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名前って、社会的な記号なんだと思ってます

 先日、何気なく徒然草(の現代訳)を読んでいたら、次のような文章と出会いました。著作権の問題もあるので、原文で引用しますね。

徒然草 第百十六段
 寺院の号、さらぬ万の物にも、名を付くる事、昔の人は、少しも求めず、たゞ、ありのまゝに、やすく付けけるなり。この比は、深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむつかし。人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり。何事も、珍しき事を求め、異説を好むは、浅才の人の必ずある事なりとぞ。

 これを私訳しますと…

 お寺の名前を始め、その他の色々なモノに名前を付ける時に、昔の人は、凝った名前をつけずに、ただ、見たままに、あっさりと命名したものです。ところが最近では、あれこれ考え悩み、命名者が知恵者であることを証明しようと、わざと凝った命名をしているように思えるのは、とても気分が悪い。人の名前も、見たことのない珍しい漢字を使うのは、まったく意味がない。どんな事であっても、珍しい事を求めて、一般的でないものをありがたがるのは、無教養な人が必ずやりそうなことですね…なんてね。

 徒然草と言うと、今から700年ぐらい前に書かれたエッセイ集です。人の本質は今も昔も700年前も、そんなに変わらないんだなって思いました。

 それにしても、700年前から、キラキラネームってあったようです。最初は珍しい名前も、みんながそれを良しとして、たくさんの人に名付けられてしまうと、もうそれはキラキラではなく、ごく普通の名前になってしまい、定着してしまうのでしょうね。今の子どものキラキラした名前だって、そのうちの幾つかは時の流れと共に定着してしまうのでしょうね。

 私が思うに、問題はキラキラネームではなく、難読ネームなんだろうなって思います。

 名前って、記号ですから。世界がその人を呼ぶための社会的な記号ですから。その記号が、難読で、その人を何と呼んだら良いのかが難しいと…その名前は記号としての役割を果たせません。

 “花子”と書いて“はなこ”と読むなら記号として十分ですが、“花子”と書いて“エリザベス”と読むなら、記号として破綻しています。これは極端な例ですが、要はキラキラネームって、そういう事でしょ。

 「人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり」 人の名前も、見たことのない珍しい漢字を使うのは、まったく意味がない…兼好さんもそう言っているわけで、世間に正しく呼ばれることを拒否する名前を我が子に付けるってのは、止めた方がいいと思うし、不幸にもそんな名前を付けられた子に対して、簡単に改名できるような法整備が必要なんだろうなあって思います。

 名前って、本人のモノだけれど、本人が選べないモノじゃない? ある意味、ハズレな名前の子って、ほんと、人生で損をするんだと思うんだよね。少なくとも、私に採用権があったなら、キラキラネームの子は会社で採用しないよ。だって、変な名前(ごめん)は本人の責任ではないとは言え、本人の一部である事は間違いないわけでしょ。学校じゃないんだもの、フェアである必要もないし(たとえ真人間であっても)変な人である可能性が高いなら、そこはパスだよね。少なくとも、私ならそうします。

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