カロ・ミオ・ベンの最後にして二度目のミニ発表会が終わりました。色々と注意は受けましたが、特に心に残っているのが「同じ声で歌う」ことです。
「高音をカツーンと出すことも大切なことだけれど、それよりももっと大切なことは、同じ声で上から下まで歌えること」 そうキング先生に言われました。もっともな事だと痛み入りました。
どうもすぐに高音に固執してしまうのが私の悪い癖です。
歌っていても、高音の箇所が来ると、(と言っても、カロ・ミオ・ベンには大した高音の箇所はありませんが)意識してしまって、身体の使い方を色々と変えてしまうというか、小細工を弄するわけですよ。そうすると、違う声になってしまう。
小細工はしないこと。鏡を見ながら、母音だけで歌ってみて、クチビルが少しでも動いてしまったら、アウト。気をつけるように…だそうです。
高い声をきれいに出したい…という色気がダメなんですな。
同じ声というと、同じお教室のお姉様方から言われたのは「きれいな声はとてもきれいなんだけれど、ときおりつぶれた声が混じる。きれいな声とつぶれた声が極端に違うのが残念。全部をきれいな声で歌えないの?」 それを聞いた先生が「歌にアラがあるのは、まだ仕方がないけれど、ムラがあるのはダメですよ」だそうです。
アラがあることは自覚してますが、ムラがあることは気づきませんでした。いやあ~、自分では、その点が全然分かりません。ここが声楽学習の落とし穴ですね。まわりはみんな、欠点に気づくのに、自分ひとりだけがその欠点に気づかない…よく聞く話です。私って、よっぽど、ガタガタした歌い方をしているのでしょうなあ…。
常にきちんと奥を開ける。すとんさんは、すぐに奥がつぶれてしまうから、声が変わってしまうのです…だそうです。“頭の後ろで「ガチョーン」”を忘れずにってことです。
あとは「フォルテは大きな声(というか、怒鳴り声?)を出すのではなく、うまく部屋を響かせることを考えるようにしましょう」「もしも声がひっくり返ったら、それはそれでいいです。決して力んでつぶれた声で歌わないこと。ひっくり返ってもかまわない…という潔さが肝心です」…だそうです。
ミニ発表会とは言え、学ぶことはたくさんありました。人前で歌うことって、大切な勉強ですね。
コメント
良い機会でしたね!
私も年に数回、小さな本番が欲しいと思います。
むらのない声、音色の統一・・・ということは最初の頃からいろいろ言われていましたね。
自分では変わっている感じがしていなかったので訳がわかりませんでした。
今では他の課題はたくさんありますがこれだけは結構できていると思います。
>Ceciliaさん
私の場合は、最初はおそらく全部つぶれた声だったのが、レッスンを重ねてきて、段々、声がいい方向に変わってきたのだと思います。まあ、そういう意味では現在は過渡期?
でも自分では、過渡期という自覚はあっても、実際の歌声がそうなっているかどうかというのが分からないのが辛いですね。先生をはじめ、歌を聞いてくれる人々のアドバイスだけが頼りってのが、声楽学習の特徴だと思います。
その点、笛はラクです。だって、音色が違えば自分で分かりますから、なんとかしようと思えるし、努力もできる。歌は自分じゃあ分からないのだから、どう修正していけば良いかも、自分だけじゃ分からない。いやはや、なんとも、の世界です。
私もまだまだ過渡期ですが、声楽では声を聞くというよりは、自分の身体の感覚でいつも同じにできているかの確認ができると思います。先生も(一つ前の先生ですが)「声は聞かないです」とおっしゃってました。確かに聞くというより感じる、思うと歌えているというのが声楽かなと思います。身体が楽器な分、普通に楽器を扱うよりはもっと直接的な感じがします。『思ったら手や足が動く』という基本的な?本能的な分野かもしれません。修行中はそう簡単に思ったらできるということはないのでかなり頭で考えていますが、それを突き抜けたら思ったら歌えている状態に行きたいなと思います。
まあ、楽器でも目指す方向は思ったら演奏している状態なんですが…。身体の外にある分、思ったらできるというにはちょっと回路が遠いですけどね。
最近やっと歌を自信持って歌えるようになりたいと思うようになりました。楽器を運ぶ必要がないので、アカペラでよければどこでも歌えますし聞いてもらえますしね。最近までは呼吸法が学べて老化をくい止める手段に声楽を習っていると、ある種下手な言い訳のように思っていましたが、やっと重い腰を上げる勇気が出てきたように思います。これからもがんばります。できるだけ続けて習いたいです。
フォルテとピアノの解釈では、大きい+小さいというよりはその場の雰囲気のありようと思われたら感じがつかめると思います。
フォルテは突然の地震、火事、交通事故などを見た時に叫んでしまう、ほっとかれない精神状態のことです。この時に出す大きな声についてだけを取り上げると「大きい」という意味になりますが、大きな声を出す時の精神状態が再現できなければただの大きな声となって、無意味なわけです。イライラ、ドキドキ、コラーー!ガンバレーーー!などそういう気持ち。多少話し言葉も早くなって思いを伝えたいという気持ちだけが先走ってしまってるような時。(ただ、歌ではきちんと伝えないといけないので、その辺は芝居と同じく、ただ早口で言うだけではだめですけどね。)
