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人の数だけ正義はある[2011年8月第1週・通算26週]

体重:101.0kg[-0.3kg:+0.4kg]
体脂肪率:30.9%[+0.5%:+0.8%]
BMI:31.9[-0.1:+0.2]
体脂肪質量:31.2kg[+0.4kg:+0.9kg]
腹囲:100.0cm[+0.5cm:-11.5cm]
     [先週との差:2011年当初との差]

 いつもいつも長文垂れ流して、読者の皆さんにはご負担申し上げておる私です。今日の記事は、白状しますが、かなり未消化です。疲れているのかな? これ以上、分かりやすく書けませんでした。カルピスの原液のような濃いめの文章ですので、いつも以上にご覚悟を決めて読み始めてくださいませ。

 始めます。

 たった一つの事件/現象/事象に対して、客観的な事実というものは、おそらく、一つしかないと思います。

 無論“客観的な事実”と言うからには、そこに善悪の判断もなければ、適不適の審査もなく、人の思惑などカケラも入らない“客観的”である事が前提条件であって、それはおそらく、ただ単に、淡々と場の変化を時系列に沿って記録したものと言ってよいのだと思う。調理に例えば、素材のようなものだ。

 その“客観的な事実”とやらに、人の思惑や価値判断が加わった時に“その人にとっての真実(つまり「主観的な判断」)”へと変容するわけだ。これは調理に例えれば、まさに食べられるように調理された料理そのものであろう。

 で、その“真実”がその主観者の是とするモノなら“正しい”と判断され、非と判断されたならば、それは“正しくない”と判断されるわけだ。つまり、正しいか正しくないかの根拠は、事実にはなく、主観者の思惑や価値判断によって左右されてしまうというわけです。ここにおいて、つまり主観者の数だけ、正義が存在すると言えるわけです。

 これを簡単に言っちゃうと「正しいのは自分だけじゃない」って事ね。あるいは「自分は、立場が変われば、もしかすると間違っているかもしれないし、下手すると、不正の立場にいるかもしれない」って事です。

 ザックリ言っちゃえば「自分は正しいかもしれないし、正しくないかもしれないし」って事です。

 相対主義?…かもね。でもそれがオトナって奴でしょ。

 逆に「この世に正義はたった一つしかなく、その正義に従わないモノは悪である」と考えるのは、一見マトモそうだけれど、これは言い換えると「この世に(私が信じている、私にとって都合の良い)正義はたった一つしかなく(だからお前の言い分など、聞く耳持たないぞ)、その(私の)正義に従わないモノは悪である(から徹底的に攻撃しても許される)」って事になります。

 簡単に言っちゃうと「自分は常に正しくて、自分と意見が異なるものは攻撃対象である」と言っちゃう事とほぼ同義。怪獣を見ると攻撃しちゃうウルトラマンのようなものである。

 う~む、子どもじゃあるまいし、これは実に恥ずかしい考え方だと思う。しかし、こういう考えの人、ネットには意外とたくさんいるんだよね。「自分が正しいと思うものだけが正しい」なんて……恥ずかしいくらい、独裁者的な思考回路だなあ。

 こういう、独裁者的な思考回路になるかどうかの、分水嶺って“思考における視野の広さ”がポイントかな。つまり、どれくらいたくさんのモノを見て聞いて感じて、さらには判断を下してきたのかという、人生経験の絶対量と、それを支える“愛の大きさ”と“腰の低さ”って奴で、事を左右に分けてしまうような気がします。

 ひと言で言っちゃうと、独裁者になっちゃうかどうかって“人としての度量”の広さにかかっているかな? どれくらい他人を尊重できるか。相手が自分の理解の範囲を越えたとしても、その異分子をそのまま受け入れる心の広さをもっているかどうかって事で分かれてしまいそうな気がします。

 人間が百人いたら百個の真実と正義がある事を知っている事。

 世界は怪獣映画のように単純じゃあないって事を知っている事。

 …ヒーローの必殺技一つで世界が救われるなら、リアルなこの世界は、こんなに大変な事になっていないと思うよ。
 
 
 正義の話じゃ分かりづらかったら、金銭感覚や楽器の値段でもいいや。

 例えば、10万円前後のスクールモデルのフルートをどう感じているか。

 これをメインのフルートとして愛用している人にとっては「かけがえのない相棒」でしょ。でも、サブフルートとして使っている人なら「安くてお手軽な代用品」って感じているんじゃないかな? 総銀フルートとかゴールドフルートあたりをサブフルートとして使っている人から見れば「なに?それ?」ものでしょ。本音で言っちゃえば、使い捨てのオモチャ程度にしか思っていないかも。

