一カ月ほど前ですか、「歌は能動的に歌わないといけません」と散々あおっておきながら、その後、何の音沙汰もなしですみませんでした。いやあ、毎日アップしなければいけない他のネタが目白押しで(笑)、あの中途半端なままではいけん、こらいけん、とずっと思ってましたが、ようやくそのタイミングとなりましたので、今更の感じもしますが、ガーっと書いて、私の心を軽くしたいと思います。
この記事は、歌うときの姿勢、気持ち、考え方に関する記事です。他人に語るというよりも、自分に向かって書いている部分が大きい感じで、極めて個人的な文章です。たまにはこんなのいいかな?
という訳で…、タイトルにある「歌は能動的に歌わないといけない」ですが、この言葉は実は「歌わされてはいけません」の裏ッ返しになっています。では何に「歌わされてはいけない」のか? 色々あります。
まずは「楽譜」。楽譜に歌わされていけません。楽譜通りに歌うのです。「歌う」と「歌わされる」の違いをいつも心に留めて、楽譜に歌わされないように気をつけたいです。
単に楽譜通りに歌えば良いなら、私が歌わずとも、初音ミクあたりに歌わせておけばよいのです。いや、初音ミクですら、きちんと歌わせようと思えば、色々なパラメーターを考えてコントロールしてゆかなければなりません。ましてや、人間をや、です。だから歌をもらったら、楽譜をよく読んで考えて、能動的に歌わないといけないのてす。
でもこの「楽譜に歌わされる」。気をつけていないと、すぐにハマル罠です。例えば、最近の私で言えば、楽譜の音高にこだわりすぎていました。音程に気をつけすぎて、音楽そのものを見失っていました。これも「楽譜に歌わされている」状態です。きちんと能動的に楽譜を歌わないといけません。
次に「指揮者」。指揮者の指示通り歌わされてはいけません。
合唱には指揮者というものが必ずついてきます。で、この人が「そこはもっと大きな声で!」とか「そこはもっとゆっくりと!」とか「もっと笑顔で歌って~!」とかの指示を出します。
指揮者という人種は、多くの理に適った要求をするために存在してますが、時折、音楽性というものを優先するあまり、ムチャを言います。無論、あちらに悪意がないことは承知してますが、どう考えても演者にムチャな要求をしてくることがあります。また、ムチャとは言えなくても、ムリなことを求めてくることもあります。また、合唱団全体にとっては妥当なこと、あるいはそのパート全体にとっては妥当なことであっても、個々人、とりわけ私にとって、ムリなことを要求することもあります。
そんなムチャやムリにイチイチ答えていたら、私が壊れます、ツブされます。
あるいは、身体的にタフであって、ムチャぶりにも、容易に壊れない強いボディをもっていたとしても、成長は望めません。できることは誠意をもって行い、できないことは…勇気を持ってクチパクかな? でも、クチパクは潔しとは思えません。
合唱とは、個よりも集団を優先することで成り立つものです。それを導くのが指揮者です。だから、安易に指揮者に歌わされてはいけないのです。
集団のために個を犠牲にするのは尊い事であるという価値観があることは知っています。でも音楽の世界でそれを言い出すのは、私の思うところではありません。音楽の世界って、基本的にはエゴとエゴがぶつかる世界だと思います。だからこそ、自分を大切にし、自分を守っていかないといけないと思ってます。
たとえ集団の中にいても、自分という個は守っていかなければなりません。私にとっての自分は唯一無ニなのですから。集団のために個が犠牲になるのなら、それでは、個がかわいそ過ぎます。個が十分強くて力があって、集団のために歌っても犠牲にならないくらいの立派な個が確立しているならば、合唱もよいでしょうし、指揮者の指示通り歌うのもよいでしょう。
だから、合唱そのものは否定しません。むしろ大好きですし、合唱肯定派です。
しかし合唱をするなら「指揮者に歌わされる」のではなく「指揮者と」一緒に「能動的に歌わないといけない」と思ってます。個々人が能動的に声を合わせて合唱を作り上げるのです。それが肝心だと思ってます。
