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“才能と努力”について考えてみた[2010年9月第1週・通算31週]

体重:96.8kg[+1.2kg:-11.7kg]
体脂肪率:28.4%[-0.1%:-4.0%]
BMI:30.6[+0.4:-3.9]
体脂肪質量:27.5kg[+0.3kg:-8.2kg]
腹囲:94.0cm[+0.2cm:-11.3cm]
     [先週との差:2010年当初との差]

 おたびダイエット13週目…のはずですが、やっちまいました。いわゆる“リバウンド”って奴ですね。ま、仕方ないです。これから、真剣にまたダイエットに取り組む事にします。とにかく、年内に95.0kgを下回らないと、オペラアリアを歌わせてもらえませんからね。こりゃ、真剣にならざるをえません。しかし、ここからの2kgが大変なんだよねえ…。頑張んないと…。

 さて、今週のエッセイです。私はしばしば考える事があります。それは「努力って、果たして報われるものなのか?」と言うことです。

 私が子どもの頃は、小学校の校門には、二宮金次郎さんの銅像があって、そこを通る小学生たちに「僕のように努力を重ねていけば、エラい人になれるよ」と無言のプレッシューを与えていたものでした。また、校長先生は朝礼でしばしば「努力は何ものにも勝る大切な目標である」とか「努力をすれば夢は叶う」とか「○○ができないのは努力不足だからだ」とか、「努力に優る天才はいない」とかそんな話をよくされていました。「努力」「根性」「勤勉」は20世紀後半の日本を象徴するような言葉でした。そう言えば「Oh! モーレツ!」とか「24時間、働けますか~」なんてCMもありましたね。

 努力すれば出来ない事など何も無い…と良いですね。

 オッサンになって分かって来た事があります。それは、世の中の“努力とその結果のパターン”には、三つの組み合わせしかないということです。それは…

1)「努力を積み重ねた結果、出来るようになった」
 これが王道であり、すべてはこうあるべきだと思います。私の場合、声楽とかフルートとかが、この道で頑張っている最中です。でも…

2)「特に努力しなくても、すぐに出来るようになった」あるいは「ちょっと頑張ってみたら出来ちゃった」とか「元々出来る」とか「最初から出来る」とか、その手の奴。
 別に天才でなくても、そういう経験は、どなたにでもあるでしょう。案外、私たちが手にしたモノって、これが多いんじゃないでしょうか? だって、努力を積み重ねるのって大変だもん。たくさん努力しなければ手に入らないなら、多くの人が諦めてますって(笑)。私の場合、パソコン/ブログ関係の諸能力がここに相当するかな?

3)「努力したけれど、結局モノにならなかった」
 やる気はあったけれど能力が無かった/足りなかったってパターンですね。私の場合、ピアノがそうです。ヴァイオリンはここになってしまうかもしれません(涙)。

 私は別段“努力”を否定するつもりはないです。「玉磨かざれば光なし」とか「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」とか言うじゃないですか。だから、人生では“努力”しないとダメだと思います。でも、その“努力”って、いつも報われているかと言うと…???なんですよ。

 結局、なぜ、こんなような三つのパターンに分かれてしまうのかと言うと、努力以外の要因の方が、努力よりも私たちの人生に与える影響力が大きいため、いくら努力しても、うまくいかない事が多々あるからです。で、その“努力よりも影響力が大きいもの”の一つに、元々持っている“才能”って奴があります。その才能次第で、せっかくの努力が実を結んだり、徒労に終わったりするのだと思います。

 元々、才能が豊かなら、大した努力無しで出来ちゃう事も、才能が足りなければ、その不足を補うべく、多くの努力が必要でしょう。元々の才能が無ければ、どれだけ努力をしてもモノにならない事すらあります。そういう意味では、努力と才能のバランスシートみたいなものが人生には存在しているのかもしれません。

