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手毬唄かなしきことをうつくしく

 この俳句は、高浜虚子の句です。高浜虚子という人については、それぞれにググってください。この句は、彼の作品の中でも、割と有名な句だろうと思います。
 句の意味は…俳句ですから、想像の余地はたっぷりあるのですが、私はシンプルに「手毬唄ってさあ、悲しい歌詞だよね。それを美しい……」って解釈しています。
 何を言っているのか分かりづらくて、ごめんなさい。
 手毬唄って、子どもの遊び歌です。江戸時代~昭和初期ぐらいまで、童女が毬(まり、ボール)をつきながら、歌っていた歌です。昔の女の子の遊びには、歌いながら○○するってのが多かったと思います。鞠つきも歌いながら行う遊びだったわけです。
 季語は手毬唄で、季節は正月です。羽つき等の子供の遊びの一つとして、お正月に季節付けられているのだと思います。おしくらまんじょう等のように、鞠つきをする事で、カラダを温めるという防寒の目的もあるでしょうから、冬の遊びと見なされていたのかもしれまぜん。
 手毬唄は今でも童謡や民謡として、数曲が歌い継がれています。まあ、子供の遊び歌なので、ろくな歌詞じゃないのは仕方ないです。
 手毬唄と言えば、私は熊本の「あんたがたどこさ」がすぐに思い浮かびますが、あの曲だって、たぬきを鉄砲で撃って、煮たり焼いたりして、結局食べちゃうわけで、今の時代、動物愛護の視点で見ると、問題ないわけじゃないけど…まあ、そんなもんでしょ。
 子供なんて、不謹慎なモンですよ。私の子供時代なんて、ドリフターズの全盛期だったから、そりゃあもう、PTAの方々が眉をひそめるような事(「ウ○コ、○ンチ○!」とか)を大きな声で合唱していたわけですからね。
 高浜虚子は、そんな子供のロクでもない歌詞のついた手毬唄を「かなしきこと」って感じちゃうわけです。「ひどい」と切り捨てるのではなく「かなしい」と飲み込むわけで、そこに高浜虚子という人の魂の大きさを感じる私です。
 そんな手毬唄を「かなしきこと」として、虚子に飲み込ませたのは、私が思うに、それを歌っていた童女の歌声なんだと思います。歌詞はひどいわけだし、子供の歌ですからテクニカルで上手な歌唱なわけでもない。それでも「うつくしく」なのは、童女の声、歌声が虚子の心に響いたから「うつくしく」なんだろうと思います。
 要は、童女の声の美しさ…。これが「かなしきこと」であっても、虚子が飲み込めた理由なんだろうと思うわけです。
 声の美しさは、歌の稚拙さや歌詞の内容を飛び越えて、我々の魂に刺さっていくもの…であると、私はこの俳句を読みながら、感じ入ったわけです。
手毬唄かなしきことをうつくしく 高浜虚子

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