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サバイバル・ギルティという言葉はご存じですか[2011年3月第4週・通算11週]

体重:99.9kg[+0.2kg:-0.5kg]
体脂肪率:30.4%[-0.1%:+0.2%]
BMI:31.5[+-0.0:-0.2]
体脂肪質量:30.4kg[+-0.0kg:+-0.0kg]
腹囲:97.0cm[+-0.0cm:+0.5cm]
     [先週との差:2011年当初との差]

 99.9kgです。いよいよギリギリな感じになってきました。ちょっと焦ってます。でもねえ、ストレス太りは避けられないのよ(涙)。気がつくと、何かが口の中に入っている…んだよねえ。困った困った。

 先の大地震および津波や原発事故やその他の災害も含め、どうやら「東日本大震災」と呼ぶようになってきましたね。東日本…この言葉だけで、その被害地域の広さと事の深刻さが分かります。

 あれから約二週間、現地の様子を報道などで見る限りでは、まだまだ大変な状態のようですが、それでも皆さん、必死に立ち上がろうとしている姿は、思わず「頑張れ」と声をかけたくなるし、日本人の不屈な魂を見せられる思いです。それにしても現在進行形で大変なのが原発事故の方ですね。東電の人や消防士さんや自衛隊の兵士さんたちが、文字通り、命懸けで復旧作業に当たってます。ただただ感謝です。

 さて、被災していない地域や人、およびネットの世界の話をします。

 皆さんは“サバイバル・ギルティ”って言葉をご存じでしょうか? これは“生き残ってしまった事を罪悪”と感じる心の事だそうで、ノイローゼやら鬱やらPTSDやらの原因の一つなんだそうで、例の9.11以降使われるようになった言葉だそうです。

 この“サバイバル・ギルティ”ですが、直訳すると『生き残ったから有罪』って感じでしょうか? つまり「生きてて、ごめんなさい」「無事で申し訳ない」「被災しなかったので、居たたまれない」「普通に生活ができて、すみません」「元気で健康でいるのが、とても後ろめたい」って感情の、極端に強いバージョンです。この感情は決して馬鹿にできなくて、この感情のために、心が壊れてしまう人が大勢いるそうです。

 今の日本には、この“サバイバル・ギルティ”に心が食われてしまった人が、たくさんいるんじゃないかな?

 テレビであれだけ連日連夜、悲劇を強調した報道が垂れ流されていたわけで、あれをずっと見ていたら、そりゃあ「生きてて、ごめんなさい」って気持ちになるのが、ある意味、当たり前の反応だよね。

 “サバイバル・ギルティ”の根幹にある感情は“共感”なんだと思います。被災された方を思い、同情し、その境遇に涙し、悲しみを抱く気持ちは、人間として尊いものだと思います。問題は、その感情が行き過ぎてしまうことネ。

 例え、テレビの報道がヒドイ状況を伝えていたとしても、それはあくまでも、現地での出来事なわけだし、そこに映し出されているのは、現地の方々なんです。自分はあくまでテレビを見ているだけで、テレビの中の世界の人ではないんです。

 ちょっと冷たい言い方かもしれないけれど、所詮、自分は自分であるわけだし、彼らは彼らなのです。なのに、共感する心が強すぎると、我彼の区別があいまいになり、相手のつらさや悲しみが伝染し、彼らの悲しみでこちらの心が潰され、自分自身が被災された方と同じように、いや、それ以上に心がくじけてしまって「なぜ私は被災しなかったのだろうか」「私は無事なのに被災地では…」と思い始めて、やがて無事に生活できている自分と、その回りの人々を憎悪し始めるわけです。

 そうやって“サバイバル・ギルティ”に心が食われてしまうわけです。

 もちろん“共感する心”は大切だし尊いです。募金活動にせよ、ボランティア活動にせよ、これらの善行は「情けは人のためならず」という共感する心が原動力となって推進されるものです。

 しかし「あの日以来、とても音楽をやる気になりません」「ブログを書こうと思っても、なんの話題も浮かびません」「あれほど毎日熱心に練習していたのに、もう二週間も楽器に触っていません」 こんな人は、すでに“サバイバル・ギルティ”に心が浸食されています。

