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言葉の言い換えって、なんかスッキリしない[2016年1月第3週・通算1週]

体重:106.4kg[-1.2kg:-9.0kg]
体脂肪率:30.5%[-1.4%:-2.7%]
BMI:33.6[-0.4:-2.8]
体脂肪質量:32.5kg[-1.8kg:-6.1kg]
腹囲:107.0cm[+-0.0cm:-8.0cm]
     [前回との差:2015年当初との差]

 さて、新年最初の体重測定を致しました。結果は以上の通りです。

 まだまだデブデブだけれど、少しは頑張った成果が出ていると思います。前回の体重測定は…と言うと、昨年の11月ですから、約二ヶ月ぶりの計測なんだけれど、途中にお正月は入っています。私、正月直後って、太るんだよね。ちなみに『2015年当初』と言うのは、1月の第3週なので、ちょうど一年前の数値です。二ヶ月前と較べてもそうだけれど、一年前と較べても、そこそこきちんと体重、落としているでしょ? 一年間で9Kg体重落としているんだよ、まあ、悪くない数字でしょ。

 頑張ったのは、私…ではなく、たぶん妻です。妻が一生懸命、私の食生活の事を考えてくれたので、こうなれたのだと思います。と言うのも、昨年の私、そんなに積極的にダイエットしていたわけじゃなくて、結構毎日、たらふく食べておりました。なんか、ダイエット疲れしちゃってね(笑)。

 ただ、食べるものは明らかに変わりました。今は、肉と野菜と豆を中心にして、米と小麦は極力クチにしないようにしています。ここ数ヶ月だけで考えても、米を食べる量よりも、豆を食べる量の方が増えました。そう言った食生活の変化が体重を減らしてくれたのだと思ってます。

 妻に感謝したいと思ってます。

 さて、今回のエッセイです。

 私は原則として、言葉の言い換えってのが好きではありません。なんか誤魔化しているような気もするし、何と言っても、言い換えた事で、本質が見えにくくなったり、分かりづらくなったりするからです。

 誤魔化しだなあ…と思っているのが、差別語の言い換えです。

 例えば『盲(めくら)』という言葉は、現在では差別語です。この言葉を公の場で使うのは良くないという事で、今は『目の不自由な方』とか『視覚障害者』という言葉に言い換えます。確かに『盲』という言葉を使う背景には、差別の気持ちもあるでしょうし、その言葉を使いたくないという優しい気持ちも分からないではないです。

 そこで『盲』という言葉を回避して『目の不自由な方』とか『視覚障害者』と言い換えるわけだけれど、『目の不自由な方』は、必ずしも『盲』の人だけを指しているわけではなく、『弱視』や『斜視』『色盲』の方も入ります。もちろん『盲』と『弱視』や『斜視』『色盲』は、皆それぞれ違います。違うものを、同じ言葉で表現するのは、間違っています。差別語を回避したいが余り、言葉の正確な使い分けを捨ててしまうのは、ちょっと違うと思ってます。

 それに私が思うに、行うべきなのは、言葉の言い換えではなく、我々の心の持ち方だと思ってます。ざっくり言えば“差別する心”が問題なわけで、言葉なんて、ただの道具であって、差別する心の持ち主が使えば、どんな言葉だって差別語になるわけです。

 本来『盲』という言葉には差別的な意味合いはなく、ただ差別意識を持った人によって使われてきた過去があり、そのため、現代では差別語のニュアンスが強くなっただけです。差別語のニュアンスが強くなったから『盲』の使用を止め『目の不自由な方』という言葉に言い換えても、我々の心の中に差別する心があれば、やがて『目の不自由な方』という言葉も、差別心のこもった卑しい言葉に成り下がります。

 だから差別語の言い換えなんて、何の解決にもなっていないし、言葉の言い換えをする以前に、我々が抱えている、他人を差別する心をどうにかするべきだと思ってます。

 ま、とは言え、実際問題としては、心に闇を抱えている人は、常に一定数いるわけだし、他人を差別しなければ生きていけない人も、常に一定数いるのが現実だから、人間社会から差別を取り除くことは、かなり難しい事です。だから、言葉の言い換え程度で問題解決なんて、全くできないんだよ。それは問題解決を先延ばしにしているだけの話です。

