で抑えて、前に進む事を阻止しますが、それでもうっかり前に飛び出してしまう人がいるのは、そういう事です。
バカですね、ほんと、バカですね。愛すべきバカですよ、我々は。
でも、これが我々なんです。物事を禁止されればされるほど、心がひかれてしまうのが、我々の本質なのです。
この事を知っていると、他人に命令/指示をする際に、有効な命令を出す事ができます。人間は否定命令には従えませんから、すべての否定命令を肯定的な指示命令に翻訳して命令すればいいのです。
「上を向くな」ではなく「前を見ろ」とか「目をつぶれ」と命じればいいわけだし、「前に進むな」ではなく「そこで立ち止まれ」あるいは「元の場所に戻れ」と命ずればよいだけなんです。簡単でしょ?
さて、音楽の話題に入ります。
よく音楽を習っていると“脱力”という言葉を聞きます。声楽なら「ノドを脱力しなさい」、フルートでも「クチビルを脱力しなさい」と言う具合です。
この“脱力”と言う言葉の意味は“力を抜く”であり、それは“力を入れない”という事なわけで、実はこの「~脱力しなさい」とは、一見、指示的な命令に見えて、実は動作としては否定命令文なのです。これが、脱力の難しさです。
脱力をする…とは、否定命令なのです。だから、我々が脱力できないのは、何の不思議も無いことなのです。
それを思えば、筋肉バカと思われがちな武道家のほうが、よっぽど賢いです。だって、彼らは「脱力」なんて言葉は使いませんから。彼らは脱力した状態を「自然体」と言います。「力を抜け」と命ずる代わりに「自然体になれ」と指示命令をするわけです。
脱力はかなり難しいですが、自然体でいる事は…コツさえつかめば簡単なことです。
でも「自然体」という言葉は、残念ながら一般用語ではありません。格闘界の専門用語で、音楽人を含めた一般人には、なかなか理解が難しいでしょうね。だから「脱力」という言葉を使うのだと思います。それに四の五の言うよりも「脱力」という言葉を使った方が簡単なんです。状態としては「脱力」で正解なんでしょうが、この状態になるために指示命令に従うのは、とても難しいのです。
他人に上手に指示を出せる人は、良い教師なんだろうと、私は思いますよ。
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コメント
私の通っている合唱団の先生は、
ピアニストに言わせると「天才」なんだそうです。
その意味が当時はわからなかったのですが、最近うなづけます。
最近練習を録音するようにしていてわかったのですが、
たとえば、ソプラノが少し良くない時はソプラノだけを歌わせる。
かなり良くない時は、他のパートを練習し、ソプラノに自覚させる。
問題点を言うのではなく、直接関係なさそうな他の場所を注意することで、格段にうまく歌えるようになったりするのです。
しかし、哀しいかな一過性で、もう一度歌わせた時、または次の練習の時にもそれを覚えているかというと、
団体活動の合唱団、ほとんどが忘れてしまっているのです。
先生に必要なこと、忍耐も追加すべきかと思うのであります。
ともさん
良い先生ですね。
出来ない生徒に「なぜ、出来ないのだ」と当たり散らしても、生徒は狼狽するだけで、ちっともできるようになりません。欠点を指摘する先生は、一見、素晴らしい先生のように見えますが、同時にその解決策も提案できないのならば、いたずらに生徒を不安にするだけの二流の教師です。
世の中、そんな先生方ばかりです。
正しいのは、ともさんの合唱の先生のように、欠点を指摘するのはなく、当人たちに自覚させないように、その欠点を直してあげる事です。欠点を指摘してしまうと、本人たちがその欠点に縛られてしまいますからね。
>しかし、哀しいかな一過性で、もう一度歌わせた時、または次の練習の時にもそれを覚えているかというと、団体活動の合唱団、ほとんどが忘れてしまっているのです。
団体活動の合唱団だけじゃないです。私も同じです。レッスンのたびに、毎回毎回、同じことを先生方に注意されています。
声楽のY先生が言ってました。一度で教えてできる生徒には先生はいらない。何度教えても出来ないから、何度でも注意するために、先生が必要なんだよ。
教育とは、先生と生徒の根気比べなんだそうです。
私もY先生のご意見には同意しています。先生には根気が、生徒には努力が必要なんでしょうね。