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メトのライブビューイングで「魔笛」を見てきた

 標題どおり、メトの「魔笛」の演出が新しくなったので見てきました。スタッフ&キャストは以下の通りです。

 指揮:ナタリー・シュトゥッツマン
 演出:サイモン・マクバーニー

 パミーナ:エリン・モーリー(ソプラノ)
 タミーノ:ローレンス・ブラウンリー(テノール)
 パパゲーノ:トーマス・オーリマンス(バリトン)
 夜の女王:キャスリン・ルイック(ソプラノ)
 ザラストロ:ブレントン・ライアン(バス)
 モノスタトス:ブレントン・ライアン(テノール)
 弁者:ハロルド・ウィルソン(バス)
 パパゲーナ:アシュリー・エマーソン(ソプラノ)

 指揮者が、つい先日見た「ドン・ジョヴァンニ」と同じシュトゥッツマンだったので、期待していなかったのですが、こちらでの指揮ぶりは、あれほどヒドくはありませんでした。なので、指揮は及第点です。いやあ「ドン・ジョヴァンニ」の指揮は、ちょっと歌手に手厳しかったからね…。こちらは、それほどでもなく、ちゃんと歌手に寄り添った指揮をしていました。

 何があったのかしら?

 指揮が普通なので、歌手たちも歌いやすそうで、良い感じでした。とは言え、凄さを感じさせるカリスマ的な歌手は特にいませんでした。あえて言うと、夜の女王を歌ったキャスリン・ルイックには会場の拍手が多かったかな? 実は彼女は、歴代のメトの夜の女王としては、最多出演の歌手なんだそうです。つまり「オラが劇場の“夜の女王”」って感じなのでしょう。さすがに、あの難曲アリアを危なげなく歌っていました。まさにプロの仕事って感じでした。

 なので、音楽的には、一流歌劇場としては平均点レベルの「まあ、良いね」ぐらいです。

 それより何より、この上演での一番のポイントは、その演出です。これは、ほんと、好き嫌いが分かれる、尖った演出です。面白いか面白くないかと問われれば「面白い」です。でも、この演出を受け入れられるのかどうかと言われると「ううむ…」と迷ってしまいます。つまり「魔笛」である事には間違いないのだけれど、あまりに今までの「魔笛」とは、あれもこれも違います。いかにも“21世紀の演劇”なのですよ。明らかに“18世紀のオペラ”では無いのです。

 マクバーニーの演出は、いわゆる読み替え演出です。でも魔笛は、そもそもファンタジーですから、時代や場所を変えても、そんなに違和感なく見られるオペラなので、今回のように、時代を現代に置き換えて、パパゲーノがスマホを使っていても、タミーノやパミーナがジャージ姿でも、大丈夫と言えば大丈夫なのです。

 じゃあ、何に違和感を感じるのか…と言うと、オペラなのに、演出がメタ的なのです。舞台の左側にはビジュアルデザイナーがいて、彼が客前でリアルタイムに舞台の書き割りを作成し、それが舞台に投影されます。舞台の右側には効果音技師がいて、こちらも客前で、舞台の進行を見ながら、こちらはアナログ的な手法で効果音を作っていきます。客前…というわけですから、ライブビューイングでもカメラは彼らの仕事ぶりをしばしばアップで撮影していきます。また(本来、裏方である彼らに)歌手たち(主にパパゲーノですが)が絡むのです。これがメタでなければ、何がメタなのかって話です。

 さらに言うと、魔笛であるフルートはタミーノが吹くのではなく、オケのフルート奏者が舞台に上がってきて演奏します。パパゲーノのグロッケンは、パパゲーノが舞台袖に置いた楽器を、オケではトライアングルを叩いていたピアニストが、オケピから半身を乗り出して演奏します。いや、2幕では、そのピアニストは楽屋で休憩してコーヒーを飲んでいたという設定で、パパゲーノ(演ずるオーリマンスは歌手であると共にピアニストでもあります)が、ピアニストの不在のために、仕方なしに自らグロッケンを演奏します。パパゲーノが自分でグロッケンを演奏し始めたために、慌てて楽屋からコーヒー片手にやってくるという小芝居までするのです。

 さらに、歌手たちは、しばしば客席とオケピの間の通路を行き来するし、パパゲーノに至っては、アリアを歌いながら客席の中を(客を座席から退かしながら)歌って回ります。

 パパゲーノはデッドプールじゃないんだよ。

 こういう演出は面白いと言えば面白いけれど、オペラ的では無い事は間違いありません。

 あと個人的な、キャスティングについて。

 そもそもの「魔笛」の設定では、タミーノは日本人(狩衣を着た武人)、モノスタトスは黒人の召使い、パパゲーノは鳥型の亜人なのです。なのに、この演出では、タミーノは街にたむろす若い黒人、モノスタトスはビジネススーツの白人、パパゲーノは白人の狩人なのです。

 つまり…ポリコレですか? 人種差別と言われてもかまいませんが、私には“黒人のタミーノ”は受け入れられません。いや、黒人歌手でもいいのですが、そこに日本やアジアっぽさを感じさせてほしいのです。今どきは、黒い日本人だっているのだから、黒いタミーノでもいいのだけれど、それが、いかにもな、ベタな黒人キャラじゃイヤなんです。ダメなんです、絶対に。

 パパゲーノが普通の人間になっちゃうのもダメ。あれは亜人なんです。だから嫁さん候補の彼女は、同じ亜人であるパパゲーナじゃないとダメなのです。モノスタトスは…黒人でなくてもいいのかもしれないけれど、亜人であるパパゲーノの対になっているキャラですから、パパゲーノ同様に、何かの亜人やクリーチャーじゃないとダメなのです(だから黒人…というのは、18世紀の感覚なんでしょうね)。それが…スーツを着た白人男性? なんですか? それ?? そこは、個人的に譲れないのです。

 “3人の侍女”が舞台上に9人いるのは許容します。でも“3人の童子”が“3人の老いさらばえた爺さん”になるのは勘弁です。醜悪です。夜の女王が婆さんで、車椅子使用者なのは、さすがにやり過ぎだと思いました。確かに現代的な感覚だと、パミーナがアラサー女になってしまうのも仕方ないし、そうなると、その母親である夜の女王が要介護者になってしまうのも、現代的キャラ設定ならアリなのは分かるけれど…やっぱり夜の女王は、せめて、美魔女であって欲しいです。

 あと、パミーナが夜の女王から“ザラストロ暗殺用”に渡される短剣が、普通の三徳包丁(それも抜き身…包丁だからね)なのは笑いました。何もそこに日本要素をぶっ込まなくても…と思っちゃいました。

 尖りすぎた演出に違和感満載です。でも、それらの改変の結果、「魔笛」が面白くなっているのも事実なのです。あまりに尖った演出には、違和感を感じます…が、面白いのです。ああ、悩ましい。

 こんな舞台は、魔笛だけれど、魔笛じゃないよ。いや、魔笛なんだけれど、それを認めたくない感じなんだよ。オペラなんだけれど、オペラじゃないんだよ。少なくとも、音楽なんてロクに聞けないもの。目が舞台に釘付けで、面白いんだけれど…ね。マクバーニー最高!

 結論。良い意味でも悪い意味でも、メトっぽくないです。

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