 『盲』のように深刻な話じゃなくても、例えば、ハゲを『薄毛』と呼んだり、デブを『体格が良い人』と呼んでいるのも、本質的に同じ事で、言葉の適用範囲を広げる事で、本来の意味を薄める事で差別意識を薄めているつもりなのかもしれないけれど、これもやっぱり誤魔化しだよね。

 先日、テレビで、70代の人の事を『初老』と呼んでいたけれど、初老は40代の事だから、ハゲを『薄毛』と呼ぶ以上の誤魔化…いや、それどころではなく、やりすぎです。ここまで来れば、誤りとすら言えます。

 言葉の言い換えには、他にも色々な動機があります。現実を見たくないために言い換える…という事もあります。例えば、8月15日を『終戦』記念日と呼んでいたり…ね。本当は『終戦』ではなく『敗戦』なんだけれど、負けを認めたくなかった…のかな、やっぱり。

 国際連合、つまり“国連”って組織があります。世界人類を代表する何かの組織のような名称ですが、実はここって“United Nations"の事で、戦中は同じ組織を“連合国”と呼んでいました。日本はこの“連合国”と戦争していたわけです。戦争中は“連合国”と呼んでいた敵チームに、戦後になって入ろうとした我が国は、チーム名を訳し変える事にして“United Nations"を“国連”と言い始めたのだそうです。自分たちを打ち負かした敵のチームに加えてもらうというのは、忸怩たる思いがあったのかな? この言い換えの首謀者は当時の外務省なんだそうですが、やっぱり誤魔化しの匂いを感じます。

 ちなみに、日本は元々敵国だし、国連には敵国条項というルールがあって、未来永劫、日本とドイツはハブにされる事になっているので、どんなに頑張っても、日本は国連では常任理事国になれるわけないのです。

 言い換えと言えば、爆撃機がやってきて、人々が生活している地域に爆弾を落としていく事を、最近では『空爆』と呼んでいますが、あれって『空襲』の事だよね。『空襲』と呼ぶと、戦時中の記憶が蘇るのがイヤなのだろうし、それは理解するけれど、でもやはり『空爆』ではなく『空襲』と呼ぶべきじゃないかなって思います。『空爆』と言うと、何か他人事だけれど『空襲』と言うと、私は父や祖父たちの話を思い出し、中東の人たちの辛さや苦しさが分かるような気がするんだよね。だから、言葉って、安易に言い換えをするべきじゃないって、個人的に思うわけです。

 体裁を整えたり、外面を良くするために、言葉を言い換える事もあります。

 たとえば、昔は『行かず後家』と呼ばれていたであろう人たちの事を『おひとり様』と呼んでみたりしてね。実態は何も変わらないけれど『行かず後家』と言われると、否定語の“ず”が入っているせいか、なんか負けたような気がして不快に思うかもしれませんが『おひとり様』という言葉には、そんな否定語は入っていないですから、気持ちがニュートラルになります。

 『高利貸し』の事を『消費者金融』と呼ぶのも、悪いイメージを隠すためですね。『屠殺』の事を『食肉処理』と言うのも同じ。まあ『殺』ではなく『処理』と言い換えたい気持ちは分からないでもないけれど、でも事実は、どんなに言いくるめても『殺』なんですよね。牛さんや豚さんを殺さないと、どうやっても、食肉にはならないんです。

 そうそう、カタカナで言うと、なんかわけもなくかっこ良く感じる…って事は、否定出来ないかもしれませんね。いわゆる『外部委託』の事を『アウトソーシング』と言ってみたり、『日帰りの預かり介護』の事を『デイサービス』と呼んでみたり、大切な『保存記録』の事を『アーカイブ』と言い換えてみたりしてね。

 私は最初『デイサービス』と聞いた時、反対語の『ナイトサービス』から連想して、昼間っからエッチな事ができるサービス?って勘違いしました。まさか“老人の保育園”の事とは夢にも思いませんでした。