 これがひどくなってくると、自分の事だけでなく、周囲の事まで気にかかるようになるそうです。

 「地震があって、被災地では生きるだけでも精一杯なのに、あそこの家からピアノの音が聞こえる、なんて不謹慎な!」「あの家の娘、昼間っから、のんきにフルートなんか吹いていやがる。被災された方は、フルートが吹きたくても吹けないのに…ああ、気に入らない!」「あそこの奥さん、習い事に通っているそうよ、そんなお金があったら、募金でもすればいいのに!」「世間がこれだけ大変なのに、毎日毎日、どうでも良いことをブログに書いている奴がいる。さっさとブログなんか辞めちまえばいいのに!」 こういう発想が出てくるようだと、心が“サバイバル・ギルティ”に食われすぎて、すでにダークサイドに落ちてますネ。

 「被災した人が不幸なのだから、自分も不幸にならないといけない」と考えるのが“サバイバル・ギルティ”の症状ですが「被災した人が不幸なのだから、日本中が不幸にならなければいけない。少なくとも私の目の届く範囲に、普通の生活をしている奴がいたら、許さない」ってなると、かなり重症な“サバイバル・ギルティ”であると言えるでしょうね。

 “いじめ”と言うのは、元来、弱い心の持ち主がその自分の弱さをカモフラージュするために、自分よりも弱い人間を見つけては加害する事で、自分を強者に擬態するという、心の働き(と言うか、病)なんですが、この“いじめっ子”気質な人と言うのは、元々の心が弱いために“サバイバル・ギルティ”にも心が浸食されやすいようです。

 そういう人は、自分の心を安定させるために、周囲の人々に精神的な攻撃を加えますが、その具体的な行動として、例えば、ピアノを弾いている家に行って、わざわざ「ピアノを弾くな」と注意をしに行ったり、フルートを吹いていると、家の壁をドンドンドンドンと叩いて、イヤガラセ&脅しをかけたり、ブログに「何、呑気な事を書いているんだ、不謹慎だ、今すぐブログを辞めろ」というアラシ・コメントを残したりするわけです。

 心が弱い事は罪ではありませんが、その行いは迷惑千万だし、他人を傷つける事で自分を守るというのは、日本人のするべき行動ではありません。

 で、この重症な“サバイバル・ギルティ”の方、あるいは“サバイバル・ギルティ”を併発した“いじめっ子”な方は、さすがに私のリアルな周囲にはいませんが、ネットでは加害者・被害者とも、よく見聞きします。ネットは顔が見えない分、心がよく見えるんですよ。

 大切な事は、被災した人と悲しみを共有して落ち込む事ではなく、被災した人を助けるために、私たち自身が大地にしっかりと足を踏んばって、力強く立ち上がり、被災した人々に手を差しのべる事でしょ。具体的に言えば「悲しむ暇があったら、前を向いて歩きだせ」って事です。

 そのためには、まず“日常生活”を取り返しましょう。確かに停電もあるし、物流だって未だに滞っているし、燃料も不足しています。それでも、覚悟を決めて、力強く、日常を過ごしましょう。

 精査した情報を入手しパニックにならないようにしましょう。パニックは不安を呼び覚まし、不安は再び“サバイバル・ギルティ”を呼び寄せます。(マスコミ関係者は全くそんなつもりはないでしょうが)「マスコミは我々を不安に陥れるために、悪い情報ばかりを流しているんだ」と思っているくらいで、ちょうど良いのかもしれません。心の強さに自信がない人は、思い切ってテレビを消してしまうのも、一つの手かもしれません。

 そして、懸命に働きましょう。真剣に楽しみましょう。心の底から笑いましょう。そうやって、まず自分自身を律して、心もカラダも健康でありましょう。その上で余裕のある人は、募金なり献血なり労働奉仕なりをしていけば良いのだと思います。

 まずは、それぞれの人ができることをコツコツとやっていく事。そして、自分にはできない事や自分の手に余る事は、潔く専門家の手に委ねて祈りましょう。その代わりと言ってはなんですが、しっかりと日本の経済を回していきましょう。経済さえ回っていけば、被災地の援助だってできます。物流も回復するでしょうし、電力不足や燃料不足もやがて解消されます。復興作業もはかどると言うものです。

 まず必要な事は、日本経済の立て直しです。

 生き残った事に罪悪感など感じる必要は全くありません。生き残ったのなら、やるべき事があるはずです。悲しみにくれて、心を潰して、やるべき事をやらない方が、よっぽど罪深いと、私は思います。

 さあ、始めましょう。悲しみは横に置いて、立ち上がれる人から立ち上がっていきましょう。“サバイバル・ギルティ”を終えて、日本中で前に向かって歩きだしましょう。

コメント

  1. かず より:

