先日、ビゼーが作曲したマイナーオペラ(笑)である「真珠採り」を、メトロポリタン歌劇場のライブビューイング上映で見てきました。
ビゼーのオペラというと「カルメン」が有名です。あまりに「カルメン」ばかりが有名で、ビゼーの事を“「カルメン」だけの一発屋作曲家”だと誤解している人も少なからずいるようですが、そもそもを言えば、ビゼーはオペラ作曲家なのです。ですから、当然「カルメン」以外にも、オペラやオペレッタは書いているわけだし、カタログ的には「カルメン」以外にも「真珠採り」とか「美しきパースの娘」などが彼の代表作として上げられています。さらに言えば「アルルの女」のような劇付随音楽(今で言う“サントラ”です)も書いてます。ビゼーって、実になかなかな作曲家なのです。
しかし、やっぱりビゼーは「カルメン」なんですよ。この「カルメン」があまりに名作過ぎて、この作品ばかりが上演され、その他のオペラ作品が実際の歌劇場で上演される事は、めったにないのです。
実際「真珠採り」というオペラは、オペラ作品として歌劇場で上演される事は、めったにありませんが、アリアや二重唱は、オペラ歌手のコンサートなどではよく取り上げられるし、アリア集等の楽譜でも、このオペラのアリアはよく収録されるほどに有名ではあります。とりわけ、テノールアリアである「耳に残るは君の歌声」は「真珠採りのタンゴ」としてポピュラーソングとしてリメイクされているくらいに有名なアリアです。
つまりビゼーの「真珠採り」は、アリアや二重唱は有名だけれど、オペラ全曲の上演は滅多にしないというタイプのオペラです。似たようなタイプのオペラに、チレア作曲の「アルルの女」とか、マスカーニ作曲の「友人フリッツ」などがあげられます。「アルルの女」はテノールアリアである「フェデリコの嘆き」ばかりが歌われますし、「友人フリッツ」は「さくらんぼの二重唱」ばかりが歌われます。
そんな、滅多にオペラ上演されない「真珠採り」をメトが上演し、それをライブビューイングで流すというのですから、コレを見に行かないと言う手はありえないわけです。
実際、メトでは、このオペラ、100年ぶりの上演なんだそうです。いやあ、ほんと、久しぶりなんですね。ちなみに、前回のテノールは、エンリコ・カルーソーだったそうで…もはや伝説の領域だよなあ。
で、そのメトの「真珠採り」の上演ですが、これがなかなか良かったんですよ。さすがはビゼーと言うべきでしょう、ほぼ捨て曲無し! どの場面で切り取っても、素敵な音楽なんだな、これが。演出もなかなかに手が込んでいて、素晴らしかったです。本来の時代設定はいつだか知らないけれど、今回の上演版では、時代は現代で、ズルガのオフィスには、普通にテレビや冷蔵庫にパソコンがありました。
あえて言えば、ストーリーは陳腐と言うか、まあオペラ台本にありそうな、テノールとバリトンの恋の鞘当て物語で、良くもなければ悪くもなしというわけで、なぜこの作品が100年もの間、お蔵に入っていたのかを考えた場合、少なくとも、陳腐な脚本のせいではないだろうと思ったくらいに、平凡なストーリーだったわけです。
じゃあ、100年にも渡るお蔵入りとなった原因はどこにあるのか…と言えば、私が思うに原因は2つ。“歌唱の難易度”と“舞台装置”じゃないかって思います。
まず最初の“歌唱の難易度”だけれど、この「真珠採り」で歌われる数々の歌は、実にメロディアスで美しい反面、私のような素人が聞いても「こりゃあ、歌うのが大変だなあ」と看破できるほどに、分かりやすい難曲揃いなんですよ。特にソプラノとテノールは大変だと思います。ソプラノは、椿姫を歌い切るような、パワーのあるコロラトゥーラじゃないと厳しいし、テノールは、ドニゼッティやベッリーニを歌えるような超高音を持った歌手じゃないと厳しいです。今の時代だから、そういったソプラノやテノールも揃えられるけれど、ちょっと前までのオペラ界では、そういった声種の歌手は極めて少なかったわけで、そりゃあ、なかなか歌劇場での上演に至らなかったというのも分かります。