 気を使って言い換えるって事もあります。例えば“融通がきかない堅物”の事を『基本に忠実』って言うと、角が立たずに済むよね。“怠け者”とか“わがまま”と言わずに『自分の気持ちに正直な人』と言うと、なんか立派な気すらするよね。“他人の意見に全く耳を貸さないおバカちゃん”には『信念を持っている人』って言い換えると、なんか立派な人のように感じちゃいます。“気の小さな弱虫”には『謙虚な人』って言うと、人格者のような気すらします。

 目の前に色々と不都合な現実があって、その現実から目をそらす必要があるから、言葉を言い換えるのだけれど、本当は、そんな不都合な現実から目をそらさずに、しっかりと見つめて、現実的な対応していく事が、人生にとって大切な事だと個人的には思ってます…が、逃げ出したり、現実逃避をしながら生きていく生き方も、否定しないつもりです。

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コメント

  1. 在日日本人 より:

     >差別語の言い換えなんて、何の解決にもなっていないし、言葉の言い換えをする以前に、我々が抱えている、他人を差別する心をどうにかするべきだと思ってます。

    差別語の言い換えは日本独特のやり方のようです。表面的なことだけクリアすれば、それでOKみたいなもんで。
    アメリカにいた時、人権派でリベラルの大学教授に「日本における差別語の言い換え問題」を話したことがあります。最初は私が冗談を言っていると思ったようでした。日本ではマジで言葉の言い換えが行われていることを知ると、受けましたねえ。人権派の彼女が笑い転げてました。悪い冗談でも、本気で実行すれば優れもののギャグになるってことでしょう。

    差別のような心の問題こそ、深く本質に迫るべきなのでしょうけど、すとんさんのおっしゃる「他人を差別する心をどうにかする」というのも無理があるように思えます。これは人の心の中の問題ですから、法規制ではコントロールできません。となると、洗脳(良く言えば教育)するしかないでしょう。これはこれで、新たな問題が生じるように思えます。

    現実問題として人の心に干渉することは不可能に近いので、社会の差別行為さえなくなればそれで十分かと思います。差別心は依然として深く残りますが、表には出てきません。ベストではないですが、現実的な対応でしょう。

    日本で行われている言葉狩りとは、本来差別的意味合いのなかった単語に、差別問題を煽りたかった勢力がこじつけただけのものです。彼らの哲学度はショッカーの戦闘員レベルですから、言葉狩りをしただけで差別問題はスッキリ解消したと安心しているのでしょう。これはこれで、単純な連中をナットクさせるという意味においては、言葉狩りは意味があるのかもしれません。彼らには安易な到達点が必要ですから。
    私には、差別問題をより複雑にしただけのように見えますけどね。

  2. tetsu より:

    こんばんは。

    > 言葉の言い換え

    以前読んだ丸山圭三郎では、言語とは世界をどのように分節化して認識するかみたいな話だったような記憶があります。虹が何色か、というのも地域によっていろいろあるような。
    『行かず後家』が『おひとり様』になったのは上野千鶴子の貢献とおもいます。この方もカッパブックスの頃から読んでいましたが、このような変遷は予想できませんでした。

    何かのTV放送で見た記憶がありますが、福沢諭吉が数々の英語を日本語に翻訳したさい、educationを教育と翻訳したのは悩ましかったらしいです。

    educationは、上から目線で教え育てるのではなくて、ラテン語の「引き出す」に由来する、というような説明でしたが、
    http://matome.naver.jp/odai/2139495957853040201
    ではイヴァン・イリイチによると、これは誤りらしいです。イリイチもどこかで読んだような記憶がありますが、未確認です。

    伝聞ばかりで失礼しました。

  3. すとん より:

    在日日本人さん

     そうですか、言葉を安易に言い換えて、物事を解決したかのようにみせつけるのは、我々日本人の独特のやり方ですか? 知りませんでした。いい勉強になります。

     昔々は、白人連中は日本人をモンキー扱いして差別していたと聞きますが、言葉の言い換えで差別問題を解決したと思って安心している我々の知恵は、ほんと猿知恵であって、モンキー並であると、自虐しておきます。