ですから、そこに至るまでの必要最低限の力量が備わるまでは、合唱をするべきではないと個人的に考えてます。キビシイ考え方だとは重々承知しています。反論する人がいることも承知してます…と言うか、ここにこんな事を書いている一方で、その論に反対している自分がここにいます。しかし、個の成長という観点にたって考えた時は、やはり「歌わされる」ようではダメだろうと思います。
力量不足のまま合唱をしては、自分がかわいそうなだけでなく、合唱団にも迷惑をかけます。また力量不足のまま合唱し続け、時とともに力量が備わってくるかとの話に関しては、そうとも言えるし、そうとは言えないとも言えます(衒学的表現でゴメンナサイ)。
まずは自分自身に力を蓄えること、これが先決です。くれぐれも指揮者に歌わされてはいけません。
最後は「自分」です。自分の色々な思いや見栄や欲に歌わされてはいけません。歌は聴く人のためのものであって、歌う人のものではありません。つまり、歌う自分が気持ちよくなるために歌うのではなく、聴くお客様方が心地よくなるために歌うのです。
場所や時間を考えて歌わないといけないでしょう。歌う場の雰囲気や趣旨だって考えて歌わないといけないでしょう。共演者の事だって考慮に入れておかないとマズいでしょ。無論、客層を重んじることは論を待ちません。
入場料を取っているなら、その料金に見合った演奏はできているのでしょうか?
聴く人の立場になって「能動的に歌わないといけない」のです。「聴かせてやる」のではなく「聴いていただく」のです。「歌わせていただく」のです。「自分の様々な思い」に「歌わされてはいけない」のです。そこんとこを勘違いしてはいけません。
例え発表会のような場であっても、持てる力のすべてを出し切って、観客席で座っている方々の喜びとなるような演奏を、考えて行なっていかないといけません。そのためには、そこまでに積み上げてきた練習の際に、能動的に歌ってこなければならなかったでしょうし、またいよいよ本番の舞台の上では、それこそ臨機応変に能動的に歌わないといけないと思います。
私は「歌は能動的に歌わないといけない」ことを、常に忘れずにいたいと思ってます。
果たして私は能動的に歌を歌っているでしょうか? 日々、自問自答の毎日です。ちなみにフルートは…全く能動的ではありません。楽譜に振りまわされています。まだまだダメですね(涙&笑)。
コメント
わかるような気もしますし、ご自分に厳しすぎるような気もするし・・・という感じです。
今”慰問コンサート”について考えていますがそのことと通じるようなものも感じます。
>Ceciliaさん
ま、気持ちの問題なんです。自分に対しては誰もが甘くなってしまいます。私だってそうです。ですから心構えとしては、多少厳しすぎるくらいでちょうどいいのだろうと思ってます。
もちろん、自分に対する基準と他人に対する時のそれとは違いますよ。私、他人にはそんなに厳しくないつもりです。…つもりなんですが、他人はどう見ているのでしょうね、私のこと。
すとんさんの「能動的に歌う」と、Ceciliaさんの「慰問コンサート」に思うこと・・・
私は、慰問コンサートのようなものに2回ほど参加したことがあります。それから、依頼を受けて、団として、ちょっとした会の前座のようなものとして歌ったことが2~3回あります。
その時感じたことは、観客が期待しているものは何か、どうしたら、心に残る歌を歌えるかということです。観客の期待するもの=私たちが能動的(媚をうることなく)に伝えたいこと、表現したいこと、となった時、お互いが満足感というか、充実感を感じられるのではないでしょうか・・・と思いました。
>ひと休みさん
慰問コンサートですか…。私は“慰問”だからこそ、一般的なコンサートよりも、ずっとずっとお客さんたちに喜んでもらいたいなあと思うタイプの人間です。病院や老人施設などの慰問の場合は、特にそれを強く感じます。
自分たちのできることと、お客さんたちに喜んでもらえることのすり合わせが、慰問コンサートのプログラムを考える際のポイントとなるのでしょうが、これがとても難しいそうですね。
ですから、慰問コンサートを熱心に行い、行く先々で喜ばれている団体さんって、すごいなあ…って思います。