夕食は、妻の薦めでガパオライスを食べました。ガパオライスってのは、タイ料理の一種で、いわば“鶏肉のバジル炒めご飯”なんです。妻は、これをどこぞの大学祭に行って食べて、とても美味しかったそうで、今回の屋台村にガパオライスの店が出ていたので、ぜひ食べようって事になったわけです。
妻は熱心に薦めましたが、言っちゃあなんだけれど、ガパオライスはタイ料理だよ。そもそも、私も妻もタイ料理は苦手で、普段は絶対に手を出さないのですが、あまりの妻の強い薦めで食べてみました。
…やっぱり、タイ料理でした。ガパオライスには何の罪もないし、タイ料理も悪くありません。ただ、私の好みには全く合わないってだけです。食の好みに善悪はないからね。あれだけ強く薦めた妻のクチにも合わなかったみたいです。始終「辛い、辛い」と言ってましたが、タイ料理って基本的に辛いんだよね。一体、どこで、どんなガパオライスを食べたんだか…。
フラメンコ
夕食後はホールEに戻って、今度はフラメンコ歌手の舞台を見ることにしました。
アントニア・コントレラマ(フラメンコ歌手)
ホアン・ラモン・カロ(ギター)
まずはギタリストが一人で出てきて、何やらソロ曲を演奏しました。まあ、前座ですね。次に女性歌手が出てきて、椅子に座って、何やら歌いだしました。ちょっとアレ?って思ったものの、カスタネットを持って踊るのはダンサーさんなわけで、歌手なら歌うだけだよね…って納得しました。
舞台には歌手とギタリストが一人ずつで、割りとおとなしい舞台でした。フラメンコと言えば、激しい音楽やダンスを想像していたので、ちょっと拍子抜けと言うか、期待とは違うものが出てきて、アレ?って気分になりました。歌っている曲は、なんかのんびりした民謡っぽい曲でした。何を歌っているかは、全然分からなかったけれど、おそらくスペイン民謡なんでしょうね。日本の民謡にも通じるような、何か物悲しい曲でした。
曲調がゆっくりとしていたし、音量もそんなに大きいわけではなかったので、私は会場に流れるBGMに気を持っていかれました。舞台をやっている時くらい、会場のBGMを切ればいいのに…って思いました。それだけ、私は舞台に集中していなかったんですね。
やはりフラメンコは、クラシック音楽とは別ジャンルの音楽だなと思い、まだ演奏中だったけれど、立ち見だった事もあって、会場から離れて、ソフトクリームを食べる事にしました。帝国ホテルのソフトクリームだったので、さてどんな上品なアイスだろうかと思って待っていたら、出てきたのはスジャータのソフトクリームでした。スジャータのソフトクリームって、日本中の観光地のあっちでもこっちでも食べられるヤツでしょ。ちょっとガッカリしちゃいました。
美味しかったけれど、スジャータだったら、別にここで食べなくてもいいかなあ…って思ったわけです。
ピアノのマスタークラス
ソフトクリームを食べて、時間的にもちょうど良くなったので、ガラス棟を上がって、マスタークラスを聞きにいきました。
マルク・ラフォレ(ピアノ)
J.S.バッハ:バルティータ No.2 BWV826 ハ長調
今回の生徒さんの演奏は、最初はどうなるかと思ってハラハラして見ていましたが、後半は徐々に調子を上げてきたようでした。
パルティータは舞曲集なので、それぞれの舞曲の性格が際立つように演奏しないといけないのだそうです。そのためには、演奏者は意図を持って演奏し、その意図がきちんと観客に伝わるように演奏しないといけません。そのためには、多少演奏がイビツになっても仕方がなく、美しい演奏よりもより強く表現する事を優先して欲しいのだそうです。
ただし、表現すると言っても、バッハの時代の音楽様式を踏まえた上での表現でないとダメで、我々はついうっかりすると、ロマン派的な演奏をしがちだけれど、バッハはロマン派ではないので、そこは注意をしないといけないのだそうです。