    すとんさんのおっしゃること、まさにタイムリーだと思います。

    サバイバル・ギルティ、は被災地の住人でも多くの人が感じています。
    地域によって被害の大きさが違う、
    被害が同じでも、ブロックによってライフラインの
    復旧の進み具合が違う・・・

    私もそうですけれど、落ち込むのとは逆に
    「私も何かやらなきゃ!」って動きたくなるのも
    心が過剰なかんじです。
    今はバランスをとるのが一番の課題かもしれません。

  2. すとん より:

    >かずさん

     共感する心、同情する心、助けたいと願う心。いずれも大切な感情だと思います。ただ、それらが過剰になってしまうと、自分も周りの人も壊してしまうのだと思います。

     心ってやっかいですね。

     過剰な心をコントロールするのに必要なものは、おそらく“理性”とか“知性”とか呼ばれるものではないかなって思います。「勉強なんて人生の役に立たない」とは日頃言い尽くされている言葉ですが、教育によって育てられた“理性”や“知性”が、弱い私たちの心を支え導き、より適切な感情へ導き、本当に効果的な身の処し方を教えてくれるならば「(学校の)勉強も生きるための強い力になる」のかもしれません。

     日本は昔から教育レベルの高い国ですが、その教育レベルの高さが、もしかすると被災しても取り乱さない、どんなつらい状況でも“和”の精神で助け合うことができる原動力なのかもしれません。

     できる事から着実にコツコツとやっていきたいものです。

  3. Yテノール より:

    サバイバル・ギルティ、恥ずかしながら知りませんでした。

    (被害に遭わなくて幸せ イコール 罪)

    なんと非合理な心理でしょう。まさに不条理ですね。

    同情、共感はよく解ります。人として自然な感情、
    命として繋がっている感覚です。
    でもそれと罪悪感は全く違ったレベルのものだと思うのです。
    同情、共感は、建設的な思いと行動へ繋がっていくと思うのですが、
    罪悪感は、ストンさんがまさに述べたように負の連鎖を引き起こしてしまいますよね。

    私達は、子供の頃から、「自分の事より先ず他者のことを大切にしなければならない。」と言う道徳律で育って来たと思います。

    自分の楽しみ幸せより、周囲の事を優先することが人として正しいあり方であるという観念は、深く私たちの意識にしみ込んでいるのかもしれません。

    その観念からすれば、『自分の幸せ イコール 罪悪』という心理的図式は当然の帰結かもしれませんね。

    その道徳律自体の善し悪しを論ずるつもりはありません。
    私自身そうやって育ってきて骨の髄までしみこんでいますもの。

    ただ、人生、長くやってきてた昨今、
    以下のような考えが無理がなく自然で生き安いなって思っています。

    自分を大切にしない人は、人を大切にすることもできない。
    自分を愛せない人は、人も愛する事ができない。
    自分が幸せでない人は人を幸せにすることはできない。

    人は、持っていないものを与える事はできないのだから。

    政治も経済も究極的には人々が幸せに暮らす為にあるんですよね。
    皆が自らの楽しみや喜びを抑制したら、究極的な需要が縮小ることになりますから政治経済は、じり貧に脆弱化していくことでしょう。
    ストンさんの仰る事は本当に正鵠を得ていると思います。

    日本を元気にするためには、一人一人が自分を大切にし自分をフルに活かし続ける事だと思います。

    私は画家ですので、これからも多いに描きます。
    そして、ストンさんと伴に,多いに歌いたいと思います〜♪

  4. すとん より:

    >Yテノールさん

    >自分を大切にしない人は、人を大切にすることもできない。
    >自分を愛せない人は、人も愛する事ができない。
    >自分が幸せでない人は人を幸せにすることはできない。

     おっしゃる通りです。サバイバル・ギルティに限らず、これらの言葉は真実です。サバイバル・ギルティを犯罪などと同列に語るのはいかがかと思うけれど、小は不良少年から、大はテロリストや連続殺人犯まで、反社会的/非社会な活動を行ってしまう人々は、Yテノールさんのおっしゃるように、自分を大切にも愛することもできなくて幸せから縁遠い人が多いと思います。

     社会全体の幸福を願うなら、まずは社会を構成している一人一人の幸せを実現する事から始めるべきなのでしょうね。そういう意味では、幸せな人とそうでない人が混在する世の中は理想的な社会ではないし、一時的にせよ、災害などで、そういう幸せのバランスが崩れたのなら、一刻も早く、元通りにする事が復興という作業なのでしょうね。

