昔々、フルトヴェングラーという人が、レコード録音を「音楽の缶詰」と呼んでいたそうです。もちろん、これは誉め言葉ではないわけですが、彼が録音をした1930~40年代の頃は、ちょうど第二次世界大戦(1939~1945年)の前後が含まれている時代で、標準的なレコード録音では、スタジオで演奏したものを、テープ録音(モノラル)で収録し、それをLPレコードとして発売するといった時代で、当時の技術陣は頑張ったんだろうけれど、技術的な限界もあって、今、我々が復刻版CDで聞ける程度の録音だったわけです。
いや、再生メディアが、当時はCDではなく、LPだったわけだし、オーディオ機器の性能だって、あまり良くなかったから、今の我々が聞いている復刻版CDの演奏よりも、相当劣悪な音楽鑑賞状況であったと推測されます。
だから、フルトヴェングラーの言う「音楽の缶詰」の“缶詰”と言うのは“美味くない保存食”程度の意味なんだろうと思います。音質的には全然ダメなんだけれど、音楽はコンサートホールに行って聞くものという常識があった時代に、自宅で一流の音楽家の演奏がいつでも聴けるという利点があったわけです。
さて、現代です。流石にモノラルのLPはなくなり、音楽を聞くメディアは、ステレオのハイファイ録音によるモノが主流となり、その配布形態も、CDあるいはネット配信が主流となりました。フルトヴェングラーが「音楽の缶詰」と言っていた状態では、すでにありません。私に言わせれば「音楽のレトルトパック」あるいは「音楽の冷凍食品」状態かなっているかなあと思います。
ここでは両者をまとめて「音楽のレトルト」と呼ぶことにしましょう。
現在のレトルト化された録音音楽は、なかなか良いと思います。私はコンサート派の人間ですから、録音された音楽よりも、生演奏の音楽の方が良いと思っているし、録音では再現できない何かが生演奏にあると思ってます。
しかし、その一方で、今の録音音楽って、生演奏を越えている部分があるんですね。
たとえば、録音音楽には、生演奏にありがちな演奏の瑕疵がないんです。つまり録音では、どんなレベルの演奏家であっても(その録音が商業ベースにのっているモノなら)演奏ミスは修正されていますので、完璧な状態に仕上がっています。実はどんなベテランの音楽家であり、どんなに一流と呼ばれている音楽家であっても、生演奏ではミスがあるものなのです。いや、ミスがあって当たり前なのです。だって人間だもん。大切な事はミスが無い事ではなく、ミスがあっても、そのミスを帳消しにできるほどの、圧倒的な感動を客に与えられるかどうか…なんですね。
現代は録音音楽が広く普及した事もあって、観客は演奏家にノーミスを要求している部分があり、ミスが多い演奏家は、それだけでマイナス評価をもらうことが多く、私は少しばかり可哀想だなあって思います。だから、若手の登竜門である各種コンクールでは、演奏ミスが少ないことが、勝ち残るために大切な事なんだね。
ミスとは違いますが、今の時代なら、グレン・グールドのように、ピアノを弾きながら歌っちゃうピアニスト(それも肝心なピアノの音よりも彼自身の歌声の方が大きい:笑)は、どんなに音楽性が豊かであっても、受け入れられないだろうね。同様に、指揮をしながら唸っちゃうトスカニーニも無理だね。
それに、録音音楽ならば、古今東西の一流演奏家の演奏が聞けるし、珍しいレパートリーだって聞けます。とうの昔に亡くなってしまい、今ではその演奏が聞けない人の全盛期の演奏が聞けたり、現役バリバリであっても、日本に来てくれないとか、日本に来ていても自分の自宅近くに来てくれないとか、そもそも来ていてもチケットが入手困難で聞きにいけないような演奏家であっても、録音音楽なら聞けます。また、コンサートではどうしても客が呼べる曲しか演奏してもらえませんが、録音ならば、ステージにはかけないような曲であっても、録音してくれます。
これって、何気にすごい事でしょ。
そして、録音された音って、確かにコンサート会場の特等席で聞く演奏と比べると、まだまだダメだなって思う部分はあります…と言うよりも、これだけ録音技術が進んだ現代でも、録音できないモノがあります。その場の空気感とか、場の振動とか、音の色艶とか、歌手自身が持っているオーラとか熱量とかね。あと、本当に細かな音とか。例えば歌手の場合、ステージでは、録音よりもずっと子音を立てて歌っている人が多いのですが、おそらく歌手の発音する子音の微妙な感じまでは録音しきれないのか、あるいはノイズとして処理されてしまうんでしょうね。
なので、やはり録音音楽よりも、生演奏の方が良いなあと個人的には思ってますが…それはあくまでも特等席で演奏を聞いた時の話です。
コンサートホールの安い席で聞くぐらいなら、録音の方がマシって感じる時、正直、あります。安い席、つまり演奏家から遠い席ですが、そういう遠い席だと、そもそも録音で聞けない微妙な感じが演奏にあったとしても、遠くにいるので、それは聞こえません。それ以前に、演奏家によっては、ちょっと音量的に厳しい時だってあります。そのくせ、ミスはよく聞こえたりします。
まあ、それ以前に、私の場合、コンサートを聞きに行って、客に感動も与えられないような、しょぼい演奏にぶつかってしまった時は、家に帰ってから、口直しに録音音楽を聞く事があります。
それってまるで、外食先でマズイ料理に出会ってしまった時に、ウチに帰ってから、美味しいレトルトで口直しをするようなものです…って、そんな事をするのは、私だけ? だから太るの?
