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ヴィブラートについて考えた その2 合唱でのヴィブラートの是非

 昨日の記事で、私なりにヴィブラートを三つに分けてみました。そこで次に考えてみたいのは、よく言われる『合唱ではヴィブラートをつけて歌わないのが原則』という命題。よくネットで合唱関係の話を読んでいると「ウチの団にいる迷惑な奴」みたいな感じで必ず出てくるのが「ヴィブラート付けて歌う人」の事。ま、分からんでもないわな。この件に関しては、こちらの記事にCeciliaさんがトラックバックをつけてくださった記事がなかなか興味深いので、よかったらどうぞ。

 この場合のヴィブラートは、おそらくヴィブラートBのこと。構成人数が少なめの小さな合唱団だと、ヴィブラートCも問題になるかもしれない。BとかCは、クラシック系なら、合唱はもちろん独唱だってダメでしょ。Bはポピュラー系の独唱ならアリでしょうが、やはり合唱ではダメかな?

 そういう意味では『合唱ではヴィブラートをつけて歌わないのが原則』ってのに同意します。つまり『合唱ではヴィブラートBをつけて歌わないのが原則』『合唱ではヴィブラートCをつけて歌わないのが原則』ならOKってことね。

 でも『合唱ではヴィブラートAをつけて歌わないのが原則』ってなると、???って感じ。なぜ???なのかと言うと、“ベルカント唱法”における理想の発声ではヴィブラートAは必須だし、世界的にはクラシック系は、独唱であれ合唱であれ“ベルカント唱法”で歌うのが現在の主流。つまり上手い合唱団の歌唱にはヴィブラートAは付いているのが当たり前であって、ヴィブラートAが無い合唱なんて考えられないわけよ。それなのに『合唱ではヴィブラートAをつけて歌わないのが原則』って言われると、頭の中が混乱しちゃうわけよ、私は。

 実際、どこでもいいや、手元にあるクラシック系の合唱の入っているCD(もちろん外国の一流どころの合唱団が歌っている奴)を聞いてみてくだしゃんせ。第九だろうが、色々な作曲家のレクイエムだろうが、オペラ合唱曲集でも、マーラーの合唱付き交響曲であっても、大抵の合唱団の歌声にはヴィブラートAが必ずついている。ヴィブラートAのついていない歌い方、つまり、ノン・ヴィブラート奏法を用いている合唱団って、実にほんのわずか、中世ルネサンス系の音楽をやっているところ以外は皆無だと思います。あ、小編成のメサイアもノン・ヴィブラート系が最近はあるな。

 それはさておき…だから、少年合唱って貴重なんでしょ。少年の歌声には基本的にはヴィブラートは、AであれBであれ付きません。訓練された大人の声だと必須のヴィブラートが、身体が未熟で訓練が大人ほど行き届いていない少年だと、まだ身についていないわけで、そこのあやうい未完成なところが少年合唱の魅力のひとつだしね。それに少年合唱のレパートリーは中世ルネサッス音楽だったり、その影響下にある音楽だったりするわけだから、少年合唱はノン・ヴィブラート奏法でOKなんだと思います。

 つまり、ヴィブラートA無しの合唱は特殊な合唱であって、ごく普通の合唱ではヴィブラートAはあって当たり前だと思います。だとすると『合唱ではヴィブラートAをつけて歌わないのが原則』というのは、正しい正しくないではなく、命題として成り立たなくなるわけですよ。

 もちろん、何事も過度であってはいけないわけで、コーラスメンは全体の響きを壊すほどのヴィブラートを付けて歌うのが御法度なのは自明の理です。

 さてさて、翻って、私たちの状況を見回すと、日本の合唱界の状況って、ちょっと世界の主流とは違うかなあ…と思います。

 日本じゃあ、少年合唱ってほとんど無いし、上手いと言われる合唱団って、ノン・ヴィブラート奏法のような歌い方だし。コンクールなんかだと、ヴィブラートを付けて歌うと、かなり上手でも不利だと聞きます、厳しいところだとヴィブラートのせいで落選することもあるとか…。そんなに単一な響きが欲しければ、合唱ではなく重唱で歌うとか、いっそ合唱やめて器楽演奏にしちゃえばいいのに…。音楽における合唱の役割って“群衆の声”でしょ。老若男女の色々な声が合わさって始めて合唱と言えると私は思うんだよね。

 日本って特殊なんだねえ。少なくとも、日本の合唱界って、世界の声楽界とは、遠いところにいるんだろうねえ。もしかすると、日本の合唱って、クラシックでもなければ、声楽でもないのではないか…と時々思うことがあります。とりわけ日本語歌唱の合唱曲は、世界のソレとは、かなり違うものではないかなあと思うことがあります。