 つまり、才能がなければ、努力をしても、モノにならず、結局「努力が報われない」結果になりがちなんです。これは「ゼロに何をかけても、答えはゼロ」と言うのに似ているかもしれません。…これって、結構悲しいです。私も今まで、そういう悲しい目に何度も遭遇してきました。なんともやりきれない思いで、心が塞がれます。

 結局「まずは才能ありき」なんだと思います。(どの程度であろうと)才能があった上で(その才能の)足りない分を努力で補わないと、モノにならないのです。

 私の人生を振り返ってみると、徒労に終わった努力が多いです。身の程知らずと言うか、自分を知らないと言うか、才能が徹底的に無い奴と言うべきか…、人生「下手の横好き」の連続ですし「ああ、報われない努力だったなあ…」と涙交じりに悲しい溜め息ばかりをついてきました。

 でも、なぜ、人は努力が報われないと悲しくなるのでしょうか?

 それはたぶん、無意識のうちに自分で他人を比べたり、身近な人に他人と比較されてダメ出しされるからじゃないかな?

 「○○ちゃんはあんなにピアノが上手なのに、あなたのピアノはまるでダメ。もっともっと練習しなさい」と子どもの頃に親に言われた事ありませんか? その○○ちゃんが、本当に必死になって生活を犠牲にするほどピアノの練習にのめり込んでいるなら、子ども心にも納得するでしょうが、その○○ちゃんが普通の子で、あなたと、別にとりたてて変わらぬ生活をおくっていたとしたら「○○ちゃんはあんなに~」と言われると、なんとも、やるせない気持ちになりますよね。「あたし、別にピアノ、怠けているわけじゃないけど…」と心の中でつぶやいた挙句、ピアノがイヤになって、辞めちゃうかもしれない。

 たぶん、元々の才能に差があって、あなたよりも○○ちゃんの方がピアノの才能が豊かにあったんでしょうね。だから、同じような生活をし、同じくらいの練習でも、○○ちゃんはピアノがグングン上達し、あなたはほとんど進まなかった、それだけです。

 才能の違いって大きいですね。努力で簡単に埋められるものではありません。ましてや、その才能の差が決定的なほど違っていたら…考えるのも馬鹿馬鹿しくなりますね。さらに、その豊かな才能の持ち主が努力家だったら…。

 “努力する天才”は最強ですよ。もう誰も敵いません。たとえあなたが努力を惜しまない人、それこそ“努力の天才”であっても、“努力する天才”には絶対に敵いません。

 さらに都合の悪い事に、この“努力する天才”は、しばしば、無邪気に何の苦もなくサラっと努力をしちゃったりするんですよ。

 ああ、まるで「ガラスの仮面」じゃん。マヤ対亜弓さん、あの図式ですよ。亜弓さんは天才少女だけれど、彼女の天才は演劇分野というよりも、センスと努力の部分の天才でしょ。上手な人々の演技をよく見て学び、人知れず努力を重ねて、人々からの栄誉を勝ち取るタイプの天才。でも、自分の中にホンモノの演劇の才能を有する天才であるマヤには敵いません、やられっぱなしです。私は、あのマンガを読むたび「亜弓さん可哀相…」と同情しちゃいます。ああ、亜弓さん、痛々しい…。

 話を戻しましょう。確かに、努力は良い徳目です。周りの人々が努力しない状況ならば、自分の努力も他者を抜き去る原動力になりますが、周りの誰もがみんな、精一杯努力したら…やっぱり才能勝負になってしまうよね。そうなると、結局、努力は報われないのです。

 …となると、才能がない奴は努力しても無駄? 無駄なんだから、努力なんてしない方が良いのでしょうか?

