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トスティはイギリス人だったって知ってましたか?

 さて、今回もトスティの話です。

 日本で歌われるトスティの歌曲のほとんどがイタリア語の歌詞に曲をつけた、いわゆるイタリア歌曲であるために、トスティはイタリア人だと思われがちですが、実は彼はイギリス人だったという事、ご存知でしょうか?

 無論、トスティはイタリア生まれで、その両親ともにイタリア人であり、血筋的には生粋のイタリア人である事には間違いないし、彼の母国語もイタリア語でしょうし、前回の記事で書いた、彼の前半生を見る限り、彼は間違いなくイタリア人なのですが、21世紀の我々の視点から見た場合、彼はどこの国の人なのかと言えば、イギリス人であると答えるのが正解と言えるでしょう。

 つまり国籍の問題です。トスティの国籍は、実はイタリアではなくイギリスなのです。だから、彼はイギリス人…って事になります。

 トスティはイタリアで生まれ、イタリアで教育を受け、若い時分はイタリアで活動していましたが、これまた何があったのかは分かりませんが、30代も半ばの時、あれだけの人気者であり、ブイブイ言わせながら活動をしていたローマを捨てて、トスティはイギリスのロンドンに移住します。

 その後、死の3年前まで、イギリスに住んで働いて、その地でたくさん作曲して(我々が知っている彼のイタリア歌曲も、その多くがイギリスで書かれています)、結婚をし、子どもを産んで家庭を作ります。彼の、いわゆる現役時代の生活の拠点は完全にイギリスにあったわけで、友人たちの多くもイギリス人で、イギリスでもローマ同様に、王家とのつながりを作り、イギリス王室の声楽教師(具体的にはヴィクトリア女王の声楽教師)として働いていたわけです。

 なぜ彼はローマを捨ててイギリスに渡ったのか? これまた本人しか分からない事情があるでしょう。でも私が邪推するに、いくつかの原因があります。

 一つは…何か大きなトラブルを起こしてローマにいられなくなった? イタリア王家がらみで恋愛沙汰を起こしたという説があります。まあ、当時のトスティは、若くてモテモテの独身男性ですからね。全くない話でもないでしょう。

 あるいは…彼のイギリス移住の少し前から、トスティが作曲した楽譜が売れ始めるようになりました。当時は今と違って、録音技術がなかったし、著作権関係も整備されていませんでした。作曲家の収入は、自作曲をコンサートで演奏して、そのギャラをもらうか、楽譜を出版して、その印税をもらうかの2つがあったわけで、だから彼もサロンで自作曲を歌って、演奏収入を得ていたわけだし、彼のファンのご婦人方が楽譜を買ってくれて、それも収入にしていたわけです。

 ところが楽譜は作者のいない地域でも販売されています。

 トスティの楽譜は、彼のイギリス移住の少し前から、イタリア語の下に英語の歌詞を付けて印刷されるようになり、それがイギリスで販売されるようになったのだそうです。イギリスは当時“日の沈まない国”と言われる大英帝国として世界有数の強国だった時代です。そこで、トスティの楽譜が販売されるようになり、これがまたバカスカ売れたんだそうです。つまり、イギリスでもトスティは大人気になったわけです。

 そんなこんなの色々な理由があったのかなかったのかは、私には分かりませんが、とにかくトスティは、えいやー!とばかりに、慣れ親しんだローマを離れて、イギリスに渡りました。

 イギリスに渡ったトスティは、すぐにイギリスの上流階級に食い込み、お金持ち相手の声楽教師を始めます。イギリス王家にも食い込みます。イギリスのロイヤル音楽アカデミーの教授にもなったんだそうです。すごいね。雇われ外国人教師としては、すごい出世だよね。

 そんな先生業の傍ら、彼はガンガン作曲を始めます。今、私達が知っているトスティの歌曲の大半は、彼のイギリス時代に書かれた作品です。

 当初は、イタリア語の作品に英語の訳詞をつけて販売されていた彼の作品ですが、やがて直接英語に音楽をつけるようにもなりました。トスティの英語の歌曲ですね。これがまた、当時はバンバン売れたんだそうです。あまりに売れすぎて、ほぼ流行歌です。

