『良い先生の条件』と言ったって、実は定義次第で、いくらでもどうにでもなるような気がしますので、ここは「自分なら、どんな先生に習いたいか?」という視点で考えてみる事にしましょう。これは、裏返して先生の立場から見れば「生徒は先生に何を望んでいるのか」という事にもなります。
では、生徒たちは、どんな先生に習いたいでしょう? ざっくり言っちゃえば“良い先生”に習いたいものです。では“良い先生”とは、どんな先生でしょうか?
“良い先生”とは簡単に言えば『生徒から慕われる先生』の事です。では、生徒から慕われる先生の条件…と言うか、持っている要素はなんでしょうか? 先生が生徒から慕われるためには、どんな要素・能力が必要なのでしょうか?
私が思うに“人格”“演奏力”“教授力”の3つを備えていれば、生徒に慕われる先生になれるのではないかと思います。
“人格”と、ひと言で言っても、色々なパターンがあると思います。“尊敬される”タイプの先生もいれば“愛される”タイプの先生もいるでしょう。色々なパターンがあったとしても、共通して言えることは『生徒から受け入れてもらえる』人って事です。つまり“まともな人間”って事ですね。
「先生、怖い」とか「先生、威張ってる」とか、虚勢をはっているとか、「言ってる事と、やっている事が違うじゃん」とか、「この前言ってた事と違うよぉ」とか、「生徒の訴えをまともに取り合わない」とか、すぐに誤魔化すとか、嘘をつくとか、保身に走るとか、コミニュケーション能力が低いとか、挙動不審とか、不潔だとか…先生ってサービス業だし接客業なんだけれど、そこのところが全くダメな人って、やっぱり人間として問題があるというか…先生業に不向きなんだと思います。そういう先生は、なかなか生徒に受け入れてもらえません。生徒の側からすれば、そんな先生に習うのは、苦痛で苦悩でしかなく“先生嫌い”が、やがて“音楽嫌い”になりかねません。
でもね、音楽家という人種は、一般的に言って、変わった人も多くて、この“人格”と言った点で“???”な人も少なからずいるんですよね(ため息)。私だって、誰とは申し上げませんが、もう少しで音楽が嫌いになるところでしたもの。
“演奏力”が必要なのは、ある意味、当たり前と言えば当たり前の話です。しかし、学校のセンセだって、幼稚園教諭と大学教授では、求められる知的レベルが違うように、習い事の先生も、対象となる生徒たちの質やレベルや年齢や目標や野望によって、求められる“演奏力”が違うのは当然です。最低限のラインで言えば『教則本レベルはスラスラ演奏できる』が最低限かな(笑)。別に有名音大を卒業している必要はないけれど、ある程度の演奏力は絶対に必要です。少なくとも、生徒たちよりも明らかに高い演奏力を持っている事は必要ですが、だからと言って、演奏家として一本立ちできるほどの演奏力が必要なのかと言うと…対象とする生徒次第とも言えます。
むしろ“演奏力”よりも重要なのは“教授力”かもしれません。極端な話“教授力”が高ければ“演奏力”が低くても良いかもしれません。たとえば、オーボエ奏者がフルートを教えるとか、ピアニストがソプラノ歌手を教えるとかだって“教授力”さえあれば十分に可能だし、良い学習成果をあげられるかもしれません。
習い事の先生の場合“教授力”に必要なのは、良い演奏とダメな演奏を見抜く“審美眼”と、演奏現場で何が行われているかを推察できる“優れた耳”と、それらの改善策を生徒に的確に伝えられる“豊かな語彙”だと思います。
それに加えて、生徒が子どもの場合は“保育能力”も“教授力”に加わるでしょう。
生徒がオトナの場合は…先生の“教授力”が多少低くても、生徒自身が自分で勝手に学んでいく部分もあるので、子どもの生徒とは先生に求めるものが変わります。色々と違うのだけれど、一番違うのは、オトナの生徒は、先生に“ブランド”を求める事かな?
