以前読んだ本川達雄氏の著作『ゾウの時間ネズミの時間』には、次のような事が書かれていた記憶があります。
動物は種ごとにカラダの大きさが違い、寿命も違うし、行動のスピードが違う。一般的に、カラダの大きな種は、寿命が長いし、行動のスピードはスローモーである。一方、カラダの小さな種は、寿命が短く、行動はスピーディーである。しかし、調べてみると、カラダの大きな種も小さな種も、一生の間に打つ心臓の鼓動の総数は同じであって、どんな動物であっても、心臓をある一定数打ち終えれば、心臓が止まり、死んでしまうようにできているんだそうです。で、それが、いわゆる“寿命”なのではないかと。そして、なぜそうなるのかと言えば、それぞれの種ごとに流れている時間の速さが違うのではないのか?
つまり、カラダの大きなゾウは、長生きな動物なのではなく、ゆっくりと進む時間の中で生きているだけで、ゾウから見れば、世間はあまりにせわしいモノなのかもしれません。一方、カラダの小さなネズミは、短命な動物なのではなく、足早に過ぎ去る時間の中で生きているだけで、ネズミからみれば、世間はゆったりとした緩慢なモノにすぎないのかもしれません。つまり、第三者である我々から見れば、ゾウは長生きで、ネズミは短命だけれど、ゾウもネズミも、それぞれにとっては、十分な長さの時の中で生きているのではないかと…そんな事が書かれていたような気がします。
なにしろ、すごく前に読んだきりだし、現物は本棚の奥深くのどこかにしまいこんでしまって、取り出して読み返すことも、ちょっとむずかしく、記憶があっちこっち曖昧なのは勘弁してください(笑)。
なぜ、曖昧なままとは言え、この本の主旨を割と覚えているかと言うと、私はこれを読んだ時に「これって、なんか相対性理論に似た話だな」と思ったからなんです。
ここでは相対性理論についての解説はしませんが“光の速度と質量”というパラメーターを“心臓の総鼓動数と体重”に置き換えた時、相対性理論とゾウネズミの話が、私の中で何となくリンクしちゃったわけです。
つまり、時間の流れる速度は、物理的には一定かもしれないけれど、心理的には種ごとに異なり、個体的にはみな等しい分量の時が与えられている…と思ったのです。
で、私はそこから妄想を始めました。ゾウとネズミは、見かけ上の寿命が違っていても、(心理的には)同じだけの時を生きてから死ぬのであれば、人間に関しても、同じことが言えるのではないかしら…ってね。
具体的には、天才と呼ばれる人々は、おしなべて短命だけれど、あれはもしかすると、天才って短命なのではなく、単に我々よりも速く流れる時間の中で暮らしているのではないかって思った次第なんです。
例えば、モーツァルトは35歳で死んでますが、もしも彼の時間が我々から見て、倍の速さで流れていたら、彼は短命であるとは言い切れないかなと思うわけです。時間の流れが速いと言う事は、彼の思考速度も速いわけで、その速い思考速度を以って作曲活動をしたから、あれだけの作品を生み出せたのだ…とね。いわば、脳みそがクロックアップされているのが天才じゃないかって思ったわけです。
ま、妄想ですが(笑)。
でも、確かに言える事は、天才と呼ばれる人は、短い時間で実に多くの仕事を成し遂げるものです。我々がボケっとしている間に、次々と偉業を成していくわけです。その事実を見た時、天才と呼ばれる人たちって、どう考えても脳みそがクロックアップされているとしか思えないわけです。
さらに別の妄想もしました(笑)。
時間の速度は、鼓動の速度に関係しそうです。心臓を打つ速度が速ければ、時の流れを速く感じ、心臓を打つ速度が遅ければ、時の流れを遅く感じるのなら、敏捷な人って、心臓の鼓動が他人よりも速いのかな?とか、うれしい時とか楽しい時なんて、当然興奮しているわけで、心臓の鼓動も普段よりも速いわけだから、それで時間があっという間に過ぎてしまうのかな?とか、若い時にスポーツとかして、たくさん心臓の鼓動を打ってしまった人は短命なのかな?とか。ならば、長生きの秘訣は、ぐーたら生活して、なるべく心臓の鼓動を少なめに生活する事なのかな?とか、まあ、色々と妄想するわけです。
さらに言えば、子どもはオトナよりも鼓動が速いです。赤ちゃんと老人では2倍程違います。だから、子ども時代は自分自身の中を流れる時が速いために、周りの世界がゆっくりに感じられ、オトナになると時が経つのが段々と速く感じられるようになり、それにあわせて、周りの世界が足早に遠ざかり、老人になると、光陰矢のごとしになってしまうのかな?とかね。
時間とか速度とか距離とか言うものは、相対的なものであり、条件次第で長くも感じられれば短くも感じられるわけで、だからゾウは長寿ではないし、ネズミは短命ではないのでしょうね。
もしも人間も、個人個人でそれぞれ違う速さの時間の中で暮らしているのなら、それはそれで面白いなあって思ったわけです。ならば、客観的で定量的な時間の流れから見た場合、人生ってヤツは、楽しく過ごせば過ごすほど長くなり、つまらなく過ごせばあっという間に終わってしまうと思います。いや、この場合は、長い短いで考えるのではなく、濃い薄いで考えるべきかな? 楽しく生きていくことは、時間を濃く使っていくことであり、つまらなく生きていく事は、時間を薄くしか使えない事なのかもしれません。
つまり、人生、楽しく暮らさなきゃ、損だねって結論になります。
いやあ、なんか、面白い。
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