 なんか、そういう事には、首を縦に振りたくない私がここにいます。

 と言うのも、報われない事があっても、やっぱり私は、努力が好きです。コツコツと積み重ねていく事が好きです。なんだかんだと言っても、私は、結局“努力の人”なんだと思います。あるいは“努力が趣味の人”なのかもしれません。だから、たとえ、今頑張っている事(努力している事)が報われないとしても、それはそれで、まあいいかと(不思議と)納得できる人なんです。

 なぜなら、私は、ほんのりと分かっているんです。“報われなかった努力”って、他人と比べるから、価値の無いもののように見えるけれど、他人でなく、過去の自分との比較ならば、必ずしも“報われなかった”と結論づける事はできない事を。

 確かに、才能の決定的な不足のために、努力の量に見合うほどの成果は得られなかった事もあるけれど、それでもほんの小さな成果を得てきたはずです。たとえそんな小さな成果であっても、その成果は自分の努力に対する正当な評価であったと、オジサンになった今は、素直に受け入れられます。だって、その小さな成果だって、努力したからこそ手に入れられたわけで、努力をしなかったら、その小さな成果ですから、手に入らなかったわけでしょ。そりゃあ、他人が得た成果と比べれば、小さすぎて、比較すれば悲しくなって、報われない気持ちでいっぱいになるかもしれないけれど、過去の自分と比べれば、確実に一歩前に進んでいるわけで、上出来じゃないですか?

 つまり、努力をするとしないでは、たとえその成果が小さくても、自分の人生という歴史の中では、大きな価値があるという事を、肌で感じている私です。

 少なくとも、努力をしている人間は、昨日の自分に勝ち続けることができているわけです。屁理屈かもしれないけれど、そう考えると“報われない努力”って、もしかすると、一つもないのではないかと、そんな気分にすらなります。

 つまり、結論。

 努力は必ずしも報われるものではない。努力の前に、まず才能の有無やその量を見極める事が肝心であろう。しかし、どんな事であっても、努力し続ける事で“昨日の自分に勝ち続ける”事はできるので、そこに価値を見いだす人間にとって、努力は必ずも報われないものとは言い切れない。

 頑張れ、自分。

コメント

  1. ひょっとこ より:

    天才とは、単に人より洞察力が高く、
    それを実践出来る人のことだと思いますね。

    先生にささやかなヒントを出してもらって、
    それを僅かながら理解して少しづつ進んでゆくのが、まあ一般人。
    それは目に見える努力とも言えるのかも。

    天才は、ささやかなヒントからいろんなことを嗅ぎとって、
    しかも不合理さえ気づいて、
    本能的なくらいに合理的に事を理解し進めてゆく、
    そんなタイプの人だと思いますよ。
    普通に人に比べて極めて「最短で気付く」から。
    自明の人の努力って、また違うものだと思いますね。
    天才でずっと先生についていた、
    そんな人個人的には思いつきませんから。

    「イヴの時間」って、ピアニストの少年と
    アンドロイドとの「心」の交流を描いた作品があります。
    何故、前途有望な少年はピアノを弾かなくなったのか、
    読んでみると面白いかも。
    アニメ版はニュアンスが分かりづらいけど、
    先の伏線が表現されています。
    併せて小説版も読むと、少年の心の葛藤まで分かります。
    あまり書くとネタばれになりますのでね、これくらいに。

    最近、明治生まれの祖母が亡くなったりと、
    いろいろ考えさせられることがありましたからね。
    久しぶりのコメントになりました。
    バイオリンの記事なんかも読んでますよ、ささやかながら。

  2. すとん より:

    >ひょっとこさん

    >天才とは、単に人より洞察力が高く、それを実践出来る人

     そうかもしれない。あと、それに「感覚が鋭い(分解能が高い)」と言うのも加えたいです。機械的に言うなら「センサーの性能がすごぶる良い」って奴です。動体視力が極めて優れているとか、細かい周波数の音まで聞き分けられるとか、筋繊維の反応時間が極端に速い、とかね。

     それに「身体的に恵まれている」というのも、分野によっては、特にスポーツ系などでは、必要な条件ですね。音楽系でも、声楽などは、持って生まれた骨格で、歌手としてのスタートラインが違ってきます。体重は増やせまし筋肉は鍛えられますが、どんなに努力しても身長は伸びないし、胸の厚さも増やせませんから。あと、性別も変えられないし(笑)。