 これらの反応は、いずれも正解で間違った反応ではありません。

 10万円前後のスクールモデルのフルートを「かけがえのない相棒」と思っても「安くてお手軽な代用品」と思っても「使い捨てのオモチャ」と思っても、どれもこれも正しいのです。

 でもスクールモデルのフルートを「かけがえのない相棒」と思っている人からすれば、自分の楽器が「安くてお手軽な代用品」とか「使い捨てのオモチャ」なんて、ありえない事。そんな事言われたくないし、言ってほしくない。もしもそんな事を言われたら、なんか馬鹿にされたような気がして、悲しくなるでしょう。

 でも、それはその人にとっての真実であっても、その他の人にとっては、必ずしもそうとは限らない事を知らないといけません。

 つまり、人間が百人いたら百個の真実があることは知らないといけないのです。

 実際に、スクールモデルのフルートを「安くてお手軽な代用品」としか思えない人はいます。「使い好きのオモチャ」としか思っていない人もいます。そういう人がこの世には存在するし、彼らの考え方は彼らのものとして尊重しなければいけません。なぜなら、それはあなたにとっては真実から遠い答えからもしれないけれど、彼らにとっては、間違いのない真実だから。

 自分にとって不都合な他人の真実も、真理として受け入れ、尊重できるって事が、オトナってもんじゃないかな? なんて私は思います。

 このように、金銭感覚一つとっても、人は様々、色々と異なるものです。まして、正義の話なんてし始めたら、収拾がつかないことになるのが、現代社会って奴です。
 
 
 人の数だけ正義はあるのです。
 
 
 でも、人々が皆、色々な考え方を持ち、互いの意見を尊重する成熟した世の中は、おそらく独裁者には都合の悪い世の中なんだろうと思います。なにしろ、独裁者って奴は、自分だけが正しいと思っているからね。

 ん? …だからマスコミって奴は、報道を通して、民衆をミスリードして、各自の自由な意見を、同じ方向を向いた世論へと変容させていくわけか…。ならば、本当の悪者はマスコミの陰に隠れている連中って奴か。なるほどね。

コメント

  1. Yテノール より:

    「人の数だけ正義はある」
    まったく同感です!

    事実と真実は違うと思います。

    「逃がした魚は大きい」
    悠々と逃げてゆく大きくみごとな魚の姿が釣り人の心の目には刻まれたことでしょう。
    体長何センチという事実は、事実としてあるはずですが、惜しいという思いこそが彼の真実の体験と言えるものだと思います。

    よく、真実は一つでしょ。なんて宗教界の方が仰ることを伺いますが、
    事実は一つだけど真実は無数にあるとおもいますね。

    事実は、事実であって、正邪,善悪、美醜、尊卑、等の価値とは無関係に、ただ、そこにあるのだと思います。
    その事実を、どのように観、感じ、考えるかによって、その人にとっての意味というものが決まってくるのだと思います。
    真善美と言いますが、
    真実も正義も美しさも、それぞれの人が内的に創造構築してゆくものだと思います。

    唯一絶対的な真善美のあり方が厳然と客観的に存在するという考え方は、
    多くの、権威主義、独善、不寛容、不調和、差別、戦争というもの生み出して来たと思います。
    あらゆる戦争が正義と正義の戦いであったことを知るべきでしょうね。

    ストンさんの仰るように、相手の真実の思い、相手の正義を受容することしか世界平和の道はないのかなって思たりしております。

  2. すとん より:

    Yテノールさん

     ナイス・フォロー、感謝。私の記事だけだと、今一つ、話が難くて伝わりづらいかなあ~って思ってましたが、Yテノールさんのコメントと合わせて読んでもらうと、たぶん、伝わるんじゃないかなって思います。

     “外敵”って言葉がありますが、実は外敵なんてモノは本当はどこにも存在しないのかもしれません。実は、内なる心が敵を作り出してしまうだけなのかもしれません。差別も憎しみも妬みも蔑みも不安も悲しみも、みな人の心が生み出すものです。これらの心が捌け口を求め、いつしか敵を作り、敵を攻撃することで、ほんの一瞬だけ、そのような思いを忘れる事ができる…のかもしれません。

     すべての人の心が強ければ、世界はおそらく平和になるのでしょうか、しかし現実問題として、人間の心は弱いものですから、様々な敵をつくりだしてしまうのでしょう。

     でも、だからダメなんだと諦めるのではなく、まずは自分から、少しずつでも“変わっていく”事が大切なのかもしれません……簡単にはいかないでしょうが。

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