見知らぬ人たちのコンサート…なんか変な表現ですね。実は、私の趣味の一つに「見知らぬ人たちの発表会」を見るというのがあります。それで見つけた演奏会なんですが、実は会場に行くまで、普通に発表会だと思っていたのですが、行ってみたら、実は発表会ではなくコンサートだったという話です。
ここで、発表会とコンサートの違いについて。
まあ、主催者が「これは発表会です」と言えば発表会だし「これはコンサートです」と言えばコンサートなんだけれど、一応、私なりの区別があります。それは“演奏する人の楽しみのために行う演奏会”を発表会といい、通常は無料で行い、出演者もアマチュア中心です。一方コンサートの方は“観客を喜ばせるために行う演奏会”で、通常は有料だし、出演者はプロ奏者です。
で、発表会だと思って聞きに行ったら、出演者の半分近くがプロの方々で、ご自分たちで「コンサート」と言っていたので、私の中では、一応、発表会ではなくコンサートの方に区分しました。でも、実質は発表会のような感じだったし、おまけに無料だったし…ちょっと微妙だったんですけれどねえ…。
私が思うに…プロの方が、アマチュアと同じ土俵にあがって無料で演奏するのって、どうなんでしょうね? で、演奏が際立って上手で、アマチュア群とプロ軍団に、素人の客が聞いても分かるくらいに、大きな違いがあればともかく、アマチュアの方もそれなりに上手だった場合、客からすれば「プロもアマも変わらない…」って事になるわけで、ノーギャラで自分を安く売るのって、失うものしか無いような気がするんだけどなあ…。
なんて思ってしまう自分は、へそ曲がりなのかもしれません。
閑話休題。話を戻します。そのコンサートの出演者の大半は、同じ門下の方で、大半が音大卒か在学中の方々で、プロとして活躍されている方もいらっしゃる一方、数は少ないのですが、アマチュア(それもオトナの趣味)の方もいるので、コンサートと呼称してますが、その実体は“プロアマ混合発表会”ってところでしょうか? まあ、門下の発表会ではアマチュアさんがメインになってしまい、プロのお弟子さんたちが寂しくなってしまうので、そのプロのお弟子さんたちが中心になって、このコンサートを企画して、プロのお弟子さんたちだけじゃ数も足りないので、アマチュアの中でもそこそこ上手な方を入れて行った…ような感じなんですね。
なので、形式的には、いわゆる発表会形式でコンサートは行われました。
出演者の皆さんは、それぞれソロを2曲、重唱を1曲ずつ歌っていました。歌われた曲の種類は、日本語、イタリア語、ドイツ語にフランス語がありました。言語的には豊かですね。フランス語の歌があったところが、普通の発表会とはちょっと違うところかな? それと、イタリア語の歌と言っても、その大半は、ドナウディの歌曲で、イタリア古典歌曲を歌うはいなかったですよ。アマチュアでも初心の方が混ざっていると、イタリア古典歌曲が多数登場しますが、それが出てこなかったというだけで、歌った人たちのレベルがあまり低くないという事が分かると思います(ま、専門教育を受けた人たちばかりだしね)。
さて、今回の私が、このコンサートから学んだ事を書きます。
響きだけの声では、客席まで声は届かないし、声は聞こえても魂をゆさぶる事はありません。出演者の皆さんは、私のようにノドで歌うタイプの方は皆無で、皆さん、響き優先の発声をしていたのですが、響き優先と言うか、ほぼ響きだけで歌っていらっしゃる方も結構いました。
ほぼ響きだけで歌うと、キレイな発声なんですけれど、声が客席まで飛んでこないんですね。一応、聞こえるには聞こえるんだけれど、ただ声が聞こえるだけで、客の魂にまでは届かないんですね。上手なだけに残念なんです。
では客席までしっかり声を届けて、お客の魂をゆさぶるためにはどうしたら良いかと言えば、やはりしっかりノドを鳴らす必要があるなあ…と思いました。でも、誤解してはいけません。ノドばかり鳴らしてしまうと、それはノド声になってしまうので×です。ですから、響きをメインにしながら、多少はノドの鳴りを加えていきたいって事になりそうです。
じゃあ、ノドの鳴りを加えよう…と思って、ノドに力を入れて歌うと…たぶんダメでしょうね。ノド声になってしまいます。
ではどうするべきか? つらつらと、魂に響く歌と響かない歌の違いを観察していたところ、どうもそこは感情表現って奴が関わってきそうです。歌に感情が籠もれば、自然とノドが鳴るようです。どうやらそういうスイッチが人間には備わっているようなのです。
逆に言えば、感情を横に置いて歌うと響きばかりの声になり、感情表現中心で歌うと、響きから離れていき、ノド声になったり、音程がほぼ無い演劇的歌唱って奴になるんだと思います。
冷静な発声と、豊かな感情表現のバランスって奴が大切なんだなって思いました。
このコンサートで歌われていた重唱は、すべてオペラの重唱、それもほぼモーツァルトオペラからの重唱を歌っていました。それまでの歌曲が原語で歌われていたのに対して、これらの重唱曲は日本語の訳詩で歌っていました。
最初は「日本語、聞きづらい! こんなに聞けないなら、原語でも一緒じゃん」と思いました…が、やがて分かったのは、日本語の歌唱が聞きづらい人と、日本語の歌唱でもきちんと聞かせられる人の二種類いた事です。日本語歌唱でも、きちんと内容を伝えられた人は、歌曲でも魂に届く歌が歌えていた人たちで、つまり、日本語で歌うためには、きちんと感情表現と発声のバランスを考えられる人でないと、難しいって事ですね。
日本語は我々の母語であるけれど、日本語でクラシック系の曲を歌うのは、かなり難しい、特に翻訳物は難しい…って思った次第です。
だいたい、日本語って高低アクセントでしょ。音程の違いでアクセントを表現する言語なわけで、日本語を自然に聞かせるなら、日本語の文章の高低アクセントと、歌のメロディの高低が一致していないと難しいと思いますが…和物ならともかく、翻訳ものの場合、最初にメロディありきなわけだし、元々あったメロディと同じ高低の日本語を組み入れるってのは…相当に難しいわけで、今回私が聞いた訳では、その点にはあまり注意されていない古いタイプの訳詩で歌っていたわけです。
日本語そのものが持っている高低のアクセントと、モーツァルトが書いたメロディとを一致させて歌う…これ、やっぱり至難のワザだなって思いました。演奏者の力量が高いレベルで揃えられるなら日本語歌唱がいいけれど、そうでないなら、素直に原語歌唱の方がいいなあって思った次第です。…だって、どうせ聞き取れない発声なら、作曲者のオリジナルの方を優先しましょうって事です。
しかし、見知らぬ方々の(今回は)コンサートって、色々と学ぶ事が多いです。
↓拍手の代わりにクリックしていただけたら感謝です。
にほんブログ村
コメント