ピアノはその反対に眠い、ないしょ、愛の言葉、そよぐ風など、柔らかくそっとした雰囲気を身体に再現します。静かな感じ、小さいというよりは緩やかで言葉ものろくなります。
音楽は声楽や器楽に関係なく、気持ちを演奏で表していくものです。歌は言葉がありますのでかなり具体的な表現になりますが器楽は音だけですから、感情だけが表現となって、具体的なことは伝わりません。でも、感情を伝えると聞いている人は自分で自分の感情を思い出して(経験による)具体的な場面に変換することができます。
そういう意味で鑑賞はかなり能動的な作業になります。経験がないことは再現しにくいですから。ある程度は想像できますけど。(たとえばオリンピックの選手を見ていると経験はないけど、どれだけすごい練習をしてきたんだろうと想像できますよね。)
演奏者が感情を表現してくれないと鑑賞している者は何も受け取れないので再現もできないのです。
話がずれましたので、この辺で終わります。
>ticoさん
フォルテの話、分かりやすかったです。ありがとうございます。私はticoさんのこの手の話が大好きです。
「フォルテは大きく、ピアノは小さく」って学校で習うわけで、ずっとそう思ってきましたが、ちょっと真面目に(しかし趣味レベルで)音楽をやっていると、どうやらそうではなさそうだぞ?って思うようになります。
ちなみにイタリア語辞典でforteを引いてみたところ、次のように書いてありました。
forte [形容詞] 強い:丈夫な:烈しい:強硬な, [男性名詞] (肉体・精神の)強い男:長所
あれ、どこにも「大きく」って書いてない? おもしろいなあ…。
フォルテにせよ、ピアノにせよ、速度記号であると同時に表現記号でもあるわけだから、単純に大きくとか小さくとかではなく、結果として大きくなるかもしれないけれど、そこの根底にある“感情”をどう表現していくかが、楽譜を読んでいく時のポイントになるのでしょうね。そういう点で、ticoさんのたとえ話は、とても分かりやすかったです。
「フォルテは大きく」と脊髄反射的に思ってしまうのは、ある意味、学校教育の呪縛だな…。
最初の発言にある、楽器はちょっと回路が遠いと言う話、まさにそうですね。最近の私はその辺を感じます。もっとも、回路が遠いというのは、悪いことばかりでなく、遠い分、より客観になれるという利点もあり、それはそれ、これはこれかなあ…と思ってます。
声楽では「自分の声を聞かない」ですし、聞けませんね。ではどうするのか? キング先生は二つの方法がありますとおっしゃってました。
一つはticoさんのおっしゃるように「身体の感覚で覚えてゆく」。もう一つは「(自分の声ではなく)部屋に響く音を聞く」です。
キング先生は、どちらでも自分のやりやすい方でいいですよとおっしゃいますが、先生自身は後者のタイプだそうです。部屋に響く音を聞く習慣があると、その場その場に応じた声の出し方や歌い方に自然となるので、無理なくきれいに歌えるからだそうです。
もっとも、身体で覚える方は、そういう周囲の状況に惑わされずに、いつも自分のペースで歌えるという利点もあります。
ま、いづれにせよ、それは先生レベルの人の話であって、私などは、まず「自分の(身体の中に響く)声は聞かないようにする」のレベルなんですけれど。
歌の場合は案外、ダイレクトに違いが分かるのかなと思っていたのですが、なかなか難しいんですね。でも、高い音をきれいに出したいという色気は・・・私もあるかもしれない。
楽器の場合はダイレクトに変化するわけじゃない場合もありますね。冷静に一歩引いて演奏を聴くことって難しいです。ピアノ弾いてるときは、そりゃもう、必死ですから(爆)
必死すぎて聴けてないっていうことはよくあります。(実は師匠にも指摘されるんですが、冷静になればまぁ、そうなんですが、渦中にあるとね~)
小さな本番があるといいな、というのは私もそうですね。
>ことなりままっちさん
ああ、そうですねえ。楽器だろうが歌だろうが、演奏中は夢中だから、なかなか自分の演奏が聞けないというのは、納得。特にピアノって、音数も多いから大変だろうなあ…。
そうであっても、どこか冷静になって、自分を客観視しながら演奏できないといけないのだろうけれど、それをするには、冷静になれるほどの多くの練習量というのが必要な気がする。
大変だな…。
>小さな本番があるといいな、というのは私もそうですね。
これは私の歌のレッスンがグループレッスンだからです。グループレッスンは、個人レッスンほどきめ細かくないし、進度も遅い(これは私にとってはGood)ので、あまりいい印象は持たれませんが、グループレッスンならではの良さというのもあって、小さな本番がそれなりにあるというのは、まさにそれ。
歌も個人レッスンだと、こういう場は持ちづらいですね。ピアノは…ピアノのグループレッスンってあるの?
