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死ぬのって怖くない?[2010年10月第5週・通算39週]

体重:96.6kg[+-0.0kg:-12.3kg]
体脂肪率:28.8%[+0.4%:-4.0%]
BMI:30.5[+-0.0:-4.0]
体脂肪質量:27.8kg[+0.4kg:-9.3kg]
腹囲:95.0cm[+0.5cm:-9.3cm]
     [先週との差:2010年当初との差]

 本日は我が歌劇団のデビュー歌唱です。皆さんがこの記事を読んでいる頃、私は何をしているでしょうか? 今日の演奏の様子などは、水曜日頃にアップする予定ですので、しばらくお待ちください。

 さて、おたびダイエット21週目です。毎週言ってますが、完全に停滞期です。ああ、果たして、これで私は目標を達成できるのでしょうか? ちなみに、目標と言うのは、年内に95Kgを切ることです。それができないと、私は来年の声楽の発表会に出られないかもしれない(涙)。ま、そうなったら、そうなったで、あきらめるしかないけれどね。

 発表会なんてものは、出たくないのに無理やり丸め込まれて(笑)出る人も大勢いるのに、出たくて歌いたくて、でも出ちゃダメってのも、世の中の矛盾というか、まあ、世間なんてそんなもんだよね。

 しかし、あと二カ月で2Kgもやせるのか…。来年の声楽発表会はマジで無理かも。

 さてさて…今週のエッセイです。

 人は誰でも死にます。有史以来、死なずに済んだ人はいません。おそらく、これからも多くの人が死んでいくことでしょう。

 死は悲しいものです。とりわけ、残されたものにとっては、大きな喪失感を伴う悲しみです。ある人の死によって、人生が変わってしまう人もいるでしょう。“変わる”という表現が大袈裟であっても、人は多かれ少なかれ、身近な人の死に影響を受けないわけにはいきません。

 それゆえ、死というのは、残された者にとっても、社会的な意味においても、非常に大きな意味を持つ事件であり、それゆえに、人は死を恐れ、死を忌み嫌うわけです。

 実際、身近な人を失う悲しみは、何ものにも変えがたいほどの、強いストレスであり、避けられるものなら避け続けていたいものです。

 ところで皆さんは、死を迎える当人にとって“死ぬ”と言う事件が、どんなモノなのか、考えたことはありますか? つまり「身近な者の死」ではなく「自分が死ぬ」という事を想像した事はありますか? 死んでしまう、まさにその時の事を、考えた事はありますか?

 今回は「自分の死」について考えてみたいと思います。ただし、あくまで物理的&精神的な死について考えるに留めておきます。本来ならば、死というのは、宗教と結びつけて考えるべきだし、宗教の効用の一つが「死を受け入れる」事であるし、また死後の世界について思いを馳せるのも、宗教分野の話です。ただ、宗教分野の話は、科学的な再現が難しいですし、演繹的あるいは帰納的な思弁も難しく、結局“信じる/信じない”の世界の話になってしまい、それは“信じない”人にとっては、全くの無縁な世界、あるいは理解不能な世界になってしまいます。ですので、宗教分野の話は、稿を改めて書くことにし、今回は、死ぬその時までの話とし、死後の世界の話には踏み込まないことにします。

 さて、話は戻しますが、皆さんは、ご自分の“死”について考えた事はありますか? それとも、考えたことはありませんか? まさか「自分は死なない」なんて考えてますか? まさか??

 私はオッサンです。すでに、身内の人間も身近な友人たちも、何人も亡くしています。死を見送る立場にも何度かなりました。しかし、まだ、私自身は死んでいません。

 当たり前ですね。死んだ人間がブログを書いているわけないですから(笑)。

 でも、そんな私も遠からず、死にます。これは、人としての宿命です。その日が明日なのか、明後日なのか、一週間後なのか、一カ月後なのか、一年後なのか、十年後なのか、二十年後、三十年後、五十年後、百年後…? ま、少なくとも、百年後はないですね。その前に確実に死んでいます。おそらく五十年後だって生きてはいないでしょう。普通に考えて、そんなに長生きできるはずないですからね。