    >日本で行われている言葉狩りとは、

     ああ、そうですね。本質的には“言葉の言い換え”ではなく“言葉狩り”ですね。その点に気づきませんでした。ああ、ウカツだったなあ。

    >現実問題として人の心に干渉することは不可能に近いので、社会の差別行為さえなくなればそれで十分かと思います

     そうですね。例えばハゲ問題。ハゲはどうみてもハゲです。それは隠せません。いや、カツラを被るという隠し方はありますが、それはひとまず横に置いておくとして…。

     ハゲている事で受ける社会の差別行為と言っても「カッコ悪い」とか「老けて見える」とか「女性にもてない」程度であって「ハゲているから進学できない」とか「ハゲているから就職できない」とか「ハゲているから給料が安い」とか、そういう事はありません。そういう点では、社会の差別行為というのは、21世紀の現代、表面的にはなんとかなっているんじゃないかな…と思います。

     それに、ハゲていても女性にもてる人はいますから、ハゲているために女性にもてないというのは誤解ですし、昨今はわざわざ髪を剃りあげて“スキンヘッド”にする人もいるわけで、格好いいハゲた人もいるし、ハゲたからと言って老人に見られるとは限りません。つまり、本来は別に原因があって、その人自身がハゲである以前に、元々女性にもてない人であるとか、カッコ悪い人とか、老けて見える人であったりします。でも、そんな人が自分がダメな原因を自分の中に求めた時に、とりあえず目立つ欠点であるハゲにせいにしているって事があります。本当は、ハゲは関係ないのかもしれません。

     あるいは周囲の人々で、心が貧しい人が、自分の鬱憤ばらしのために、目立つ欠点(この場合はハゲ)を持っている人間をいじめる事で、スカッとしているだけなのかもしれません。

     人の心は、自分の心であれ、他人の心であれ、御しがたいモノです。社会の差別行為をかなり軽減しても、厄介な部分は、きっと残りつづけるんだと思います。

     でも、それはやはり、言葉の言い換えで解決する問題ではありません。良くも悪くも、タフな心を持つことが大切なのかもしれません。

     そういう意味では、日本人の特性の一つに“心が弱い”というのがあるのかもしれません。まあ、これについては、語りだすと長くなりそうなので、今回は止めておきます。

  4. すとん より:

    tetsuさん

    >福沢諭吉が数々の英語を日本語に翻訳したさい、educationを教育と翻訳したのは悩ましかったらしいです。

     …かもしれませんね。しかし、日本には“education”という言葉が入ってくる以前から“弟子入り”とか“丁稚奉公”とか“寺子屋に通う”などの“師匠が弟子を導く”という行為というか、習慣というか、風習があり、それを明治の人々の目で見た時には、例え“education”という語とピタっと一致しなくても“教育”と訳したのは、慧眼ではなかったかと、私は思ってます。

     確かに“教育”という言葉は“上から目線”ですが、日本の教育って、今だって、そういう部分があります。『教え導いてくださる方を尊敬する』と言うのは大切な事だと思います。その部分をわきまえずに、権利意識とか平等意識ばかりが強くなると、学校が荒れたり、モンスターペアレントが出現してくるんじゃないかって思います。

  5. 在日日本人 より:

    >そうですか、言葉を安易に言い換えて、物事を解決したかのようにみせつけるのは、我々日本人の独特のやり方ですか? 知りませんでした。いい勉強になります。

    誤解があるようですが、私は日本人全体がそうだと自虐的に言っているわけではありません。現にすとんさんも私も、言葉の言い換えで差別問題が解消されたとは思っていないわけです。少なくとも私の友人に、そのような浅薄な考えの人間はいません。

    ですが敗戦後、形式的な言葉にやたらこだわる日本人が増えたのは事実でしょう。もちろん言葉とは大切に扱うべき道具ではありますが、言葉で揚げ足を取ることのみが目的になっている連中のことを、私は問題にしているのです。あるいは、「起きてはいけないことが起こってしまいました」とバカの一つ覚えのように唱えていれば秩序と平和が訪れると信じている連中も同じようなもんです。