     「イヴの時間」は映画化された時に話題になりましたね。チャンスがなくて見れなかったのですが、ググってみたら、第1話だけ見れました。ううむ、これははまりそうだなあ…。レンタルDVDがあったら、きっと借りちゃうよ。

     お祖母様の事で、気を落とさないようにしてください。

  3. アリサ より:

    >努力と才能のバランスシートみたいなもの

    才能が多ければ、努力はさほど必要ではなくなる?
    「少ない資本をまわして多くの利益をうむ」のがいい企業というのを人生にもあてはめると、単純でわかりやすくはありますが、なんだか違和感があるんですよね。

    自分は本当に単体でやっていけてる「企業」なの?
    だとすれば、企業の存在理由とはなにか?
    配当を出すだけが存在理由なんでしょうか?

    「努力する」を「活動」だと仮定します。
    活動するには元手が必要で、それは他者からもらったり(叱咤激励とか、演奏を聴いて刺激をうけるなど)、今までの自分の「努力=活動」からうまれたものが元手(=モチベーション)となり、それを利用します。

    視点を変えて、もし自分の努力からうまれたものを、他者の元手にすることができたら…もしその他者が「天才」だったら…。自分はすばらしい元手をうみだした張本人になります。
    プラスの連鎖っていうんでしょうか?
    どこでどうつながっていくか、わからないですよね。

    個人をただの個人としてとらえるか、他者との輪の中の一つととらえるか。

    こんな考えって、結局は、自分のモチベーションを維持するための言い訳というか、へ理屈なのかもしれないけど、ちっぽけな自分の精一杯の努力は、完全なゼロではないと思った方が、人生楽しくないですか?

    ブログに記録していくことも、誰かにとってはすごく役立ってるのかもしれませんよね。

  4. すとん より:

    >アリサさん

     私の今回の記事には“他者との関係”という視点が欠落しています。ま、これは、私がヲタク属性の強い人間だという事で勘弁してやってください。

     モチベーションの維持ってのは、実はオトナの趣味にとっては、大問題だと思います。これについては、いずれ稿を改めて書きたいです。今、言える事は「いくら練習しても、ちっとも上達しなかったとしても、それは本当に無駄で徒労だったと言えるだろうか。上達は大してしなかったとしても、何かをきっと得ているはずだから、それを探してみようよ」って事かな?

     うん、やっぱり、言葉が足りないね。少し考えてみますわ。

  5. 河童 より:

    努力と言っても実際には努力になっていないこともあります。
    運動生理学の鉄則のひとつに
    1)出来る範囲内のことをしていてはそれ以上のことは出来ない
    というのがあります。(過負荷の原理)
    つまり、無理しないで出来る範囲内で・・を繰り返しておれば、いつまでたってもそこまでの能力。(能力の維持にはなりますがそれ以上にはならない)
    いやーきつかったなあ・・という事をすると伸びるということです。
    何事も楽して伸びることはありません。(体育会系の人だと疲労感を楽しみます)

  6. すとん より:

    >河童さん

     私も一応、体育会系(それも格闘系)の人間なので、それ、知ってます。

     筋肉に無理な負荷をわざとかけて、一度、筋繊維を壊す事で、その筋繊維が回復する時に「やべえやべえ、またあんな事されて、壊されてたまるか!」というわけで、少し強い筋繊維になって回復するって奴です。この性質を利用して、筋繊維を少しずつ太くしていくというわけです。筋繊維が太くなっていくと、筋力が増しますからね。

    >何事も楽して伸びることはありません。

     そうなんです。それは事実です。でも、世の中はなかなかに無慈悲で、それだけ苦労したところで、次の試合に勝てるかと言うと…勝負は時の運だったりするし、相手がこっち以上の修行をしていたりして、なかなか世の中はうまくいかないものです(涙)。

     「敵もさるもの、ひっかくもの」って事です。相手も強くなるので、こちらは相手以上に強くならないきゃいけないのです。ほんと、努力って奴は、並大抵なものではないんです。

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