「“学ぶ”とは“真似”ぶ事である」とは、よく言われる事ですし、真理の一面をうまく表現していると思います。
ただ、より良く学ぶためには、ただ単に、やみくもに真似ているだけではダメで、ある部分は真似を超えた部分(いわゆる“オリジナル”)がなければならないと思います。「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり」とも言う通り、やはり何事にも指導者とか師匠と呼ばれる存在は必要で、その指導によって、どこまでを真似て、どこからは自分流にするべきか、その道を導かれなければならないと思います。
これはすべての学問・芸事に通じることだと思います。
ここでは音楽にしぼって考えてみましょう。
先人の演奏スタイルの、どこまでを真似て、どこからは真似るべきではないのか。これは簡単そうで、実は難しい課題かもしれません。
憧れの演奏家がいて、その演奏家に瓜二つの演奏ができる事を目標として学ぶ…これは音楽を学ぶ目標として、割とある目標だと思います。ランパルやゴールウェイと瓜二つの演奏ができたら、嬉しいですよね。マリア・カラスと区別がつけられないほどの歌が歌えたら、天にも昇る思いですよね。私はテノールですから、ドミンゴやデルモナコのように歌えたら死んでもいいと思ってます。
ランパルやゴールウェイのように演奏したいから、ゴールド・フルートを購入する。これはアリだと思います。彼らのようになりたいから、彼らが校訂した楽譜で演奏する…これもアリです。彼らのように演奏したいから、彼らの音源を聞いて、そっくり耳コピーをして演奏する…微妙ですね。そこまで行ってしまうと「個性って何?」という話になってしまいます。でも、真似をしている自分は、そこまでできるようになれば、限りなく嬉しいですね。
歌で言えば、マリア・カラスやドミンゴと、全く同じに、そっくりそのままの歌が歌えるようになれれば、本人は嬉しいでしょうが、第三者的には“ただのモノマネ”にしか聞こえなくなります。そうなると、それは“音楽”ではなく“演芸”の領域に突入してしまう事でしょう。なんとも微妙な話です。
一生懸命に音楽を学んだ結果が、演芸になってしまったら、本人的には喜ばしいだけに、端から見れば、立派な喜劇になってしまいます。
歌を学ぶ上で、モノマネになってしまうのは、ある意味『学びは“真似”び』のダークサイドに陥ってしまう事だと思います。
それじゃあダメでしょう。
あと、フルートなど、楽器の場合は起こりづらいのですが、歌の場合『作り声で歌う』というダークサイドもあります。
『作り声で歌う』事自体は悪い事ではないと思います。声優さんが、アニメの役(キャラクター)になりきって歌う“キャラソン”などでは、声優さんは当然、演技として“作り声”で歌うわけです。これは立派な歌唱テクニックの一つだと思います。
でも、プロやプロの卵の人が、すでに成功したプロ歌手を真似て、作り声で歌うのは、いかがでしょうか?
例えば、J-POPの男性歌手の中で、サザンオールスターズの桑田さんのモノマネになってしまっている人って、たくさんいるでしょ? 桑田さんのモノマネでなければ、B’zの稲葉さんのモノマネや、ブルーハーツの甲本さんのモノマネだったりします。でしょ? 私などは、そういう二番煎じの歌手の歌を聴くくらいだったら、桑田さんなり、稲葉さんなり、甲本さんなりのオリジナルを聞けばいいんだから、そんなモノマネ歌手なんて聞く必要ないって思っていたりします。
しかし、同じ事をアマチュアが行った場合は…微妙でしょ? アマチュアの場合、必ずしもオリジナリティは必要ではないわけです。それどころか、コピーがもてはやされる場合だってあります。それは、コピーバンドやモノマネ歌手という遊び方につながっていくからです。そういうのって、モノマネされるご本人そっくりに歌えれば、本人も嬉しいし、それを聞いている人も笑顔になるわけです。
ううむ、難しい。
ただ、歌でも、クラシック声楽の場合は、その人のノドの能力限界まで使って歌いますから、モノマネをしたり、作り声で歌っていたら、早晩、ノドを壊すことになると思います。ポップス歌手なら、ノドを壊して、声をつぶしても「ハスキーな声ですね」と済みますが、クラシックの場合は、単なるポンコツでしかないです。
かつての私は、当時の先生に言われた事もあって、上手くもないモノマネに励んでいた時があります。私が真似たのは、もちろん、大好きなデルモナコ。彼の真似をしなさいという指導を受けていたので、少しでも彼の声に近づくべく頑張っていた事があります。
…が、結局、それって、すごい遠回りの上に、行き先を間違えていたんだなって、今は分かります。私がデルモナコの真似したって、真似できるわけないし、もしもできたとしたら、そんな声、全く使い物にならなかったと思います。
だって、私はレッジェーロ系のリリコテノールだけれど、モナコはスピントなテノールです。軽自動車がダンプカーのマネをするようなモンです。そんな事、できるわけないです。そんな無理の事を要求されたから、ノドを壊しかけたんだと思います(まあ、それだけが理由じゃないと思いますが…)。
「“学ぶ”とは“真似”ぶ事である」は真理です。しかし、演芸としての音楽を目指すのでなければ、モノマネと言われるほど、瓜二つの真似は良くないだろうと思います。スタートこそは真似であっても、どこかでオリジナルのスタイルへと舵を切っていかなければいけないと思います。
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コメント
すとん様。お久しぶりです。Operazanokaijinnokaijin(オペラ座の怪人の怪人)です。
さて、福山雅治曰く、
「お手本となるアーティストを徹底的に真似るべし。」
「真似て、真似て、真似て、
しかし、100%真似することは、しようと思ってもできない。」
「その、真似のできない数%が、あなたの個性。」
なかなか、含蓄のある話だと思います。
いかがでしょうか?