    国会ではときどき失言問題で大騒ぎになりますが、与野党を問わず、それらの失言はたいした問題とは私は思いません。そのような些細なことを問題にするよりも、本質のところでマジメに議論してほしいというのが大半の日本人の考えているところではないですか。大半の日本人は、くだらぬ言葉遊びにうんざりしていると思います。

    国会の揚げ足取りにしろ、言葉狩りの問題にしろ、本当はマスコミこそが、そのようなことを是正する立場であるべきですが、彼らは自主規制のための放送禁止用語辞典を使って安心しているだけです。

    放送禁止用語には、明らかに使ってはマズい言葉もありますが、これのどこが問題なのか理解できない言葉も多数入っています。政府に弾圧されて規制されているのならばまだ理解できますが、自主規制ってのはいずれマスコミ自身の首を絞めることになると思います。

    >昔々は、白人連中は日本人をモンキー扱いして差別していたと聞きますが、言葉の言い換えで差別問題を解決したと思って安心している我々の知恵は、ほんと猿知恵であって、モンキー並であると、自虐しておきます。

    日本人が差別されるのは昔話ではなく、リアルタイムの問題です。
    私ほど外国で(いや国内でも)差別を受けてきた人間はいないのではないかと思います。正直、日本人というだけで、あるいは東洋人というだけで酷い目にあってきました。日本に戻ってきて良かったことは、じろじろ見られたり、差別を受ける行為が皆無になったことです。

    ただ差別語に関して言えば、実際の差別との間にギャップがあります。ちょいと説明し辛いのですが、差別語を差別目的で使うのではなく、親しみのギャグとして使われることが多かったです。

    私は不良の白人仲間から、めちゃくちゃな呼ばれ方をしていました。ジャップはまだ序の口で、JRAとかVCとかとなると、もう問題外という感じです。VCってのはヴェトコンという意味ですが、さすがに共産主義者と呼ぶのだけはやめてくれと言ったら、「ヴェトコンもジャップも同じ様なもんだからノープロブレム」と返されました。ちなみに彼はカナダ時代の親友です。

    ここだけ文字で書くと、まさにひどい連中のように思えますが、実は彼らは白人特有のジョークと親しみでそう呼ぶだけであって、けっして私をバカにしているわけではありません。逆に、日本人や日本製品をバカにする白人に対して、彼らは本気でケンカもしてくれました。

    彼らがバカにする対象は卑怯者や臆病者だけです。白人グループの中に東洋人一人という状況でも、彼らは私を一人前の男として扱ってくれました。
    そういえば、私も彼らのことを差別用語で呼んでました。当時の我々にとって差別用語とは、不良どもが下品な男らしさを気取る遊びのようなものでした。

    逆に白人の上品な奥様が、私を初対面の人間に紹介する際に、つい言葉をすべらして、「こちらはジャップ、、い、いや、ジャパニーズの」と言われた時には正直へこみました。
    差別ってのはこのような微妙な状況の時に表れて、一瞬で場の空気が凍るものです。

  6. すとん より:

    在日日本人さん

     日本は島国で(見かけ上)単一民族国家であり、同質性が強いために、おそらく“差別”と一言で言っても、諸外国のそれとはかなり内容が違うのではないかと思ってます。おそらく日本における“差別”とは“イジメ”と同根であって、諸外国のような民族対立とか文化摩擦とか宗教の違い等ではないと思ってます。

     まあ、ちょっと心配するのは、今の日本には嫌韓とか嫌中が流行ってますが、これらが冗談のうちは良いのですが、この意識が民族や人種や国籍の差別につながっていくのは、ちょっとイヤだなって思ってます。警戒する事と攻撃する事は全然違いますから。

     さて、人種差別と言えば、昔々、私が小学校のセンセをしていた頃、クラスの児童たちに「世界には、白人、黒人、それと黄色人種と呼ばれる黄色い人の三種類の人がいるんだけれど、みんなはどの人種になると思いますか?」と尋ねた事があります。