 なにしろトスティの英語の歌曲は、上流階級のみならず、イギリスやアメリカの中産階級のご婦人方にも大受けだったそうで、それゆえに楽譜がガンガン売れたんだそうです。
 実際、彼の英語の歌曲は、中産階級の人々にも愛されて、売れすぎてしまったために、当時から玄人筋には評判が悪かったのです。その一方で、イタリア語やフランス語(上流階級のご婦人はフランス語が大好き)の歌曲は、英語の歌曲ほどは売れなかった(…って事は、中産階級にそっぽを向かれていた可能性があります)そうです。意外ですね。我々が知っているイタリア歌曲も、当時は英語で歌わわれていたものがたくさんある…そうです。

 まあ時代はすでに20世紀ですからね。イギリスやらアメリカやらが、ブイブイ言わせている時代ですからね。そこへいくとイタリアなんて、小さな小さな国だからね。

 イギリスに渡ったトスティは、その地で大成功を収めるわけです。

 そんなトスティがト60歳の時に、その時点ですでに30年以上イギリスで暮らしていたそうだけれど、その年にイタリア国籍を捨てて、イギリス国籍を取得し、それから程なくして、準男爵の称号をもらっています。

 だから、トスティの国籍はイギリスであり、彼はイギリス人なのです。

 彼を呼ぶ時は、イタリア名の“フランチェスコ・パオロ・トスティ”ではなく、本当ならば、アタマに“サー”をつけて、サー・フランシスコ・ポール・トスティ、またはサー・フランシスコと呼ぶのが正しいのです。なお、同じ“サー”を付けなきゃいけないのだけれど、ポール・マッカートニーは騎士(ナイト)であって、トスティは準男爵(バロネス)なので、トスティの方が上位になります。

 なぜ彼はイギリス人になったのか? それはトスティ本人しか分からない事だけれど、長くイギリスで暮らし、働き、成功して、生活の拠点もイギリスにあったわけだし、イギリス王室の方々とも親密な関係にあったわけで、私がトスティなら、30年どころか、10年ぐらいでイギリスに帰化しちゃっただろうね。だって、その方が自然だし、便利じゃん。

 ちなみに、ヘンデルもトスティと似たような人生を送ってます。ヘンデルもドイツ生まれのドイツ人(正確に言えば、当時はドイツなんて国はなくて、神聖ローマ帝国ね)として生まれたわけだけれど、トスティ同様に若い時にイギリスに渡り、そこで働き、そこに住み、その地でたくさん作曲して、生活の拠点が完全にイギリスにあり、友人たちの多くもイギリス人で、イギリスに帰化しています。トスティは帰化までに30年かかったけれど、ヘンデルは15年で帰化しています。

 ちなみにヘンデルは生涯独身で結婚していなくて、子どももいなくて身軽だったので、すぐに帰化しちゃったのかもしれませんが…。

 話をトスティに戻します。トスティはイギリスに帰化したけれど、生涯イタリアを愛して、英語なんか一言もしゃべらなかったという説もありますが、生涯イタリアを愛していた事は事実だろうけれど(なにしろ、晩年はイタリアに戻って死んでますからね)、英語を話さなかったというのは、おそらく間違いです。たぶん、トスティは英語ペラペラだったと思うよ。

 もちろん、イギリスに30年も暮らし、多くのイギリス人の生徒を抱えた先生だったわけだから、英語が話せないわけがないじゃん。

 彼の約300曲に及ぶ歌曲のうち、その半分はイタリア語の詩に曲をつけたもの(イタリア歌曲)だけれど、実は作品の約1/4は、英語の詩に曲をつけたものですし、それがまた自然に詩と音楽が寄り添うように作曲されているわけで、こういう作曲ができる人が英語を話せなかったわけないじゃん。

 ちなみに、残りの1/4の歌曲はフランス歌曲ね。つまり、トスティはイタリア語、英語、フランス語の歌曲を書いているわけで、彼はむしろ語学が得意なタイプだったんじゃないかしらね?

 とにかく、トスティはイギリス人である…って事なんです。なんか意外だよね。

 トスティの英語の歌曲に良い曲はたくさんありますが、その中でも当時バカ売れした曲をアップしておきます

 「That Day!/あの日!」です。良い曲ですよね。私もいずれ歌ってみたいと思っている曲です。ここで歌っているのは、キングオブハイFの、ウィリアム・マッテウッツィです。

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