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裁判所は間違えた…と、私は個人的に思います。

 岩手県一関市の会社員さん(仮にAさんとします)が、戸籍上の性別を、女性から男性に変更する事が盛岡家庭裁判所によって認められたそうです。

 詳しくはこちらの記事を御覧ください。

 この裁判所の判断は、間違っていないか? この判決が判例となった場合に、社会に大きな混乱を招きかねないのではないか? と私は心配しています。

 とは言え、別に私は「性同一性障害の人の性別変更を認めない」とか思っているわけではありませんし、困っている人が少しでも幸せになってほしいと、ごくごく普通の良識程度は持ち合わせています。なので、別に性同一性障害の人の性別変更そのものに反対をしているわけではありません。

 ではどこが“間違っている”と思っているのか…この裁判での問題点として、Aさんの身体は完全な女性のままなのです。身体は完全な女性のまま、戸籍上の性別だけを男性に変更する事が認められてしまった事を、私は問題視しているわけです。

 なぜこんな事が起こったのか? おそらくは、上記の記事にも書かれている「従来は戸籍上の性別を変更するには、事実上、生殖能力をなくす手術が求められていたが、最高裁判所は2023年、これを違憲とする判断を示した」事が前提となって、Aさんの性別変更を認めたのでしょうが、これってどうなの?って思うわけです。

 最高裁の言いたい事は分からないでもありません。確かに“生殖能力をなくす手術(≒性転換手術)”は大きな手術だし、被術者に大きな負担を強いる手術である事は間違いないし、そんな大手術が一部の人たちに事実上強制されている事が、人権侵害ではないか…と考える人たちもいるだろうし、もしそんな事が強制されているのなら、憲法が定める人権という観点から見て、間違っているわけで…そんなこんなで、性転換手術の強制は違憲…とかいう判断が出たんだろうなあって思うわけです。ま、どうなんだろ?

 ただね、憲法ってのは国を縛る法であって、国は憲法を基に法律を作って、その法律が私達国民を縛るわけで、憲法が直接国民を縛る事はないんだよなあ。だから、現状と憲法に乖離があるのなら、現状を優先して憲法を改正すればいいし、憲法を遵守して現状を変更するのなら法律を改正すればいいわけです。

 今回は“肉体的には女性だけれど、精神的に男性なので、男性である”として、Aさんを法的に男性として認めてしまったわけです。それって、どう考えてもおかしくない? “肉体的に女性”の人は、やはり女性でしょ? なのに、その人を、精神的に男性であるからと言って、法的にも男性として認めてしまう事に、問題はないの?

 話をもっと分かりやすくするために、逆の性別のパターン。つまり“完全な男性の肉体を持つ女性”という存在について考えてみましょう。

 肉体的に男性である人を女性として認め、女性としての様々な権利を与えてしまった場合、世間一般の普通の女性たちは暮らしにくくなりませんか? 女性だけの空間(トイレ、更衣室、大浴場等)に、男性の身体を持つ人が入ってきても、その人が法的に女性であり、その人の行動を法的に制止できない根拠を、裁判所が作ってしまったわけです。

 どう考えても、ダメでしょ? いくら「心は女性なんです」と言い張っても、身体が男性であるならば、周囲の人達はその人を男性としてしか認められませんし、そんな人が女性専用の空間にいたら、世の多くの女性達は不安でなりません。

 少数派の人間の不都合を解消するために、圧倒的多数の人々の生活を脅かすのは、ダメだと私は思うわけですよ。

 現代社会の基本理念に「最大多数の最大幸福」ってのがあるわけで、少数派の人が不幸なままでいて良いとは、さすがに言えませんが、だからと言って、その少数派の人の不都合を解消するために、圧倒的多数の人々が不都合な状況に置かれるのは、絶対に間違っていると思うわけです。

 もしも、この法的女性が性犯罪を犯した時に、司法はどう判断するんでしょうね。法的には、女性が女性に対して性犯罪を犯すなんて、ありえないわけだから、法的には裁くことはできるはずがないわけですが、肉体的には男性なんだよ、十分に性犯罪を犯しうる立場にあるわけです。

 法というのは、必ず悪用する人がいるわけですが、その事について法律関係の人って考えないのでしょうか? 身体の性別は簡単に確認できますが、心とか精神なんて目に見えないものでしょ? それを第三者が確認できるのかよ!って思わないでもないです。「精神的には女性なんです」と言い張っても、それを証明する手立てなんて有り得ないでしょ?

 私は心とか精神とかに性別なんて無いと思ってます。あるのは嗜好性です。つまり「何が好きで、何が嫌い」ってだけの話です。かわいいものが好きな男性がいてもいいし、恋愛ドラマが好きな男性がいてもいいし、女装が趣味の男性がいてもいいし、何なら(私が対象になるのはイヤだけれど)男性を性的な対象とする男性がいてもいいわけです。もちろん「自分は本当は女性なんだ」と思う男性がいてもいいわけよ。それが思想の自由だし、基本的な人権ってヤツだもの。

 今回の件で裁判所は、肉体的な性別と(もしあれば)精神的な性別をごっちゃにしてしまったのだと思います。そこが失敗の元凶かな?

 今の日本社会は、性別って奴を肉体的な性別を基準にして成り立っているわけだから、そこをふまえた上で、良識の府である裁判所は、判断をくださなければいけなかったと思います。

 そもそもを言えば、性別変更に“生殖能力をなくす手術”を不要した事自体が、時期尚早だったのかもね。だって“男性としての生殖能力を持った女性”とか“女性としての生殖能力を持った男性”の存在を法的に認めるなんて、災いの元でしかないでしょ? 

 そもそも、それって、本当に男性であり、女性であるの? だって、男性としての生殖能力を持った人って“男性”でしょ? 女性としての生殖能力を持った人って“女性”でしょ? そこを外して考えるなんて、おかしいでしょ?

 …なんて事を書いちゃうと、左巻きな人とか、赤い人とかに、叱られそうだなあ。

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