     まあ、小学生相手ですから、質問自体もすごぶる大雑把ですし、自分たちの人種を尋ねるなんて、今だと怒られちゃうかもしれませんが、当時は悠長だったわけです。でも、これに答えた子(小学6年生)たちの答えにはビックリしました。なんと、大半の子たちが、自分は白人だと答えたのです。そう答えた子のうち一人だけは金髪碧眼の白人の子でしたが、他の子はどうみてもアジア系のそこらの日本人だったのですが、自分たちは白人だと信じていました。クラスにモノホンの白人がいるにも関わらず…。ですから私が「君たちは黄色い人、黄色人種なんだよ」と言ったら、信じられない顔をしていた子もたくさんいました。ガッカリしていた子もいました。

     まあ、色々と思うことはありますが、それだけ人種の違いを意識しないで生活できるのが日本とも言えます。

     こんな日本に住んでいる限り、諸外国で言われている“差別”なんて、なかなか分からないと思いますし、たぶん私もよく分かっていないと思います。

  7. 在日日本人 より:

    >まあ、ちょっと心配するのは、今の日本には嫌韓とか嫌中が流行ってますが、これらが冗談のうちは良いのですが、この意識が民族や人種や国籍の差別につながっていくのは、ちょっとイヤだなって思ってます。警戒する事と攻撃する事は全然違いますから。

    嫌韓嫌中を冗談でやっている日本人はいないでしょうね。嫌いの度合いに程度の差があるということでしょう。

    私は、「あらゆる外国は敵国になりうる」ことを前提に考えています。現在、アメリカは友軍でありますが、将来状況が変わることもあるでしょう。本日、仮想敵国のリストを作ったとすると、中国、韓国、北朝鮮、ロシアが上位を占め、アメリカは最下位に位置するだろうということです。

    韓国の立場は微妙です。日米韓などと言うからには、一応友軍ということなのでしょうが、日本人の心情的には敵も同然でしょう。

    大事なことは、韓国人と在日韓国人は別だということです。多くの日本人が彼らを同一視してますが、私が想像するに在日韓国人の大多数は日本よりの立場だと思います。在日韓国人のことを、「敵国に住んでいる裏切り者」扱いしている韓国人も多いのではないでしょうか。

    在日韓国人の持つ悔しさは理解できるような気がします。アイデンティティが中途半端なのです。
    同様なことが、在日北朝鮮人にも言えます。現在、北朝鮮は日本人にとっての加害者の立場になっていますから、在日北朝鮮人の置かれた立場の辛さは、在日韓国人以上だと想像します。

    仮に日韓で戦争が起こったとします。その場合、大多数の在日韓国人は日本側に付くと私は考えています。もちろん日本に住んでいながら日本に魂を売らない主義者もいるでしょうし、工作員やテロリストもいるでしょう。そのような日本に敵対する勢力は少数派だと思います。

    ほとんどの在日韓国人にとって大切なことは、日本で行っている商売のことや、日本の社会との関わりだと思います。日本の学校で子供がいじめられないかと心配していると思います。
    イスラム国のように宗教や思想がらみの対立ではないですから、在日韓国人にとっての最優先事項は日本での安定した生活基盤の確立だと想像します。もちろん過去の問題は心の中にわだかまりとして残っているでしょうが、そんなことよりもリアル生活優先でしょう。

    日本の韓国人街で、日本人が反韓デモをやってますが、あれが逆に日本の国益を害していることに連中は気がつかないのですかね。彼らは自分たちが愛国主義者であると思いながら、単に自己満足しているだけです。反韓デモをやるなら、韓国に行ってやるべきでしょう。日本に帰化した韓国人なら、それは日本人ということです。日本の中で我々の同胞を攻撃してどうすんの。敵国の連中は、仲間割れを面白がって見物していることでしょう。

    アメリカとの戦争の時は、アメリカは在米日本人を収容所送りにしました。これはアメリカにとっての大きな汚点となりました。
    仮に日本と韓国が戦争をした場合、在日韓国人に対して同じことをやってはいけません。戦争に日本が勝ったとしても、負けたとしても、いずれ日本の国益を害する結果を生むと思います。