Operazanokaijinnokaijinさん
不器用さは個性じゃないですよ。真似て真似て真似て…本当に器用な人が真似をすれば、100%ジャストのモノマネは確かに無理でしょうが、ほぼ100%に近いところまで真似できます。いや、むしろ、100%を越えて、本人よりも本人らしく行動することが出来るほどの真似巧者も世の中にはたくさんいます。
アマチュア、とりわけコピーを目指している人はそれでいいし、芸人さんもそれでいいでしょう。「モノマネ」とか「亜流」とか「劣化コピー」と呼ばれて嬉しい人も、それでいいんです。
自分らしさを追求する人、表現を極めていこうとする人なら、スタートは誰かの真似であっても、やがては、その誰かから思いっきり離れていかないと、その誰かの引力に飲み込まれて自滅してしまいます。
個性ってのは、残りカスとは違う…と私は信じてます。『他人を真似しない』『あえて孤高を行く』という強い意志がやがて個性として結晶していくんだと思います。
だから、私のような凡人には、個性なんて無いですよ。残念な事に、私は常に“誰かの劣化コピー”でしかないです。だから“自分らしくあろう”として、もがくわけです。
もしも私にあるとしたら、それは個性ではなく、コピー製品としての個体差だと思います。
昔は楽譜をろくに読みもせずに、レコードの録音を猿真似していました。
ルービンシュタインのショパンをコピーしてものすごい速さで弾き飛ばし、
技術が追いつかず自滅したり・・・(苦笑)
最近は逆に、自分が弾いている曲は、できるだけ他人の演奏を聴かない
ようにしています。そのかわり、同じ演奏家の別の曲や、ほぼ同時代に
書かれた曲などは参考にしますが。
ド素人なので、楽典の知識が欠けているのが難点ですが、それでも、
リズムや音の構成、和声などに注意を向けていけば、少しずつその曲の
特徴もわかってきて、つたないながら、自分なりの弾き方が見えてくる気
がします。
それが例え音楽的には未熟なものだったとしても、他人の物真似よりは
いいんじゃないか、なんて、最近、遅ればせながら思うようになりました。
こんなことを書きつつ、コンサートなどで偶然、同じ曲をプロが弾くのを
聴いて、あまりのレベルの違いに落ち込んだり・・・なんてこともあるん
ですけどね(汗)
演奏技術に関しては、コンサートやレッスンで他人の弾き方を盗み取る
のは十分ありだと思います。
すみません。
ピアノ目線で書きすぎました。
フルートとか歌とか、単旋律楽器の場合、旋律とリズムだけしかない(伴奏はありますが)分、ピアノより曲をつかむのが難しい、あるいは違った方法で曲を理解しなければいけない部分はあるかもしれませんね。歌の場合、歌詞の解釈もしなければいけないし、演技の才能も要求されそうです。
そう言えば、昨夜、行ったアマチュアコンサートでは、発声はめちゃくちゃ(喉声)なのに、演技力と音楽的な感性で聴衆を魅了し、大喝采を浴びていた「歌手」がいましたよ。ちなみに彼もテノールでした。
Yokusiaさん
ピアノは演奏すること自体が難しいので、真似をするにしても、真似る方もかなり上手でなければ技術的に追いつかないので、真似する事も一苦労ですが、単旋律楽器の場合は、ピアノなどの完全楽器と比べると、真似をするのは楽になると思います。これが歌になると、さらに容易になるだろうと思われます。
私は、アマチュアが楽しみのために、コピーするのは全然アリだと思ってます。“なりきり”もアリアリです。ただ、真似をするなら、今、自分は真似をしているんだという自覚があると、勘違いしなくていいですね。
表現をするという事は、とても難しい事だと思います。自分なりの表現がうまく出来なければ、他人の表現方法を借りてみるのも、素人ならではです。
ただ、他人のモノマネは、感心させられるけれど、感動はないですよ。人を感動させたい…と願うなら、やはり最初は稚拙でも、自分なりの表現を探していくしかないと思います。
>、昨夜、行ったアマチュアコンサートでは、発声はめちゃくちゃ(喉声)なのに、演技力と音楽的な感性で聴衆を魅了し、大喝采を浴びていた「歌手」がいましたよ。
いいですね。テクニックは後からでも向上できます。でも、お客を喜ばせるのは難しいですよ。その部分から攻めていくのは、良いですね。私もその方の歌を聞きたかったな。
郷ひろみも言ってましたよ。
気に入ったら、とにかく真似る。徹底して真似る。
中途半端は、ただの猿真似。
徹底して真似た時に、自分が行きたい方向が見えてくる。
と言う事を。
器楽の世界では徹底して真似しても真似出来ない要素があるわけで。
でも、真似することによって羅針盤は見えてくる。そこまでは真似って大事だと思います。
そこから先、自分でカジをとれるか…が最も大事でしょう。
めいぷるさん
私の中では郷ひろみさんは、ちょっと別格なんです。尊敬しております。なにせ、彼はほんとのほんとに、One & Onlyなタレントさんだと思います。色々な意味ですごい人だと思います。
それはさておき、真似を極めて、そして真似から離脱する事が大切ですが、離脱する前に『徹底して真似ろ』と言いたいのかなって思います。なにしろ、名人を真似るとは、その名人とテクニックのレベルでは同等になるわけですからね。
でも、器楽はともかく、声楽とかダンスとか、真似しすぎると気持ち悪いと私は感じます。人間に似すぎた人形が不気味なのと同じ感覚なのかもしれません。