例えば、曲の冒頭部は楽譜ではアルペジオになっているそうだけれど、これを楽譜に書かれたままアルペジオで、このまま演奏してはいけないのだそうです。なぜなら、それはバッハの時代の音楽様式と異なるわけで、いくら楽譜にアルペジオで書かれていても、そこは批判的にならないといけない…というわけです。少なくともラフォレ先生ならば、ここはアルペジオでは演奏しないのだそうです。アルペジオを止めて、和音をガツンと弾いてしまうわけです。
アルペジオを止めて和音をガツンと弾いてしまえば、演奏的には簡単になってしまいます。その時、その演奏の簡単さが観客に伝わるようではダメで、簡単なんだけれど簡単だと感じさせてはダメなのです。ここは“痛み”を以て演奏し、その“痛み”が観客に届かないとダメ。“痛み”が伝われば、誰も“簡単な演奏”とは思わないわけで、つまり、1音1音に情熱を込めて演奏しなさいって事なんだと思います。
そんな事を言いながら、先生が模範演奏すると、生徒さんの演奏とはまるで違った音楽が展開されるわけです。なにしろ生徒さんの演奏は“楽譜を音にしてきました”程度で、その先まで踏み込んだものではないわけで…まあ、これは生徒さんの演奏家としての力量の問題になるわけです。
午前中のビオラ・ダ・ガンバのマスタークラスでも感じた事だけれど、LFJでのマスタークラスも、だいぶ性格が変わってきたなあ…と思いました。マスタークラス自体は、ずいぶん前から恒例として行われてきたけれど、以前のマスタークラスは、生徒自身が演奏家として、それなりに成熟していて、自分なりに完成された音楽を持ってきて、それを先生にぶつける事で、新しい音楽的な局面が開かれていく様が見れましたが、ここ数年は、生徒さんもだいぶ未熟な方が増え、音楽として完成されていない状態で、マスタークラスに持ってきてレッスンを受けているような感じになりました。
つまり、マスタークラスではなく、通常の音楽レッスンになってきたわけです。
高いレベルのレッスンが見られるから“マスター”クラスであって、そうでないなら人前での公開に耐えない…と私は思います。そういう意味でも、LFJのマスタークラス、色々と潮時だなあ…と感じたわけです。
続きはまた明日。
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コメント
マスタークラスといえば、声楽のマスタークラスの公開講座とかあればよいですよね?
聴講って勉強になるし、有料でもよいのですが。。たまに音大で海外の著名な声楽家のものはあるようですが、アマチュアが聴講するには敷居高いですものね(笑)
アデーレさん
声楽のマスタークラスって、あれば是非聴講したいですが、なかなかありません。ほんと、残念でたまりません。
すとんさん、こんにちは。ブログ、復活されていたのですね。
音大のマスターコースは、公開講座を取っていることが多く、誰でも聴講することができます。
別に聴講するのに、オーディションとか紹介とかは必要ないので、気軽に申し込めば良いのではないでしょうか?
私も何度か行ったことがあります。
ただ、実際にレッスンを受けている人はその音大の中で優秀な人である、と言う点で、自分の参考になるかどうかは話が別ですが。
あと、自分の先生の知人の紹介ということで、メトやスカラ座等で歌われているイタリア人歌手のマスターコースも受講したことがあります。
普段の先生も立ち会っていたので、参考にできた様子でした。
いずれにせよ、行き詰っている人が、著名歌手のちょっとしたアドバイスで、ぐ~んと伸びる、ということは期待しない方が良いに越したことはありません。
ドロシーさん
音大がねえ…近くにないのよ。それに音大って、女の園だから、仮に近くにあってもオジサン入りづらくって(汗)。
まあ、それでもチャンスがあったら、勇気を出して行っちゃうかも。
>行き詰っている人が、著名歌手のちょっとしたアドバイスで、ぐ~んと伸びる、ということは期待しない方が良いに越したことはありません。
それは同感。マスタークラスと言うのは、それなりのレベルに達している人が、さらに上を目指すためのきっかけとか霊感とかを入手する場だと私は思ってます。だから、うまくハマるとガラっと変わるわけです。ギャラリーとしては、その瞬間が見たいんですね。