閑話休題

 伝聞で申し訳ないのですが、あちら[ヨーロッバ]では専門教育としての声楽の初期段階で「君は合唱を学びなさい」「君は独唱を学びなさい」って感じで分けられ、それぞれ別内容の教育を受けていくそうなので、独唱を学んだ人が合唱をやるということは皆無だと、留学帰りの人から聞いたことがあります。ま、つまり、独唱を学んだ人が合唱をやる、あるいは合唱をやっている人が合唱を究めるために独唱の勉強するという、私たちの現状自体がこれまた世界の主流と違うってことでしょうね。

話を戻します

 2002年に情報科学技術フォーラムというところで発表された、東京大学の森村久美子さんの論文がネットで読めます[ちなみにPDFファイルです]。タイトルは「合唱におけるノンビブラート唱法の効果と評価」です。なかなか興味深い論文です。この論文をふまえて言うと、結局、合唱におけるヴィブラートの有無は、合唱に求めるものの違い、つまり合唱の好みの問題ってことかなあと、私は思います。

 だから、ヴィブラート付き合唱を好まない日本人は、その元となる“ベルカント唱法”を好まないのかなあ…と思ったりします。オペラ大好き人間の私にとっては、少し悲しくなります。

 だからかな? 世界中で好まれているオペラが、日本では一向に普及しないのも。ああ、無理ない話だな。

 こういう事を考えて行くと、パバロッティが死んだ時も、多くの国の新聞でその記事が一面トップだったところはたくさんあったのに、日本じゃ、たいした話題にもならなかったのも、当たり前っちゃあ、当たり前って結論に達するね、ふう。

コメント

  1. モニターレッド より:

    はじめまして。
    オペラやコンサートなどのソロ活動はもちろん、合唱指導をしている声楽家です。
    長いこと合唱指導や合唱指揮に携わっていると、いわゆる合唱界の音楽と我々声楽家が学んできた音楽との違いを目の当たりにします。すとん様の仰るヴィブラート問題はまさにその内のひとつで、私と同じことを感じてる方がいらっしゃるのだとブログを興味深く拝見させていただきました。

    さて、すとん様が提起されているある文章に目が釘付けになりました。
    私は合唱は西洋音楽と思っているので、合唱団の皆様にはただ単純に西洋音楽の手法を習得していただき、合唱曲を演奏していただけるよう指導に心がけています。しかし、声楽的なテクニックを指導をせず、声楽家が絶対にやることのない演奏方法で音楽を創造してしまうと、これは合唱らしいモノに変貌してしまいます。合唱(西洋音楽)の形をしながら合唱(西洋音楽)ではないという、西洋音楽のジャンルには属さない日本で独自に生み出された音楽とでもいいましょうか。もし、この状況がいわゆる合唱界で恒常化されているとしたら、日本の合唱は異文化と捉えるべきかもしれません。
    以上、すとん様の「日本の合唱って、クラシックでもなければ、声楽でもないのではないか…」に同意しコメントに至った次第です。

  2. すとん より:

    モニターレッドさん、いらっしゃいませ。

     随分と古い記事にコメントいただき感謝です。記事を読み返さなければ、自分が何を書いていたかも思い出せないほどでした(汗)。

     日本の合唱だって、やはり合唱である事は間違いありません。ただし、いわゆる西洋音楽における合唱と全く同じものかというと、私は首を傾げざるを得ません。

     ラーメンとかカレーライスなども、元々は中華料理だったり、インド料理(一説にはイギリス料理)だったりするわけだけれど、今の日本の巷にあふれるラーメンやカレーは、オリジナルとはかなり違っているわけで、最近では日本のラーメンやカレーを“日式ラーメン”とか“日式カレー”と呼んで、本来のラーメンやカレーとは区別する方向にあります。

     日本は、異国のモノを取り入れた後、自分たち流に上手にアレンジして、オリジナルとは別の、もっと良い物に進化改良させてしまうという民族性があるわけです。

     合唱も、もしかすると、ラーメンやカレーと同じ事になっているのではないでしょうか?

     もはや、日本の合唱は、日式合唱、あるいは邦楽風味の合唱になってしまったのかもしれません。いわゆる、ローカライズです。

     これらの日式合唱は、我々日本人の耳に心地よく、歌うに優しいモノですが、教会音楽や劇場音楽をベースにした西洋音楽における合唱とは、違った方向の音楽に変わってしまった…と言えると、私は思うわけです。

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