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趣味と道楽の境目は…?

  趣味も道楽も、広義で言うところの『遊び』であり、基本的には同じモノです。英語に訳せば、両方とも“hobby”です。

 でも、我々が耳にする感じでは、趣味と道楽は、なんとも違うモノのような気がします。

 ではどう違うのか? 私の個人的な感覚で言えば、趣味は“健全なモノ”、道楽は“後ろめたいモノ”です。

 例えば、お見合い等の席で「あなたのご趣味はなんですか?」と尋ねるのは、まあある事でしょう。しかし「あなたのご道楽はなんですか?」なんて聞くわけないですよ? 仮に尋ねたとして、相手はなんと答えるでしょうか? 趣味なら答えられるけれど、道楽はなんですか?と尋ねられても、答えに窮するだけでしょ?

 だって「趣味は音楽鑑賞です」なんていう当たり障りのない答えはあるけれど、「道楽は音楽鑑賞です」って何か変でしょ? 一体、道楽と呼べるような音楽鑑賞って、どんな音楽鑑賞なんだろう? ってあらぬ妄想を抱きかねません。

 かくの如く、趣味ってのは、健全で、他人にも公言できるものです。一方、道楽というものは…健全でもなければ、他人には公言できないもの? あるいは他人に迷惑をかけてしまうモノ、迷惑をかけていると自覚できるモノなのではないでしょうか?

 趣味人と言うと、なんかカッコいいイメージがありませんか? 趣味によっては、知的であったり、健康的であったり、さわやかであったり…そういうイメージがついて回ります。

 でも道楽者と言うと…いけません。なんか“人間のクズ”と言われているような気がします。

 道楽者と言って、私が最初にイメージするのは、落語『寝床』の旦那です。落語のあらすじは、こちらのサイトにまとまっていますので、御覧ください。この寝床の旦那が、私にとっての道楽者のイメージなんですね。はた迷惑で、自己中心で、周りの迷惑なんて考えない。おまけに嫌がる人たちに自分の下手な芸を見せつけるし…ああなんてひどい人なんだ。

 この旦那、たぶん普段は有能で良い人なんだと思います。それが、こと義太夫になってくると、どうしてこんなに、ポンコツのクズになってしまうのか? そこが道楽者の道楽者たる所以ってやつです。

 最初は、この旦那にしても、義太夫は趣味であったはずです。自分も楽しく、周りも微笑ましく見ていてくれたのだと思います。義太夫仲間もでき、人間関係も広がり、楽しくやれていたはずなのです。それがどこでどう間違えたのか、旦那の義太夫は、周囲の人たちら避けられ疎まれ嫌われるようになり、それを薄々自分でも感じながら、旦那は義太夫を止められない。その業の深さが、趣味と道楽を分けるものではないかしら?

 つまり、理性でコントロールされて愉しんでいるのが趣味。理性が吹っ飛んでしまい夢中になってしまったのが道楽。だから、道楽者の道楽を止めさせることは難しいのです。

 そう考えると、何も道楽って、趣味の世界だけの話じゃないし、ダメダメばかりでもないかもしれません。趣味という非生産的な事を理性を吹っ飛ばすから、人間のクズ扱いを受けるだけで、経済生活であれ家庭生活であれ何であれ、生産的であったり、社会や経済への貢献度が高いモノに対して、理性をふっ飛ばしてガムシャラに、身を粉にして働きかけていくのであれば、それはダメなのではなく、むしろ評価が高くなりますよね。

 日本人の持つ勤勉性って、道楽者の性質と似てます。ただ、理性をふっとばす対象が仕事なのか遊びなのかの違いじゃないでしょうか? 仕事に対してガムシャラになれば、モーレツ社員(ああ、古い言葉だ!)であり、遊びに対してがむしゃらになれば、道楽者と呼ばれるわけです。

 振り返ってみて、私は趣味人なのかな? 道楽者なのかな? 音楽趣味に関して言えば…フルートは全然余裕で趣味ですね。うん、全く趣味過ぎて、H先生には申し訳なく、H門下の中では本気度が低すぎて恥ずかしくなるばかりです。でも歌に関して言うと、やっぱり趣味人なんだろうけれど、半歩ぐらい道楽に踏み込んでいるかも…。少なくとも、下手くそな歌を、ネットで公開しているんだから、寝床の旦那とそんなに大きく変わらないかも(涙)。

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