オトナって、子どもと違って見栄っ張りですからね。子どもは自分の先生を無条件に愛してくれますが、一部のオトナの生徒にとっては、習い事の先生ってのは、自分を飾るアイテムの一つですから、同じ習うなら、自慢できる立派な先生の方がいいんです。つまり“ブランド”力の高い先生がいいですね。例えば、有名な大学を卒業しているとか、演奏家として活躍しているとか…CDデビューしている先生なんていいですね。現役音大教授とかだったら最高かもしれません。そういう先生なら、多少、謝礼がお高くてもいいんです。そんなにお高い謝礼を支払いながら、ちゃんとした先生に師事している自分が可愛いんです。
でも、その一方で、今書いた事とは矛盾するけれど、やっぱり習い事の謝礼は、リーズナブルな方がオトナには受けます。人って、自分の子どもの習い事には、いくらでもお金をかけられても、自分の事になると、急に財布のヒモが固くなるものです。ですから本音は「破格に安い謝礼で、見栄が張れるほど立派な先生から習いたい」なんだと思います。いやあ、実に自分勝手な条件です。
謝礼の話をすると、世の中における仕事の対価と言うのは、受容と供給のバランスの中で決まるのですが、習い事の先生ってのは、音大卒業者の就職難も相まって、先生自体が供給過多なので、本来の適正価格よりも、かなり安いんだろうと思います。
とにかく、大学出たての、親のすねかじりのお嬢さん先生たちが、子どもの小遣いに毛の生えた程度の安価な謝礼で音楽教室を開業するので、街のピアノ教室の謝礼一般が、安価な方向に傾かざるを得ません。牛丼屋と一緒で、ピアノ教室も価格勝負の部分がありますし、ピアノ教室の謝礼が音楽教室一般の謝礼のベースになるでしょうから、謝礼に関して言うと、すでに十分安いのですから、これ以上の安さを求めても仕方ないのだろうと思います。
結論 習い事における、良い先生の条件とは…“人格”“演奏力”“教授力”の3つを兼ね備えた先生であり、できれば皆に自慢できるようなブランドの先生の方が良くて、なおかつ謝礼も安けりゃ、なお良し…って事になります…かな(笑)
蛇足 家の近所ってのも、良い先生の条件の一つだね。いくら良い先生でも、遠方の先生には習いきれるものではありません。私の場合『自宅から1時間以内で通える』ってのが、条件の一つかな? 以前、片道2時間程度かかる先生のところで、1レッスン2時間程度のレッスンを受けていた事がありますか、行きに2時間、レッスンで2時間、帰りに2時間ってわけで、計6時間。休日が丸々つぶれていましたが…さすがにこんなに強行軍では、習い続けることができませんでした。
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コメント
いい先生ね〜、そうだなぁ。自慢できてリーズナブル?そうだよね、それは最高だけど、自慢できる先生は安価な訳ないしね。まぁ、満足できるレッスン内容とあとは惚れ込むくらい魅力ある先生の人格と、これまた、その先生のこえになりたい!と思うくらいの魅力的な声の持ち主っことかな?ま、同じ声なら2人といらないのだろうけど、その生徒の声の魅力を最大限に引き上げる力のある先生はいいよね?この声は好き、これは違う、ってYouTubeみて思うけど、その声に近くなりたいもんなぁ〜。できれば声楽のテクニックにおいて具体的に示してほしいよね。大概、声楽のレッスンは曖昧な言葉が多く、え?それって、結局、どこをどうするの?って事がかなりあるからね。見えない部分なだけにさ。ただ、あまりにわかりやすく説明して、それをサクサクと生徒ができてしまうのも、また先生にとったらどうなのかしらね、、声楽って、例えば音大入学に備えて何年も勉強してきた人であっても、人により才能あればあっという間に1年くらいで仕上げた人が芸大とかポン!と入れちゃった人とかいて、才能あるなしでかなりある意味シビアな世界。、、そこが幼少からよーいドンの楽器とは違うもんね。美声に生まれたならそれは神様の贈り物!声楽は人にオーラのような魅力もあるといい!それもある意味、才能の一つで雰囲気も大事だから、そんなことも先生から学べたらいいよねー!!
アデーレさん
まあ、声楽に限らず、器楽だってそうですが、本当にすごい人は、音大を出ていなかったりします。と言うよりも、音大に入学する年齢になる前にデビューしちゃうので、音大で学ぶ必要がない…というところが本当かもしれません。努力よりも才能、という世界なんだなあって思います。
>大概、声楽のレッスンは曖昧な言葉が多く、え?それって、結局、どこをどうするの?って事がかなりあるからね
私はそういうモノをひっくるめて“オカルト”と呼んでます。声楽には、どうしてもオカルトがあるんですね。では、オカルトを止めて、それらを科学的(医学的)に説明すれば、きちんと伝わるのかと言うと、それもまた違うです。またオカルトは、未習得の人間には「なんですか? それ?」という表現ですが、実際に出来るようになると「分かる~、それそれ!」って感じなので、あながち間違っているわけでもないんだなあって思います。オカルトが通じないので、聴き手がまだその領域に達していていなから…と私は思ってます。
あと、声楽の場合は、持って生まれた楽器の種類とか良し悪しって、すごく大きいと思います。私はキング先生にバリトン転向を命ぜられたけれど、バリトンに転向していたら、私の声、どうなっていたかな?って、時々思います。元々、薄っぺらで甲高い声なのに、むりやり深みのある低い声を出そうとして、ノドを痛めてしまったのではないかって思います。ま、私の声は、ごくごくありふれたテノールの声であって、それ以上でもなければ、それ以下でもなく、単純に声にテクニックが追いついていないだけの未熟なアマチュア歌手だと思ってます。
色々とテクニックを身につけて、自分の声をしっかりとコントロールして歌えるようになりたいです。そういう点では、テクニックをしっかり教えてくれるY先生は、今の私にはちょうど良い先生なんだと思います。
http://blog.tatsuru.com/2011/09/02_1151.php
> 第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。
> 第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
> 第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。
> この三つの条件をひとことで言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。数値で表せる成績や点数などの問題ではなく、たったこれだけの言葉。これがわたしの考える「学力」です。このセンテンスを素直に、はっきりと口に出せる人は、もうその段階で「学力のある人」です。
内田樹の師匠としているレヴィナスへの熱い思いを書き綴った文章は大好きです。
この部分も彼のレヴィナスとの出会いを書いているような感じがします。
この文章を中学生で読んで、どこまでわかるか、そういう出会いがあるかは疑問というか、かなり難しいかとおもいます。こちらは中学校教師に内申書でよけいなこと書かれないように本心は一切出さずなんとか逃げ切った中学生時代でした。
人生いろいろです。
tetsuさん
良い生徒の条件…ってヤツでしょうか、まさに正鵠を得ていると思います。私もそうでありたいです。でも…生意気なんだよなぁ(笑)。
結局、良い生徒でないと良い師とは出会えず、良い師の元には良い生徒ばかりが集う…って感じになるんでしょうね。ですから、見知らぬ人の発表会を見に行くのは、そこの生徒さんたちを通じて、そこの先生を見に行くって事になります。だから結構面白いんです。