     私個人ができる事は限られています。頑張って、日常生活を送りたいです。働いて、楽しんで、笑っていきます。日本の経済を少しでもまわしていきたいです。

     そして、まずはスーパー等で、福島産、茨城産、岩手産などと書かれたものがあったら、積極的に購入しようと思います。なので、政府も出荷停止などにしないで欲しいなあって思います。福島のほうれん草だって、きちんと水洗いをして食べますよ、私。

  5. うぉぉん より:

    今日はサバイバル・ギルティに負けず久しぶりに高らかに吹かせていただきました。
    おかげで血行がよくなったのか風邪の熱が吹き飛びそうです。
    「風邪が完全に治ってないのにぶりかえすんじゃないのか」と夫が心配顔でしたが
    こればっかりは本人にしかわからない感覚なんだと思います。
    ところで、私も大震災後は、何もかも自粛しようと思ったり、
    いやいや、ダメージを受けていない地域こそ元気に活動しないでどうすると思ったり、
    堂々巡りを繰り返していて、周りの動静を気にしたりしていましたが、
    なんにせよ歩いていかなくてはと思いますー。

  6. すとん より:

    >うぉぉんさん

    >おかげで血行がよくなったのか風邪の熱が吹き飛びそうです。

     あります、あります。多少の調子の悪さは、音楽の練習をすると、吹っ飛びます。これは血行が良くなることもそうでしょうし、あと、集中するのでアドレナリンが出まくるせいもあるでしょうね。どちらにせよ、軽度の(あくまで“軽度の”)風邪なら、音楽をする事で、きれいに治ります。

     インフルエンザや肺炎や喘息などは…そういうわけにはいきませんが(涙)。

    >堂々巡りを繰り返していて、周りの動静を気にしたりしていましたが、

     それは本音ですよね、私もそうですよ。意思の力で踏ん張っている部分がありますが、ついつい弱気になると、周囲の目を気にして、サバイバル・ギルティに心を食われそうになる事、あります。やはり、テレビなどで被災地の映像を見ると、心がえぐられるように悲しくなりますもの。あちらが大変だからこそ、私はしっかりしないと…と自分で自分にハッパをかけております。

     とにかく、前に向かって、歩ける人は、歩いていきましょう。私も頑張りますよ。

  7. なるほど、「サバイバル・ギルティ」ですね。とても納得しました。
    「こんな時に発表会やるなんてどうなの」
    とか、
    「ピアノなんて弾いてるヒマがあったらボランティアしろ」
    などといわれることもあるみたいですね。
    (まぁ実際、計画停電地域に会館がひっかかっちゃって、会館側から中止をお願いされるケースもまま、あるみたいですが)

    阪神大震災の時だったかな?「音楽でハラはふくれんだろう!無駄だよ」といわれたことはありました。

    でも全然遠方で影響ない関西とか九州の発表会をやめろってのもヘンなお話ですよね。
    イベント中止は警備の問題もあるみたいですが・・・。
    発表会が中止になってしまって、がっかりしている子ども達のケアの問題もあるんだ、ってことを、そういう人々には知って欲しいです。

    そういえば、買い物によったスーパーで「お、気仙沼産の塩辛か。気仙沼は大変だから応援しよう」と、塩辛を買って帰られたおじさまを見かけ、「ナイスおじさま!!」と心の中でエールを送りました。こういう心はいいですね。

  8. たかさん より:

    何がサバイバル・ギルティだ!?

    ここは超自己満ブロガーの集まりか?

    偉そうな事書くな。

  9. すとん より:

    >ことなりままっちさん

     自粛自粛で…まあ、私のような趣味の人は我慢すればいいのですが、職業音楽家の方々は、一気に仕事が無くなって、大変なようですね。特に演奏で生計を立てている人は、演奏会やライブが軒並み中止になって、途方に暮れているようです。

     東日本が混乱している今だから、西日本の人たちは活発に色々な活動をしてもらいたいなあと思います。

     しかし、心が弱いために、他人を攻撃したり、イヤな思いをさせる事で、自分の精神のバランスを取ったり、自尊心を満足させる人って、悲しい人だなあって思います。

    >「音楽でハラはふくれんだろう!無駄だよ」といわれたことはありました。

     確かにハラはふくれないけれど、心は満たされるんだよね。心が満たされると、カラダが元気になってくるんだ。カラダが元気になれば、生きる力が湧いてくる。…そんな事を言っても、たぶんその人には通じないんだよね。ああ、悲しい。

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