先日、合唱関係の記事を書いて、ちょっとばかり荒れました。まあ、私の筆力の不足が招いた混乱であり、その点に関しては、申し訳ないなあと思ってます。
で、私が合唱を取り上げる際に、合唱と声楽の発声の違いについて、よく取り上げるわけですが、どうやら、これが合唱の方々には気に食わないようであると察します。
私には他意も悪意もないのはご了解いただきたいと願いつつ書かせてもらうならば、日本国内の一般的な市民音楽活動レベルにおいては、合唱と声楽では求めているモノが違うので、合唱の人と声楽の人では、やっぱり声が違うと思います。
合唱の人たちの声は、素朴で均質で没個性的です。声質的には薄く、一人一の声量に欠けますが、音程コントロールは得意なようです。(悪口を言っているわけではない事はご理解いただきたい)
一方、声楽の人たちの声は、個性的です。たいがいの場合、声質も声量も声域も、合唱の人達とは異なり、比較すると抜きん出ている事が多いのですが、じゃあ、どれだけ素晴らしい歌声なのかと言えば、そこはアマチュアの悲しさ、抜きん出でいる部分もあれば、逆に凹んでいる部分もあり、出来る事はすごく出来ますが、出来ない事はテンでダメだったりします。でなきゃ、とっくにプロデビューしているわけだしね(笑)。そんなダメな部分も抱えたまま、三者三様、十人十色、百人百様ってわけで、オンリーワンな個性的な存在として歌っているわけです。(そうでなきゃ、声楽なんて出来ません)
…と書くと、一部の合唱の人たちが「キーっ!」と言って、目くじらを立てそうですが、まあまあ、落ち着いてください。
なぜそうなのか! それは、声が天賦のモノだからです。良いとか悪いとかの問題ではなく、人は神様から与えられた声でしか歌えないのです。それこそ、楽器ならば、楽器店に行って、自分好みの楽器を買えばいいのですが、声はそうではなく、神様から自分に与えられた声という楽器を使うしか無いのです。
だから、出来ることは出来る。出来ないことは出来ない。努力で埋められる穴は埋めたとしても、埋められない穴や、埋めるためには時間がかかる穴に関しては、オトナの対処が必要だ…と言いたいわけです。
声って天賦のモノなわけで、人それぞれです。普通に歌うだけで、大きな音量で遠鳴りの声を出しちゃう人もいる一方で、どんなに頑張っても、ささやくような声でしか歌えない人だっているのです。目立つ声でしか歌えない人もいれば、周囲の音にすぐにかき消されてしまうような声でしか歌えない人もいるのです。
まず、人それぞれ、声もそれぞれで、我彼の違いという現実を受け入れ、互いの存在を認め合いましょうよ。
その上で、合唱団ならば、その合唱団の活動方針があるわけだから、それに沿って、メンバー募集をしたり、指導計画/演奏計画を立てていけばいいんじゃないかと思います。誰でも彼でも入団させるのも悪くはないけれど、入団テストを施行して、一定水準以上のメンバーを集めるようにするのも一つの手だし、誰でも彼でも入団させたとしても、オーケストラのように“降りメン制度”を導入して、曲にふさわしい声の人が舞台にあがるようにするとか、いっそ、なんでもありのごった煮の団体にするかどうか、色々と検討していけばいいんじゃないかって思います。
その上で「この人は、ウチの団員としては、ふさわしくない」という判断が出たなら、いじわるをしたり、居場所をなくしたり、精神的に追い込んだりなどの行為は止めて、しかるべき立場の人から、事務的に通達をしてやめてもらえばいいわけです。そういうオトナの対応をしないで、いじわるをして辞めさせることを続けていくと、合唱という音楽ジャンルの敵を増やし、やがては合唱が廃れていく原因になっていくんだと思います。
それはさておき、声は天賦のモノであり、声の違いを認めていくならば、現代日本の市民音楽活動では、声楽と合唱を両立させていくのは、なかなか難しいのかもしれませんね。
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コメント
たしかに、すとんさんの歌を聴くと、声が天賦のモノなのかも知れないと思います(悪口ではありませんので、誤解のないようお願いします)。
合唱は、他人と合わせるのが大前提。協調性をモットーに、皆でコツコツ努力を積み重ねて作品を作り上げることに喜びを感じる。
独唱は、とにかく自分の表現したいことを遺憾なくアピールできる。人に合わせる必要もないからストレスも溜めにくい。その代わり、孤独な戦いになる。
…そんな傾向があるように感じます。
歌の世界に限らず、他人と合わせるために日々努力や我慢を繰り返している人が、他人と合わせようともせずマイペースに過ごしている人に嫌悪感を覚えるのは世の中の条理です。
自分は他人と一緒でないと安心できないのに、他人と違っていても平気な顔をしている人達の心の余裕に嫉妬しているのかもしれませんね。
我々のようなマイペース人間は、このように一定数の人間から嫌悪されることを覚悟して生きていかないといけません。
でも、それぐらい容易くスルーできますよね?