    敵国の立場の人間といえども、日本に好意を持っている人間は多くいます。中国があれだけ反日教育をしているのに、なぜ日本に旅行をしたがる中国人が多いのでしょうか。親日の敵国人は大切にしなければいけません。これはモラルの問題ではなく、国益の問題です。

  8. すとん より:

    在日日本人さん

     冗談うんぬんは表現方法としては適切ではなかったかもしれません。ただ、嫌韓・嫌中の度が過ぎて、ただの人種差別/国籍差別になったらイヤだなと思ってます。在日日本人さも書いてますが、在日韓国人は我々の友人だし、韓国系日本人は同胞でしょうが、彼らがその出自のせいで差別されるような社会になるはイヤだというだけの話です。

    >本日、仮想敵国のリストを作ったとすると、中国、韓国、北朝鮮、ロシアが上位を占め、アメリカは最下位に位置するだろうということです。

     …でしょうね。韓国は友軍だとは、あまり思えません。困った事です。

    >在日韓国人のことを、「敵国に住んでいる裏切り者」扱いしている韓国人も多いのではないでしょうか。

     在日韓国人と書くと分かりづらいのですが、彼らは移民です。経済移民です。母国(この場合は韓国)の人間からすれば、経済大国である日本に移民をして日本人並の生活を送っている奴らを見る目は「自分たちばかり、いい目を見やがって」という事になります。

     日本は移民国家ではありませんから、移民の方々が日本に溶け込んで生活していくのは、色々な面で大変だと思います。マイナンバー施行のおかげで、国籍や本名を隠せなくなりました。国籍や本名を隠す事はいい事だとは思わないけれど、隠さなければいられなかった事情も分からないでもないです。

     移民の人たちは、様々な面で正当に扱われるべきだと思ってます。不当に差別される事もいけませんが、弱者の暴力をふるうのもいただけません。裏社会ではなく、表舞台できちんと生活してもらわないと困ります。そのためにも、我が国にも移民法を作るべきだと思ってます…が、なかなかそういう機運にはならないですね。

  9. YOSHIE より:

    こんにちわ。
    私も以前はごまかすための言い換えが嫌だったのですが、最近は軽くギャグだなー、と思うようになりました。
    相手を傷つけない言い換えの言葉集・・・というのが、面白くてですね・・・

    ぐうたら→自分の気持ちに正直
    すぐに泣く→感情が豊か
    わけわかんない→芸術的、抽象的

    傷つけない、というより、[皮肉]で、却って傷つくんじゃまいか?と。

    緊張感がない→肩の力が抜けている

    とか・・・もう笑うしかないです。
     
    そういえば、引きこもりニートさんは自宅警備員でこれは以前は無職の未婚の娘さんが家事手伝いと称した変化形でしょうか?

    ちょっと違いますが[書生さん]っていい響きですよね。
    脱線しました。

    なんというか、何事も真に受けすぎない・・・というのもありなんだろうなと思う今日この頃です。

    今年もよろしくお願いします。

  10. すとん より:

    YOSHIEさん

     書生さん…確かに良い響きですね。実態は、地方から出てきて親元離れて学んでいる学生さんの事なんだろうけれど、確かに言葉の響きは、格好いいです。言葉も格好いいけれど、たぶん、当時は、書生さんそのものも格好良かったんだと思います。あの時代の大学生ですからね。今の大学生とは、存在価値がぜんぜん違うわけです。

     漱石の小説を読むと、当時の書生さんたちが登場人物としてたくさん出できます。子どもの頃は、漱石の小説を読んで、書生さんに憧れたものです。でも私は学生にはなれても、書生さんにはなれなかったなあ。

     でも私は、当時すでに絶滅しかけていた苦学生だったんですよ。今は苦学生…ってか、大学生たちは勉強よりもバイトにうつつを抜かしているような連中も増え、苦学生なんて、見かけなくなりました。ブラック企業でバイトしているような子は大変な思いをしているだろうけれど、彼らの多くは学費を稼いでいるわけじゃないのだから、苦学生と呼ぶのは、なんかイメージ違いますね。

     今年もよろしくお願いします。

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