 私の死の原因が、いわゆる自然死であるなら、日本人の平均余命から考えて、残り時間は、せいぜい二十年前後ってところでしょう。良くて三十年ぐらいかな。死因が病死であるなら、ひとまず現在は健康なので、少なくとも一年程度の余命を考えても良いでしょう。死因が事故死ならば、それこそ「明日の命もしれぬ身」ですね。

 つまり、なんであれ、私は、それほど遠くない未来、確実に死にます。

 それを改めて確認した時に「死ぬって、どんな感じだろ」って思いました。事故などで大怪我を負って死ぬなら、怪我の痛みの中で死ぬのでしょう。病気で死ぬなら、病気の苦しみの中で死ぬのでしょう。一方、即死ならば、痛みを感じている時間すらないかもしれません。植物人間になっていたら、自分が死んでしまう事すら気付かないかもしれません。

 純粋に“死”の瞬間を考えてみるならば、それは単に“意識が無くなる事”です。そして、そこで失った意識は二度と戻る事はありません。いわば、精神の死です。人は精神の死を迎えたあと、しばらくの時間をおいて、やがて身体の活動を止めてしまいます。これが肉体の死です。この二つの時間がほとんど同時に起これば“即死”であり、医学的に切り離してしまうと“植物状態”って奴なんだろうと思います。

 私は、私という存在は“精神的な存在”だと思ってます。“私という精神”が“私の肉体”に宿っているのが、今の私だと思ってます。…これはSF的な発想ですが“私という精神”が別の肉体に宿ったとしても、それはきっと“私”だと思います。しかし“私の肉体”に“別の精神”が入り込んだならば、それは私の姿をしているけれど、おそらく“私”ではない、別の人間だろうと考えます。つまり、私の実存は、その肉体ではなく“精神”にあると思います。

 ならば“精神の死”が“私の死”であり、それは“意識を失い、二度と戻らない事”が“私の死”です。
 
 
 実は私、今までに数回、意識を失った事があります。

 私は若い時、熱心に柔道に取り組んでいました。ですから、試合で首を絞められて“落ちた”事など、何度もありますが、あの“落ちる”って、まさに意識を失う事、つまり“意識喪失”そのものですね。もちろん、首を絞められて意識喪失しても、介抱されて、数分後に意識を回復しましたが、もしもあのまま意識が回復しなかったなら、私は絞殺死を迎えていたわけです。

 私には喘息の持病があります。ここ、数年は発作も起こらずに元気一杯ですが、やはり発作が激しかった時期があります。その頃は、喘息の発作がひどくて咳き込むばかりで、息を吸う暇がなく、咳ばかりを連続的に繰り返して、酸欠になって、そのまま意識が遠のいてしまい、気絶してしまった事があります。これもまた意識喪失です。しかし、意識を失って、数分後に不思議と意識を取り戻せたわけですが、これも意識が戻らなければ、窒息死になっていたはずです。

 喘息って、意識があると発作で苦しいのですが、意識がなくなると、喘息発作も治まるんですね、不思議です。

 温泉に入っていた時に、急に気分が悪くなって、そのまま風呂場で倒れて、意識を失った事もあります。これはおそらく、一時的な脳貧血、あるいは軽度の脳梗塞、あるいは心臓マヒや不整脈だったのだと思いますが、血流が回復しなかったなら、そのまま脳に酸素が行き届かずに、酸欠状態となり死んでいた事でしょう。

 その他にも、部分麻酔で手術を受けていたはずなのに、心臓が止まってしまって意識を失ってしまった事がありますし、病院で点滴された薬が合わなくて、気分が悪くなって倒れて意識を失った事もあります。

 ざっと思い出すだけでも、私でも、これくらいの回数は、意識を失ってますね。これらのケースでは、どれも、しばらくしたら、意識が回復してますから、今、こうやって生きていられるわけですが、もしも、あの時に意識を失ったままだったなら、私はすでに死んでいるわけです。

 割と平凡な人生を送っている私ですから、この程度の回数の意識喪失があります。皆さんも、今までの人生の中で、数回程度の意識喪失なら、あるのではありませんか?