好きなことを好きなようにして、楽しく過ごせばいいんです。それが我々マイペース人間に与えられた特権なんですから。
声は素質による比重が非常に大きく、実はレッスンしてもそう簡単には変わりません。
ま、少しづつ進歩はありますが、まるで別人のように変わるかというと、それはないという意味です。ただ、意外と多いのは、本人や師匠からではなくて同じ門下生からのお褒めの言葉や進歩したね、良くなってる、やら声が変わってきたね、などと言われる事がありますね。そういうのって、残念ながら合唱やられてる方には皆無なんです。なぜだか、むしろ、煙たがられるか妬かれる感じが多いですよ。だから、合唱人は協調性はありつつの、しかし、足並み揃えて、一人だけ抜け駆けしない事、って感じです。だから、上手くなったら上手い団体に移動しましょうって話しになるか本人が凄く悩む。。。それは独唱の仲間にはない。むしろ見守ろう的な雰囲気がありまして、だから居心地よいですね。ま、みんながみんなそうではないかしれませんがね。。。陸上なら、みんな仲良くおてて繋いで走るか、1人で記録に挑戦するか、って感じですか?
イサナミさん、いらっしゃいませ。
ちょっとでも誉めてもらえると、単純に、嬉しいです。私の声は、罵倒される方が多いですからね。
>悪口ではありませんので、誤解のないようお願いします
大丈夫です、誤解しませんって(笑)。
“天賦の~”という言葉には『良いモノ』という意味があります。天が人に悪いモノを与えるわけがないじゃないですか? 問題は、その贈り物を、人がきちんと使いこなせるかどうかって事なんだと思ってます。
たろすけさん、いらっしゃいませ。
たろすけさんのご考察は、たぶん正解です。私もそう思います。
ただ一点だけ、私の意見を言わせてもらうと、独唱者は決して他人に合わせる事しないわけではなく、むしろピアニストなり指揮者なりと音楽的に合わせていく事が大前提であり、そこに苦労をしたり、ストレスが溜まっていく…という事があります。
おそらく、合唱と独唱の違いは、音楽を作っている人の違いにあると私は思います。
合唱は、良くも悪しくも、指揮者が音楽を作ります。演奏者は、指揮者の指示通りに音を出せばいいわけで、良い合唱団とは、指揮者にとって、良い楽器である事なんだと思います。一方、独唱では音楽を作るのは、歌手自身です。歌手が自分で考え、どう表現していくかを、自分を追い込みながら歌っていくわけです。つまり、合唱と独唱の違いとは、音楽作りの主役が、我にあるのか彼にあるのかの違いだと思います。
おそらく、合唱の人たちも、そのことには薄々感づいているんだと思いますよ。おそらく「好き勝手やりやがって…!」ぐらいに思っているのかもしれません。で、そういうところが、マイペースと思われ、ある一定数の人間から嫌悪されるのかもしれません。
>好きなことを好きなようにして、楽しく過ごせばいいんです。それが我々マイペース人間に与えられた特権なんですから。
マイペース人間でなくても、趣味なんですから、楽しく過ごせばいいのです。趣味なのに、辛いことなんて、しちゃダメですって。
アデーレさん
>声は素質による比重が非常に大きく、実はレッスンしてもそう簡単には変わりません。
そこなんですよ、そこが痛し痒しな部分だと思います。才能が努力を簡単に飛び越えちゃう世界ですから…努力至上主義な方々としては、なんとも歯がゆい事だと重います。
>陸上なら、みんな仲良くおてて繋いで走るか、1人で記録に挑戦するか、って感じですか?