そう言えば、レトルトにせよ冷凍食品にせよ、下手な外食よりもずっと美味しかったりするし、安い外食先だと、厨房でレトルトや冷凍食品を使っていたりするしね。料理の世界では、すでに一流レストランを別格とするなら、そこらの飲食店が提供する料理と、レトルトや冷凍食品では、それほど大きな差がないのかもしれません。
音楽もすでに料理同様、一流演奏家以外だと、生演奏も録音音楽も、大きな違いはないのかもしれませんね。
となると、生演奏が録音音楽に優っている点とは…生演奏だと、録音では聞けない地元の凄腕ミュージャンの演奏が聞ける事…かな? 頑張れ、ローカル演奏家。音楽も地産地消で頑張りましょう。
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コメント
こんばんは。
> レコード録音を「音楽の缶詰」と呼んでいたそうです
この表現は実は初めて聞きました。意味合いは何となくわかります。
若いころは音楽は一回きり、一期一会、同じ表現を繰り返したらダメ、みたいな思い入れはかなりありました。
グールドはブラームスの間奏曲のスタジオ録音は大好きですが、それよりも若いころのライヴの録音のほうも大好きです。
最近は年とったせいかヒリヒリするような一回性、という感覚が薄れてしまいました。コンサートは1回/月程度の間隔でいろいろと通っていますが、その都度感動した、というよりは別のことが多くなってしまいました。
一番ヒリヒリしたのは神戸国際とか管打のフルートのコンクールを聴いたときだったので、ボケ防止に次回神戸がまだあれば日帰りでも聴きにいこうかとおもいます。
録音はグールド、アルゲリッチ、ヴンダーリヒ、などなどスタジオ録音よりはライヴ録音のほうが好きですが、何回も繰り返し聴ける、というのが不思議ですし、繰り返せないものを繰り返して聴く、というのもなんか変な感じです。
tetsuさん
音楽は時間芸術。一期一会な芸術である事は、今も昔も変わりありません。ある意味、録音音楽は邪道なのかもしれません。でも、録音音楽が普及しなければ、音楽は今でも一握りの愛好家たちのモノだったのかもしれません。おそらく、私だって、レコードがなければ、クラシック音楽にもオペラにもフルートにも出会うことがなかったと思います。なので、レコードによる音楽鑑賞は、邪道かもしれませんが、天上からの蜘蛛の糸だったのかもしれません。
>最近は年とったせいかヒリヒリするような一回性、という感覚が薄れてしまいました。
私は感覚が薄れるどころか、時折、居眠りぶっこいてます(涙)。ダメだな。
こんばんは。
> 音楽は時間芸術。一期一会な芸術である事は、今も昔も変わりありません。
そうなんですよね。だから、今所属しているアマオケはフルートパートの所属で、止めたら次はないので、とても止められません。本番ステージ上では、指揮者との一瞬のコンタクトとかいろいろ練習と全然違って別世界です。
ひとことへのコメントですが、今も中核派ってあるんですね。ビックリでしたが、昔々の京都あたりの大学はこんな雰囲気でした。マル青同、革マル、民青などなど。
高校の一つ上の先輩は黒ヘルかぶって行方不明、という伝説もありました。
佐藤優の「獄中記」、「同志社大学神学部」、「私のマルクス」あたりの本はメチャおもろいです。
佐藤優と時代は微妙にかぶさっていたのもビックリです。
人生一回しかないところで何に賭けるか、今は残り少ないので余計考えてしまいます。
tetsuさん
そう、音楽は時間芸術なんです。録音しちゃうと、何度も再生可能になってしまって、全然時間芸術じゃなくなってしまいます。もちろん、演奏する側は録音でも舞台でも同様に全力を尽くして演奏するでしょうが、ミスは直してもらえるし、音に化粧だってしてもらえるわけで、そこはやはり生演奏とは違うし、聞く側の私たちだって、何度も聞けると思えば、ついついリラックスしすぎちゃって、いい加減な態度で音楽に接してしまいがちです。
だから、録音ばかり聞いていちゃダメなんだと思って、なるべく生演奏を聞こうとしているのですが、生演奏は色々とハードルが高いので、やっぱり録音は便利に聞かせてもらってます。
アマオケ、うらやましいです。
学生運動は、時代の華だったと思います。あの時代だから存在が許されたし、輝いていたんだと思います。今はもう、学生運動でもなければ、SEALSのように為政者に向かって難癖つける活動も、人々の心には届きません。手法が古いし、考え方も古い。そんな事をやっているから、一般学生にやられちゃうわけだよね。本来、味方であるべき一般学生を敵に回すなんて、社会運動としては、下の下の下だよね。京都大学の学生さんって、もっと頭がいいはずなんだから、しっかり考えて、今の時代に有効な手段で戦わないとダメじゃん。そういう点では、ちょっとばかり、京都大学に失望しました。
昔は、本当に頭の良い奴は京都大に行くというイメージがあったけれど、今は必ずしもそうではないんだなあ…って思いました。