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道具へのこだわりが無くなりつつある私…なのかも?[2016年2月の落ち穂拾い]

 最近、フルートのレッスンでは、相変わらず総銀フルートのアゲハを吹いてますが、自宅の練習では、アゲハではなく、案外プラ管フルートを吹いていたりします。シルバーとプラスチックはもちろん、インラインとオフセット、リングとカバードなど、数々の違いがある二本のフルートですが、最近はその違いが全然気にならなくなってきました。別に総銀じゃないとダメとか、プラ管の方が良いとか、そんなこだわりもなく、単純に「フルートはフルート。それ以上でもなければそれ以下でもない」って感じなんです。

 道具にこだわらなくなってきたと言うのは、良いことなのか悪いことなのか、自分でもよく分からなくなってきました。

カウンターテナー

 昔々、教会では女性が目立ってはいけなかったのです。

 ですから劇場などでは、合唱曲は現代同様に、混声四部合唱なら、女性が高音パート(ソプラノやアルト)を歌うのが普通でしたが、教会ではそういうわけにもいかず、劇場ならば女性が歌っている高音パートも男性が歌わないといけなかったのです。

 そのため、女性が歌うような高音パートを歌う、特別な男性歌手が教会にはいました。それがカストラートです。バロックから古典派の時代にかけて、カストラートは大人気となり、教会だけではなく、劇場でも歌うようになりました。役柄的にはヒーローの役が多く、現在のテノール歌手のような存在だったようです。

 しかし時代も移り変わり、ロマン派の時代になると、カストラートはどんどん衰退していきました。ま、基本的に不自然な存在ですからね。衰退していくカストラートに代わっていったのが、少年合唱とかカウンターテナーでした。しかし、少年合唱は短い期間しか歌えないし、カウンターテナーはそもそも稀少な声なので、やがて先細りになってしまい、現代では、教会でも劇場と同じように、女性が合唱の高音パートを歌うようになりました。

 そんな経過があるので、本来、宗教的な合唱曲の場合、現在は女性が歌っているソプラノやアルトのパートって、男性の声で歌うのが本来の形であり、それが作曲家が思い描いていた音なのです。カストラートは無理としても、少年合唱やカウンターテナーが歌う方が、女性が歌うよりも、本来の曲の姿に近い事は言えます。

 と言うのも、いくら音域が同じでも、男声と女声は違うので、カストラートが絶滅したからと言って、女声が歌うよりも、カウンターテナーが歌った方が良いのです。

 でも、カウンターテナーは稀少な存在です。最近は、声楽テクニックも上がってきたので、昔よりもカウンターテナーの人数も増えてきましたが、それでもまだまだ十分とは言えませんし、合唱ともなると、すべてをカウンターテナーでまかなうわけには参りません。

 だからと言って、女声とカウンターテナーを混ぜてしまうのは合唱曲的には難しいのです。と言うのも、男声と女声ではたとえ音域を同じに揃えても音色がかなり違うので、この両者を合唱としてまとめるのは、難しいと思います。なので、最近のパターンとして、独唱はカウンターテナーが担って、合唱は女声が行うというのが多いですね。

 そんな事もあって、カウンターテナーの声はよく響く…と思われがちですが、別にカウンターテナーだから声が響くのではなく、声のよく響くカウンターテナーだけが生き残っているだけの話です。だって現在のカウンターテナーって、原則、みんなソリストですから、声が響かなきゃ仕事に差し支えるわけです。

 声が響かなくても良いなら、私だってカウンターテナーやれますよ。私の声でも、合唱程度なら十分ですが、独唱としては、私の発声では、あまりに声量がなさすぎて、実用的ではないので、カウンターテナーをやらずに、テノールをやっています。だって、テノールなら、独唱として、声量バッチリだからね。

 結局、カウンターテナーが出来る人がいたとしても、その人にはカウンターテナー以外の声の可能性もあるわけで、むしろそっちの方が有望だったりするので、なかなかカウンターテナーの数が増えていかないんだと思います。