また、舞台装置の難しさだけれど、とにかく他のオペラと共通点がなさすぎるのが、まず問題でしょう。オリジナルの設定に合わせるならば、オペラの舞台となる場所はセイロン島。つまり、現在のスリランカの港町というわけで、いわゆるインド文化圏なんだけれど、普通のオペラ劇場には、インドっぽい大道具とかインドっぽい衣装とか皆無でしょ? このオペラを上演するためだけに、これらのインドっぽいモノを揃えないといけないとするなら、そりゃあ、かなりの負担になるわけです。
それと、第二幕の終結部の嵐をどう表現するかは、演出上の難問でしょうね。まさか舞台上に強風を吹かせて、大道具をふっとばすわけにはいかないわけだし、この嵐は、ズルガの心情を表現しているわけだから、省くわけにはいかないし…メトではプロジェクションマッピングを効果的に用いて、嵐の場面を表現していたけれど、やはりこの手の近代装置を使わないと、この場面の演出は難しいかもしれません。
と言うわけで、21世紀になって、色々な環境が揃ってきたおかげで、上演可能なオペラ作品として復活してきた「真珠採り」だったわけです。
出演者たちに触れましょう。
主人公の“真珠採り”である、バリトンのズルガを歌ったのはマリウシュ・グヴィエチェンでした。物語の要を担う役であり、歌手としての力量はもちろん、俳優としての力もためされる役です。だいたい、ストーリー自体が陳腐なので、ズルガ役の演技次第で、このオペラが物語として鑑賞に耐えられるものになるかが決まってくるので、そう言った意味で、とても大切な役でしたが、見事にズルガを演じていたと思います。
ソプラノのレイラを歌ったのがディアナ・ダムラウで、この人がメトの支配人であるピーター・ゲルブに“「真珠採り」を歌いたい”と持ちかけて、今回の復活公演にまでこぎつけさせた張本人だったそうです。つまり、ダムラウがいたから「真珠採り」が復活できたわけで、それもあったせいか、実に役にハマった演技をしていました。
ナディールを歌ったテノールのマシュー・ポレンザーニは、歌は良かったのですが、気になったのは、彼の両腕の刺青。あれはナディールという役だから付けている特殊メイクなのか、ポレンザーニ自身の刺青なのか…ですが、別にナディールという役は、刺青がなければならないという役ではなく(ってか、ナディールに刺青を入れる理由が分かりません)、序曲の潜水場面で、海中で真珠を採るナディール(つまりポレンザーニの代役)をやったバレエダンサーも同じ刺青を入れていたので、役柄として入れている刺青なのかもしれませんが、本当に目障りな刺青で、ナディールが出てくるたびに、私の視線と気持ちはナディールの刺青に集中してしまい、ロクに歌も聞けなければ、芝居も見ることができませんでした。
あの刺青が特殊メイクなのだとしたら、演出家の意図が分かりません。
まあ、それはさておき、100年お蔵入りしていたオペラだから、どれくらいヒドイオペラかと期待して見に行った私ですが、見終わった感想は、そんなに悪くなかったですよ。オペラとしての出来は上々だし、また見に行ってもいいくらいには満足しました。うん、悪くないですよ。さすがはビゼーだなって思いました。
でも「カルメン」とどっちが素晴らしい作品かと言えば、「カルメン」の完勝だな。それは「真珠採り」がダメな作品というよりも「カルメン」が素晴らしすぎる作品だから…という事になります。ですから、劇場が「何かビゼーの作品を上演しよう…」と考えれば、どうしても「真珠採り」ではなく「カルメン」になってしまうのは、仕方のない事です。
でもね、ドニゼッティやベッリーニのオペラを楽しめる人なら、きっと「真珠採り」も楽しめる作品だと思いますよ。そのくらいには、面白いと思います。
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