 これらの事件(?)を今思い返すと「ああ、私は数回、死の淵にまで行ったんだな。三途の川の手前まで行ったんだな。たまたま、戻ってこれただけで、戻ってこれなければ、死んでいたな」って思います。

 柔道で首を絞められたまま放置されていたら…死んでいます。

 喘息で倒れた時は…カラダにリセットがかかって再起動できたから良かったものの、再起動のスイッチが入らなかったら…死んでいます。

 温泉で倒れた時も、再起動のスイッチが入らなければ…やはり死んでいました。

 病院で倒れた時は…一体、何がどうなったんでしょうね。でも、倒れた場所が病院だったら命拾いしたと言えるかな?

 そう考えると、私って、それらの時に死んでいても、ちっとも不思議じゃないです。いや、私が今、生きて、こうしてブログを書いている事の方が不思議なくらいだし、本来なら、すでに私は“死んでいる人”であってもおかしくないです。

 たまたま“戻ってこられた”から生きているわけで、あのまま意識が戻らなかったら、私はあの時に死んでいました。

 もしも、あの意識喪失の瞬間が私の死の瞬間であったなら……死って、怖くないな……そう思います。だって、意識を失う瞬間って、全然怖くなかったもの。痛くもないし、苦しくもない。何を考える暇もなく、ただ単純に意識が薄れてフェードアウトしていくだけでした。もちろん、その直前までは、苦しかったり痛かったり不安だったりしたんだけれど、実際に意識がフェードアウトするその時は、実に安らかな気分で意識が闇の中に落ちていきました。

 「覚醒(=“精神的な私”がいる状態)」から「意識喪失(=“精神的な私”がそこにいない状態)」に移行するのが“死”なら、それは特に恐れるに足らないものだと、今の私はそう思います。
 
 
 自分が死ぬのは怖くない、むしろ他人が死ぬのを見送る方がよっぽどツライのです。
 
 
 自分が死ぬ事自体は、怖くないにしても、問題は、今回、触れなかった宗教分野の部分ですね。死後の世界の話。こっちの方には、恐れはあります。だから私は「死ぬことは怖くないけれど、死んだあとの事は、ちょっとコワイ」です。

 でも、それでも人はいつか死ぬんです。残された人の事を考えると、自分が死んだ後の事、死んでいく最中の事、しっかり考えて、言い残しておかないといけない事は、しっかりと遺言しておかないといけないなあって思います。

 それと、いずれ死んでしまうなら、今を大事に生きていきたいと思いました。今、出来ることを、常に精一杯やって、死の瞬間に、後悔少なくして死んでいきたいと思いました。

コメント

  1. ダリア より:

    私は、死ぬことは別にこわくもなんともない、普通に生き物の通る道なので、ちゃんと生まれてきた自分にもちゃんと死ぬことはできると思いますが、その前の数年だか数日だかにわたる苦しかったり痛かったりつらかったりする時間がいやで、それが恐怖ですね。まあきっとどなたもそうだと思います。生き残るほうとして、死に臨む人のその時間の経過をまのあたりに見ているので、わが身のときに置き換えて恐れを感じるのだと思います。
    自分の身の回りをいつもきれいスッキリにして、時間を大切に生きて、「死ですか、明日でもいつでもどうぞ」、と言えるように生きたいです。・・・・・・・・が、それがなんと非常に難しいことか。今、身の回りをみまわして、わーん、このままじゃ死ねないよ、とつぶやいております。

  2. ミルキー より:

    人生って長いようで短いですよね。
    自分がどのような最期を迎えるのかわかりません。
    私は今40代半ば過ぎですが悔いを残したくないので時間を大切にしたいし、もう人生の折り返しに入ったので色々勉強して視野を広げているところです。
    いつかは死ぬとわかっていても時々深く考えてしまいますが、今日という日は戻らないのだから1日1日を大切に過ごしたいですね。

  3. すとん より:

    >ダリアさん

     そうですね、長患いは色々な意味でツライですね。ピンピンコロリがいいです。でも、今の日本の統計だと、どなたも10年くらいは患うそうですね。ツライ現実だけれど、ピンピンコロリがやっぱりいいな。おっしゃる通り、死ぬ事よりもその前の段階の方がシンドそう。でも、自分がいざ、そういう立場になったら、きっと、そうとばかりも言ってられないのだろうなあ…。ほんと、生きるって、色々な意味で大変なんだなあ。

    >「死ですか、明日でもいつでもどうぞ」、と言えるように生きたいです。

     いや、ホント、そうですね。そういう潔い生き方を私もしたいです。でも現実は、非常に難しいですね。

  4. すとん より:

    >ミルキーさん

    >今日という日は戻らないのだから1日1日を大切に過ごしたいですね。

     結局、死について考える事は、生について考える事と同義なんだと思います。死という永遠の喪失について考えるから、生という有限の存在の大切さが身にしみるのだと思います。

     記事にも書きましたが、私は今のこの人生をしっかりとたっぷりと生きていきたいです。そして、死の瞬間に、なるべく後悔せずに済むように、やれることをきちんとやってから、その日を迎えたいと思ってます。

    >人生って長いようで短いですよね。

     いや、ほんと、そうですね。今までの自分の人生を振り返っても、長いはずなのに、一瞬のようにも感じられます。長いようで短く、短いようでそれなりの長さがある…。それは、今までそうですが、これからの人生についても同じ事が言えると思います。

     可能なら、充実した老年ライフを送りたいものです。

  5. BEE より:

    明日死ぬかのごとく振る舞えと言う言葉を残したのは誰でしたっけ?
    いつも胸に刻んではいるのですが(^_^;)

  6. ダリア より:

    連続ですみません。充実した老年ライフ驀進中のすとんさんにあやかりたいです。

    織田信長、って人が、死の直前に「人生なんて夢幻みたいなもんさ。生き物が死ぬのは当たり前」というような内容を謡われたそうですが、きっとそのとき、迫ってくる炎にあおられながらも彼なりに、「ああ自分は死ぬんだなあ、今まで充実した人生を送ったなあ、もうちょっと生きたかったけど、ま、しょうがないか」という妙な感慨があったのではないでしょうか。何をするでもなくダラダラと時間を重ねて、「命長ければ恥多」とツイットするのと、どっちをとるか、ですがこればかりは自分じゃ決められませんね。
    それを決められる人が決めることを「自決」、というのでしょうか。
    うーん・・・死を語ることは生きてるものにはムズカシイです。ちなみに今のところ無宗教なんです。

  7. すとん より:

    >BEEさん

     今日は感謝です。

    >明日死ぬかのごとく振る舞えと言う言葉を残したのは誰でしたっけ? 

     …ごめんなさい、分かんないです。誰だっけ? 知っている方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください

     でも、男たるもの(女性だって同じでしょうが)、何時死ぬかは分からないのだから、毎日毎日を真剣に悔いのないように生きることは大切ですね。なかなかできませんが…。

     でも、今日の私は今、死んでもいいやっと思ってますよ、ホント。

     いや~、大ホールでの合唱をバックにソロ歌唱、もう、聞いている人はともかく、歌っている本人は、感動です。キング先生からも「墓場に持っていく、良い思い出ができましたね」と言われましたが、ほんと、その通りです。私はきっと、死ぬまで「あの時、私は大ホールで歌ってねえ…」と言い続けるんだろうなあ…。

     今日の事は、一生、忘れないぞ。

  8. すとん より:

    >ダリアさん

     はい、老年ライフを邁進中の私です。幸せいっぱいですよ。

     「命短ければ恥多し」ではないですが、細く短い人生よりも、たとえ短くても太く生きていきたいと思っている私です。でも、できれば「太くて長い人生」が一番うれしいです。

     死を語るのは、おっしゃるとおり、難しいと私も思います。でも、今を一生懸命生きることで、おのずと死というものを見えてくる…そんな気がするんです。と言うのも、死と生は表裏一体で、実は同じものなのではないかと思うからです。

     ま、とにかく、今は生きているのですが、一生懸命、まじめに楽しく精一杯、そして思いっきり生きていきたいと願っています。

     お互い、エンジンフル回転で、楽しく生きていきましょうよ。

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