声が上から下まで変わらないって結構難しいのかも・・・。有名声楽家の公開レッスンを受けていた優秀な生徒さんでさえ声が変わってましたから。この音からダダダーと声が変わったっていうのはベルカントではNG。
変わらないようにするのに松尾先生のおっしゃられる「ディクションは口先で」に気をつけるとすごくよいと思いますが。(私の個人的意見)
>あゆみさん
欲を出したり無理をしたりすると、声は途中で変わってしまうのだと思います。無理のない範囲内で歌っていれば声がコロコロ変わるということはないのでしょうが、それでは声域が狭すぎるので、訓練によって無理のない範囲を広げてゆく…まあ、こんなところでしょうね。
どのみち、修行中の過渡期の身の上ですから、努力と精進あるのみです。
>変わらないようにするのに松尾先生のおっしゃられる「ディクションは口先で」に気をつけるとすごくよいと思いますが。(私の個人的意見)
そうそう、そうかもしれない。「美声学」を読み返すことにします。あの本は、薄い本だけれど、とてもお役立ちの本ですからね。
ピアノのグループレッスンって・・・
思い当たるのは、初歩の人のやつくらいかなぁ。
私はグループでピアノを指導したことありませんし。(大人の初心者をグループで教えるという講座を受けたことはありますが)
そうそう、私の師匠は母校の音大の教授で、副科ピアノも教えているのですが、副科のレッスンはグループでひとりあたり20分くらいの持ち時間しかないと聞いたことがあります。師匠は「副科とはいえ、20分でたいしたことは教えられないので不満だが、教務にかけあう気力もない」そうです。
グループレッスンといえるのかどうかは不明ですが、私が昔ついていたM子先生の門下で、私を含む数名が音大に通っていたので、試験前に弾き合いをしていました。それぞれの指導教官の選曲の好みとか、弾き手の表現方法が違っていて面白かった。こういうのはいいかもしれませんね。似たようなことをやっているのが、私の教師tの「勉強会」なんです。
>ことなりままっちさん
いやあ、やっぱりピアノの場合、グループレッスンってないみたいですね。
実は私、例えば6人グループのレッスンの場合、一つの部屋に、先生と生徒さんの分のピアノ7台入れて、同じことを同時にレッスンするのかとか、生徒さんは二人で1台にして連弾の形でレッスンするのかとか、ま、そんな想像をしてました。
そう言えば、学生時代、ピアノの授業は、私は初級クラスだったので、グループレッスンみたいなものでした、思い出したよ。一部屋に30台程度の電子ピアノがあって、それがみんな黒板に向かって設置されていて、授業の最初に課題(バイエルです)の説明があって、その後は個人練習といってヘッドホンつけて各々練習。授業の最後にヘッドホン外して、みんなで(同じパートを)合奏。初心者しかいないから、見事な現代音楽だったよ。
私はこれじゃあ上達しないと思って、空き時間に音楽科のレッスン室にもぐり込んで、勝手に個人練習してたな、だいたい毎日一時間ずつ。それでもやっぱり上手くならなかったけど。たぶん、間違った方向の練習をしていたんだと思う、誰にも指導されなかったし。
独学はダメだな。
ちなみに中級クラスと上級クラスは、個人レッスンだった。人数少なかったし。ちょっとうらやましかった。