 と言うのも、カウンターテナーって、男声としては発声が独特なので、他の声種との両立が難しいんですよ。テノールもバリトンもバスも、男声ならば、声種によって響きの場所を変えているけれど、基本的には胸声中心の発声方法です。しかし、カウンターテナーは、女性と同じ頭声中心の発声をします。

 これは性別と言うよりも、使う音域が違うために、発声方法が違うだけです。その証拠に、女性にもごくわずかだけれど、テノールとかバリトンとかがいますが、それらの方は男性と同じ胸声中心の発声方法になります。でも、いくら音域が同じでも、性別で音色が違うので、いくら低くても、女性のテノールやバリトンは、やはり女声にしか聞こえません。

 有名な人では、和田アキ子さんがそうですが、あの人ってバリトンなんだよね。でも、彼女の声は、低い女声であって、男声とは違うでしょ? つまり、そういう事なんです。

国産オペラに未来はない?

 国産オペラって…ほぼ全曲、現代音楽です。ストーリーも難解だし、メロディーも難解だし、和音進行も難解な上に、美しいメロディーが皆無と来ては、とても聞きたいとは思えません。さらに言えば、歌いたいとも思いません。

 私の認識では、洋の東西問わず、現代音楽の手法で作曲された現代オペラというのは、あまりに芝居寄り過ぎて、音楽的に難しいばかりで、その魅力は圧倒的に少ないと思ってます。つまり“作曲者と演奏者だけが楽しい音楽”であって、観客は置いてけぼりになっていると思ってますし、その傾向は決して変わっていかないと思います。だって、エンタメ要素が限りなくゼロ…というよりもマイナスなんだもの。ありゃあ“一般人お断り”って言っているようなものだし、一般人を無視したモノは現代社会では、廃れていくものだよ。

 私はむしろ、国産オペラよりも、日本のオリジナルミュージカルの方に期待しています。

 今、特に熱いのが“2.5次元ミュージカル”ってヤツでしょうね。流石に今はまだ“腐女子の楽しみ”という側面が強くて、オジサンは楽しめないし、歌や演技を横に置いても、音楽作品としてみた場合も「???」な感じがしないでもないけれど、それは今現在の話であって、少なくともエンタメとしては成立しているので、やがて作品としてもレベルの高い曲が生まれてくる可能性は否定できません。将来は、ロンドンやブロードウェイにも勝るとも劣らない作品が出てこないとは言えないでしょ?

 今はまだ、2.5次元を含め、日本のミュージカルのソングで、特に歌いたいという曲とは出会っていませんが、やがてそのうち、名曲と出会い「ああ、歌ってみたい」と思えるような日がやってくるような気がしています。

 と言うわけで、現代日本音楽なら、オペラよりもミュージカルの方が未来がありそうな気がしています。

良い声とは?

 音楽ジャンルによって“良い声”と言うのは、明らかに違います。だって、オペラ歌手の美声と、義太夫の美声は、どこをどう聞いても、違う声でしょ?

 クラシックの中ではどうなの?って話になると、どうなんでしょうね。古楽とドイツ歌曲とイタリアオペラでは、求める美声は同じでしょうか、違うのでしょうか?

 たぶん、究極の完成形は同じだろうけれど、そこに至る途中過程で求められる美声は、使用言語の違いもあって、たぶん違うような気がします。それこそ、ちょっと前までは「ドイツ式発声」とか「イタリア式発声」とかという用語があって、リートとオペラでは全く違う発声をしないといけない…とか思われていたようですからね。でも、今は究極的には同じって事で落ち着いているようです。

 つまり学習過程、あるいは成長過程の途中で、リートにふさわしい(けれどオペラには向かない)声であったり、オペラにふさわしい(けれどリートに向かない)声である状態の時があるかもしれないけれど、さらに学び成長していけば、リートにもオペラにも対応できる声になっていく…と思っていますし、実際、上手なプロの歌手を見れば、そうなっているしね。

 でも、そこに行くのにどれくらいの時間がかかるのかと言うと“?”ですね。

 よく器楽の世界では「一万時間練習するとプロになれる」とか言いますが、声楽の世界では、それは通用しないのです。

 と言うのも、声楽の世界では、努力も必要だけれど、努力以上に才能がモノ申す世界だからです。才能という言葉が曖昧なら、持っている楽器(ノド)の違いによる…と断言しても良いと思います。

