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宇喜多秀家は、晩年、幸せだったのでは無いだろうか?

 実は、宇喜多秀家という戦国武将について、私は興味も関心も持っていませんでしたが、八丈島に旅行に行き、彼がそこに流された最初の流人であると聞いて以来、ちょっとだけ興味を持つようになりました。彼が大河ドラマの主人公になりうるような人物かどうかはさておき、彼の人生について、少しだけ調べてみた所、色々と学びました。

 秀家は、我々は“宇喜多秀家”と呼びますが、同時代的には、そう呼ばれることはなく、一般的には(我々が会社の社長さん相手に「社長」と呼ぶように、秀家も役職で)“備前中納言”とか“備前宰相”と呼ばれることが多く、どうしても氏名で呼ばれる時は、豊臣一門であったため、羽柴秀家または豊臣秀家と呼ばれていた…というのは、意外だなあと思いました。

 豊臣一門、そうなんですよ。彼自身は宇喜多家の人間だけれど、彼の正室である豪姫が、前田利家の娘であり、豊臣秀吉の養女であった事から、豊臣秀吉から見れば“娘婿”の扱いを受けていたため、豊臣一門扱いを受け、羽柴姓または豊臣姓で呼ばれていたんだそうです。

 つまり、彼は当時的には、かなりの高貴な人であり、身分も家も強くて、なかなかのプリンスだったわけです。そもそもが備前(今の岡山県)の大名だったわけだしね。妻の実家である豊臣家や前田家も後ろ盾になっているし、彼自身、11歳で家督を継いでいるんだから、根っからの御殿様だったわけです。

 彼の運命が変わったのは、28歳で参加した関ヶ原の合戦ですね。西軍の主力部隊として戦い、負けてしまったわけです。敗軍の将として敵方の手に落ちれば処刑されてしまうところを、なんとか薩摩に逃げ延び、同じ西軍であった島津家の保護下に入ります。

 徳川と島津の間で和議が成立し、秀家は徳川方に引き渡されるのだけれど、多くの人々が助命嘆願をしたためか、処刑される事はなく、34歳の時に、息子や家来たちと共に、八丈島に流されることになったわけです。

 秀家が亡くなったのは八丈島で、83歳で1655年の事です。1655年と言えば、将軍は4代家綱の時代で、つまり、彼は徳川家康はもちろん、年下である、2代将軍秀忠やその子である3代将軍家光よりも長生きしたわけです。それどころか、関ヶ原に参加した、戦国大名たちの誰よりも長生きだったわけです。

 一説には、秀家が44歳の時に赦免され、八丈島から帰るチャンスがあり、妻の実家である前田家から大名復帰のオファーがあったそうだけれど、それを断って島に残って、島に骨を埋めた…という話もあります。

 八丈島の生活には不便もあっただろうけれど、妻(彼女は島流しにならず、実家の前田家に出戻ったそうです)の援助で、それなりの生活を送っていたそうです。長生きをした結果から考えても、島に流される際に出家をしていたそうなので、晩年は、御仏に心を委ねて、俗世のあれこれを切り捨てて、心穏やかでストレスの少ない人生を過ごせていたのではないかと思われます。

 それを考えると、彼は、社会的には、敗軍の将として惨めな晩年と見られるかもしれないけれど、メンタル的には、穏やかで幸せな晩年ではなかったのではないかと、私は考えます。もちろん物資的には不足はないし、お付の従者たちもきちんと使えてくれていただろうし…ね。たぶん、心身ともに幸せを感じていたのではないかしら?

 彼は島流しによって、強制的に隠居させられたわけだけれど、隠居生活は、精神的にはかなり幸せだったのだろうと思うし、そうでなければ、あの時代、あんなに長生きなんて出来っこないでしょ? 「終わりよければ全てよし」という言葉がありますが、そういう観点では、宇喜多秀家って、紆余曲折はあったにせよ、幸せな人生を送った人だったんだと思います。

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