さらに声楽のレッスンは続きます。
出来ないわけじゃないのだけれど、違和感とか苦手意識があるのが“っ”です。いわゆく『促音』ってヤツです。この音は、一種の休符のようなもので“っ”ってのは、無音を発音していくわけです。
これがなんとも違和感ばりばりなんですよね。歌い方としては“っ”の部分だけ息を止めればいいだけなんだけれど、どれくらい息を止めるべきなのか、息を止める速さ(ブレーキを踏み込む速さ)はどうするべきなのか、また“っ”の後の、息を吹き返す部分の速さ(アクセルを踏み込む速さ)はどうするべきなのか…なんか、あれこれあれこれ考えてしまうんです。
この歌のケースではないのだけれど、特に困るのが“っ”に対して音符が割り振られているケースです。ほら、日本の歌って、音符一個にかなを一つずつ振っていくわけで、そうすると当然“っ”にも音符が一つ与えられるわけです。音符というのは、音程と長さを示すわけで、まあ長さとともかく、無音である“っ”に対して、どう音程を表現するべきか、本当に悩む私なんです。
とにかく、子音や母音の発音にこだわっていたら「死んだ男の残したものは」は終わりにはなりませんでした。次回のレッスンまで、たっぷりと歌い込んできて、歌いづらい母音の連なりをチェックしておくように言われました。次回のレッスンでは、歌いづらい箇所を中心にレッスンする事になりました。
で、次回も「死んだ男の残したものは」を歌うわけですが、その次の曲として「ワルツ」を提案しましたが、先生に却下されました。いい曲なんだけれど、教材としては学ぶような箇所がないので、リハーサル準備のためのレッスンならともかく、テクニック習得のためのレッスンの課題曲としてはふさわしくないという理由で、却下なのです。
ちょっぴり残念です。
ちなみに「ワルツ」ってこんな感じの曲です。
歌っているのはソプラノの八木香那永氏です。この「ワルツ」という曲は、武満のソングの中では、なかなか取り上げられない曲なんです…が、いい曲だと思うのです。まあ、歌詞の内容は、とてもとても重いけれど…ね。妻に先立たれた夫の歌…なんだよね。八木氏は、キリスト教会でのコンサートを中心に活躍している歌手さんで、こういう曲を歌わせたら、なかなか良いですね。私もきちんと勉強してみたかった曲です。
で、最後はドナウディ作曲の「Amorosi miei giorni/私の愛の日々」です。
まず全体に“甘さ”が足りないそうです。“甘さ”とは、音をつなげていく事です。息をつなげるだけでなく、音程もつないでいきます。スーパーレガート+ポルタメントが“甘さ”になっていきます。甘さを表現する手段の一つとして、クチをあまり動かさずに歌っていくやり方があります。もちろん、音程が跳躍していく箇所では甘さの出しようがありませんが、音程がなだらかに動いていく箇所や、コブシをまわしていく箇所では、思いっきり甘く歌うのが吉なのです。
ところが私ときたら、常にハキハキと歌っていて、甘さのかけらもない…のだそうです。悪い表現をすると…
「イタリア語ではなくカタカナで歌っているように聞こえる」
ガーン! 確かに私はイタリア語は話せないけれど、カタカナでは歌っていないつもりだったのですが…いやあ、カタカナ歌唱に聞こえていたんですね。すごーいショックです。
カタカナに聞こえないようにするためにも、甘く甘く歌うべきなのです。
“che un suo sguardo”の箇所の“sguardo”の“sguar-”と“-do”の間にある十六分音符をしっかり歌う事。ついつい、ここをいい加減に歌ってしまうので、後々、リズムがずれて、ビートを外してしまうのです。地味だけれど、大切なポイントです。
“il mio tesoro”の部分は、どう歌いたいのか。自分の意思を固めておかないと…。実はこの箇所、前回のレッスンでは、あまりにルーズに歌いすぎるので、もっと楽譜に忠実に歌いましょうと言われて、しっかり練習してきたので、割りと楽譜通りに歌えるようにしてきたのですが、今度は「ここだけ楽譜通りで、なんかオカシイ」と言われました。
おそらくは、全体のバランスの問題なんでしょうが、自分の感性に任せて歌うと「崩しすぎ」と言われ、楽譜通りに歌うと「なんかオカシイ」と言われます。要は、先生がなんとおっしゃろうと、自分の歌い方を通していく事が大切なのかもしれません。自分が無いのがダメなんだろうと思います。
もっとも、本音で言えば、私はこの箇所、もっともっと崩して歌いたい人なんだけれど、現実問題として、息が足りなくて、思いっきり崩しきれていないのです。そういう中途半端な崩し方が良くないのかな…って思ってます。まあ、息と感情のせめぎあい…なんですね。しっかり歌い込んでいかないといけないだろうなあ…。
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