 声楽の場合、皆さん、持っている楽器が違うから、当然スタートが違うわけで、スタートが違えば、同じような努力をしても、ゴールにたどり着くまでの年月は当然違うわけですしね。声楽って、結構、後から入ってきて追い越される事ありますが、それって単純に、スタートしている場所が違うからです。極端な話、他の人にとってゴール地点からスタートする人だっているわけだし、そういう人じゃないとプロにはなれないって事です。

今月のお気に入り きよし盛り

 たぶん“きよし盛り”と書いても、誰に通じないと思います。なにしろネットで“きよし盛り”とググっても、何もヒットしないし…。

 ウチの近所のスーパーで毎日売っている、日替わりお薦め刺し身セットの名前が“きよし盛り”なんです。まあ“盛り”は“盛り合わせ”って意味だろうけれど“きよし”の意味が全然分かりませんが…別にそんな事、どーでもいーです。

 だいたい、ひと船に4~5種類の刺し身が乗ってます。載っているモノは毎日違いますが、最近はだいたい、アジとイカとカツオとキンメダイが常連さんで、それにマグロやら貝やらがよく乗ってます。それで通常価格が500円前後で、それを遅い時間帯に買うので、だいたい半額です(笑)。

 安くて美味しいので、だいたい毎日食べてます(笑)。お気に入りなんです。

今月の金魚

 みんな元気でした。真冬にも関わらずヒーターを入れなかったけれど、なんとか頑張ってくれたようです。

今月のひとこと

 学校の社会の授業では「りんごは北国で、ミカンは南国で生産され、この二つの果物が同時に出来る地域はありません」って習います。でもね、私が住んでいる湘南地方では、りんごもみかんも両方とも生産されています。つまり、りんごの南限であり、みかんの北限なんだろうと思います。ふと近所を見れば、春先はスズランが生えていた所に、夏はハイビスカスが咲いていたりする、不思議な地域なんだよなあ、湘南って。(2016年1月29日~2月2日)

 最近、やたらとCM等で和田アキ子を見かける。別に私はこの人に対して何か言うほど気になっているわけではないけれど、それでもやたらと見かけるので、ちょっと違和感を感じてます。旬の若い女優さんやバラドルさん、売出し中のお笑いコンビをCMで見かけることはよくあるけれど、なぜ、今、和田アキ子? 私の知らないところで、和田アキ子ブームが起きているのかしら? なんとも落ち着きません。(2016年2月2~3日)

 本日は節分だけれど、ニュースでは「健康被害が生じるので、子どもにマメを食べさせてはいけません(つまり『子どものいる家では豆まきするな』)と報道した直後のCMで恵方巻きの宣伝をしています。十年前は、恵方巻きの“え”の字も言ってなかったのに、いつのまにか、節分はマメをまく日ではなく、巻きずしやロールケーキなどを食べる日になったのでしょうか? なんか、日本伝統文化が変化…ってか、心情的には、壊れていくよう気がして、イヤです。恵方巻きって、よほど儲かるんでしょうね。(2016年2月3~4日)

 立春です。春がやってきました…という事は、花粉の季節がやってきたわけです。春になって、暖かくなるのはうれしいのですが、花粉が飛び回って、あっちこっち苦しくなるのは、ちょっとごめんです。(2016年2月4~9日)

 職場のおトイレがウォシュレットになった。ちょっぴりうれしい(笑顔)。(2016年2月9~12日)

 ああ、ついに関東地方が花粉シーズンに突入してしまったそうです。道理で、ここんとこ、理由もなく鼻が垂れると思ったわ! ここからゴールデン・ウィークが終わるまでの三ヶ月、抗アレルギー剤とマスクと目薬と点鼻薬の日々に突入だあ! ああ、春なんて、大嫌いだー!(2016年2月9~16日)