陸上は元々個人競技ですからね(笑)。音楽は、合唱であれ独唱であれ、チーム戦だと私は思いますので、スポーツに例えるなら、サッカーに例えるかな? 全員サッカーで鉄壁な守りに重点をおいて勝ち進んでいくべきか、一人のファンタジスタを皆で支えて勝ち進んでいくべきか…って違いじゃないかな?って思います。
ファンタジスタって奴も、努力だけじゃなれない存在ですからね。
>同じ門下生からのお褒めの言葉や進歩したね、良くなってる、やら声が変わってきたね、などと言われる事がありますね。
そうやって、声が変わっていく事ってありますね。プロのアドヴァイスも大切ですが、同じ仲間からの同じ目線からのアドヴァイスって、とても大切だと思います。
私がアマチュアの発表会に足繁く行くのも、似たような理由があります。アマチュアの発表会って、プロの演奏会と違って、すごく勉強になるんですよ。同じアマチュア同士、長所も短所も演奏を通して、透けて見えるんですよね。そこがいいんです。そこが勉強になるのです。だから、私は通うんですよ。
普段はすとんさんの意見に大賛成なんですが、今回はちょっとなぁ、違うよ?って思った箇所があったので思い切ってコメントですw
声は天賦のもの、っておっしゃいますけど、わたし、「発声しだい」ではないか?と思ってるんですよ。
日本語って、俗に言うベルカント発声、クラシック発声から一番かけ離れた場所にある言語だと思うのですよ。喉の奥はつかわない、息は流さない、口を閉じたまましゃべれるくらい横空きで処理できる音の並び、などなど。
逆にイタリア語はもう言葉自体が歌の要素を帯びていると思うのです。
その上すとんさんやパバロッティのような「自然歌手」って少ないと思うのですよ。
(「自然歌手」はうまれつきクラシック発声でしゃべれる人。パバロッティは一度も発声の練習とかトレーニング受けなかったようですものね)
なので、合唱の声の人もしかるべきトレーニングを受け、しかるべきテクニックを身に着ければみんなソリストの声になると思うんですよ。
ソリストの声=ハイテノール、コロラトゥーラソプラノではありませんよ。
それこその声種の辺りは「天賦の才」がなければいくらいい発声を身につけてもなれるもんではない。
でもソプラノでいったら普通にリリコやスピンとあたりの声を得ることは可能だと思うのですよ。
ただ、合唱を選ぶ人はこの可能性を無視して、大勢で声を重ねることが美しい、という視点しか持たないからソリストとしてのトレーニングを始めることなく、合唱に安住してしまうのではないかしら?と思っています。
すとんさんのようにはじめから歌う声を持っている「自然歌手」は100人に一人だそうです。ただ、そのあとトレーニングをするかしないかで歌い手になるかどうかわかれるんでしょうけれどね。
ソリストの声は天賦の才で決まるって言われちゃうと、わたしはソロで歌えないことになります。私の声は自分の師に地道に作ってもらった声なので、それもあって反論したかったのかも知れません。
かのディースカウも10代のころはへたくそなオーボエのような細い、不安定な、ソロを歌えるような声ではなかったといわれています。彼は努力であの声を作ったんですよ。
そう思うと、天賦の才というのは、ちょっと乱暴かしら?と思いました。
どちらにしろ、合唱を好む方々は自分の声ときちんと向き合うことがソリストよりも少ないというのがすべての根源かしら?って思います。
長文失礼いたしました。
どちらにしろすとんさんはソリスト向きですねw
ミルテさん
反論ありがとう…と言うか、ミルテさんの意見も大正解だと思います。私と一見すると意見が異なるようですが、おそらく同じ事を言っているのだと、私は思ってます。要は、マクロな視点で見ているのか、ミクロな視点で見るか。あるいは自分自身を基準にして考えるべきなのか、神様の視点から考えているのか…って事だと思います。
何事も努力は必要だし、努力で変わらない事はないと思います。ただ、努力にも限界があるわけで、その限界点を、見下ろして考えているのか、見上げて憧れているのかの違いかもしれません。
あ、こういう視点だから、私は合唱の人に怒られるのかもしれない(ちょっと気づいた:汗)
例えば、短距離走。練習をすれば、絶対に速く走れるようになれるわけだし、頑張れば、地区大会とか県大会とかに出場できるかもしれない。でも、インターハイとか国体とか、ましてやオリンピックに出場するには、努力だけじゃダメで、才能がないとね…って事です。(もちろん、私自身はオリンピック級ってわけじゃなく、せいぜいがインターハイ出場を目指して、いつも一回戦負けしている…って感じでしょうね:汗)。
当たり前の話だけれど、私、プロ歌手の演奏って、全然参考にならないなあって思ってます。だって、住んでる世界が違うんだもの。それもあって、声は天賦のモノって思うわけです。
>そのあとトレーニングをするかしないかで歌い手になるかどうかわかれるんでしょうけれどね。
才能は必要だけれど、才能だけじゃダメダメってわけです。ほんと、努力は必要です。