 私は、@niftyの@homepageでブログを書いているわけだけれど、この@homepageが2016年の9月29日でサービス終了となるそうです。この日を境に、ブログをアップできなくなるばかりか、読めなくもなるんだそうです。さあ、どうしよう。ブログを引っ越せば良いという単純な問題じゃないんだよね。このブログのこのアドレスで、今まで築き上げてきた信用と信頼があるわけだけれど、それが一挙に失われてしまうわけだ。さあ、どうしよう。ほんと、どうしよう。とにかく、色々と考えないとなあ。(2016年2月16~17日)

 うむうむ、どうやら勘違いのようでした。昨日のひとことで“@niftyの@homepage”で、このブログを書いていると書きましたが、これは間違いです。このブログは“@niftyのココログ”で書いていました。同じ会社のサービスだったので、勘違いしてしまったようです。ココログはサービス停止という話を聞いていないので、たぶん、もう少し続くんじゃないかなって思ってます。お騒がせしました。(2016年2月17~18日)

 やっぱりビックリするのは、テレビをつけた時に、近所から生中継が行われている事。画面越しに近所の風景を見るのも落ち着かないが、今そこに行けば、自分もテレビに見切れるんじゃないかというミーハー心を抑えるの必死になってしまう自分がいる事にもビックリ。生中継じゃなくて、ドラマとか映画とかCMとかで近所の風景が出てきても、ビックリしないけれど、やっぱり生だと落ち着きません。(2016年2月18~26日)

 今月は以上です。よろしくお願いします。

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コメント

  1. tetsu より:

    こんばんは。

    > 私の認識では、洋の東西問わず、現代音楽の手法で作曲された現代オペラというのは、あまりに芝居寄り過ぎて、音楽的に難しいばかりで、その魅力は圧倒的に少ないと思ってます。

    現代音楽ではなくて古典ですが、A.ベルクのピアノソナタ、抒情組曲、ヴァイオリン協奏曲は大好きで鼻歌で歌うこともありますが、ヴォツェックは鼻歌で歌えません。なぜ?

    > 良い声とは?

    CDで聴いていたE.シュヴァルツコップ(この訛りは直接にはきいたことありません)とかF.ディスカウのイメージが強すぎます。フルートでは小学生の頃FMでランパルの「忠実なる羊飼い」を聴いていました。フルートの好みも今でもあまり変わりません。声楽もこのあたりをベースに聴いてしまいます。

  2. すとん より:

    tetsuさん

     アルバン・ベルクはシェーンベルクのお弟子さんですから、バリバリの現代音楽作家だと思いますよ。

    >ヴォツェックは鼻歌で歌えません。なぜ?

     そんな、鼻歌で歌えないよう歌を歌手に歌わせるのが、現代音楽だからです。

     ベルクの代表作というと「ヴォツェック」と「ルル」の二曲のオペラでしょうが、どちらもヴェリズモから猥雑さとパワーを除いたような作品で、これがまさに20世紀の現代音楽なんだろうなあって、私は思います。

     ちなみに、ベルクはたった二作しか書いてませんが、オペラ作曲家ですから、彼の本気はオペラで発揮されるわけです。彼の書いた器楽曲は、オペラ作曲家である彼にとっては、いわば余技であったり、余興であったりするわけで、だからこそメロディアスなんだと思います。メロディアスな音楽って、陳腐でかっこ悪くて低俗である…という風潮がみなぎっていた頃の作曲家さんですから、それはやむないことです。

     シュヴァルツコップにディスカウにランパル…ほぼ同じ頃…20世紀中葉と言うか、戦後まもなくと言うか、とにかくあの辺りで活躍した音楽家たちですね。ざっくり言えば、カラヤンの時代の音楽家たちです。今とはクラシック音楽の味わいが全然違っていた時代です。今ほど頭でっかちではなく、今よりも音楽がエモーショナルな頃ですね。私もその頃の音楽は好きです。たとえば、指揮者のベームとか、ピアニストのヘブラーとかね。ただ、器楽はともかく、声楽に関しては、その頃の歌手よりも、今の歌手の他が全然上手なので、やっぱり今のモノをよく聞きます。

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