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メトのライブビューイングで『西部の娘』を見てきました

 はっきり書きましょう。プッチーニ作曲の『西部の娘』というオペラは名作になりそこねた駄作であると。それゆえ、物好きなオペラ好事家以外の人には、特に鑑賞する価値すらないオペラであると。

 実際、『西部の娘』には歌謡性が欠落しています。おそらくそれは、プッチーニによって意図的に欠落させられたものであると私は考えます。なぜなら、このオペラの第三幕には有名なテノールのアリアがあり、このアリアのみ優れた歌謡性、いわばプッチーニ節と呼べるモノが見受けられるからであり、このアリアは、当初、このオペラには無かった要素だったからです。

 そもそも、この『やがて来る自由の日/Ch’ella mi creda libero e lontano』というアリアは、初演した大テノール歌手のエンリコ・カルーソーが作曲家プッチーニ向かって「このオペラにはアリアがない、アリアを書き加えなきゃ俺は歌わないぜ!」とか言ったとか言わなかったとか。とにかくこのアリアは主演テノール歌手に対するサービスであり、作曲家本人にとっては妥協の産物であって、それゆえにオペラ全編で浮きまくっている場違いなアリアでしかありません。それゆえ、いかにも“後からオマケで付け加えました”って感じで、それまでの音楽と、このアリアは、全くの別ものです。このアリアは「西部の娘」の中よりも「トスカ」や「蝶々夫人」の中にあった方がしっくりする音楽になっているのも仕方のない話なのてず。

 つまり、プッチーニは、歌謡性あふれるメロディアスなアリアを書こうと思えば書けるのに、あえて「西部の娘」には歌謡性を与えなかった…と私は思うのです。

 なぜ彼はそんな事をしたのか? おそらく、彼は迷っていたのでしょう。迷って自分を見失っていたのでしょう。つまり一言で言えば、スランプだったんです。ここまで名作オペラを書き続け、直前には「蝶々夫人」という名作を書いたにも関わらず、世間にはなかなか受け入れてもらえずに苦労をして“これじゃあいけない”と思って、無意識に今までとは別のやり方を模索して、道に迷ったのだと思います。

 まあ、それ以外にも、当時のプッチーニはスキャンダルにまみれていて、心に余裕はなかったろうし、ワーグナーから始まりリヒャルト・シュトラウスにつながっていくオペラ界の潮流だって感じていただろうし…。プッチーニは色々と焦っていたんだろうと思うわけです。

 確信的に、このオペラに歌謡性を与えなかったと思う別の理由として、歌には歌謡性を与えていないのに、伴奏であるオーケストラには豊かな歌謡性を与えているからです。「西部の娘」の歌には、聞くべきものはあまりありませんが、伴奏のオーケストラはなかなかよく仕上がっています。

 でもそれはイタリアの伝統ではないし、プッチーニのスタイルでもありません。

 つまり、プッチーニは『西部の娘』というオペラを、少なくとも『蝶々夫人』レベルの名作オペラに仕上げる事が出来たにも関わらず、あえてそれをしなかったわけです。

 ほんと、聞いていて、実に残念なのです。名曲になりそうなアリアや二重唱は、そこかしこにあふれています。しかし、音楽が輝きを放つ直前、どの曲もメロディーがくすんでしまうのです。ああ、プッチーニの迷いを感じます。まるで「ここで甘美なメロディーを書いてはいけない」と心に誓っているかのようです。

 で、そんな大作曲家プッチーニの駄作である『西部の娘』だけれど、メトは、実に興味深いオペラに仕上げて上演しています。『西部の娘』というオペラは、取り立てて見る価値のあるとは思えないオペラだけれど、このメトの上演は例外であって、これは実に面白い舞台作品だと思います。

 アメリカ人って『西部の娘』が大好きなんだよね。ほんと大好き。その愛情が、駄作オペラを水準以上の出来に仕立て上げたのだと、私は思います。

 ちなみに、このオペラ、CD等で音だけで聞くと、ほんと退屈ですよ。また、メト以外の歌劇場での上演で見ると、実につまらないです。

 しかし、メトの(最近にしては珍しいぐらい)セットにお金をかけ、衣装にも力を入れ、演出にも手間ひまかけた、この上演ならば、話は別です。実に面白いのです。まるで、舞台ではなく、映画を見ているかのような演出は、おそらくメト以外ではできないでしょう。ほんと、金満物量作戦ですよ。でも、これだけの経費と物量を投入して、初めて「西部の娘」というオペラは、見るに耐えうるモノになるという事が分かりました。

 結論。『西部の娘』というオペラには見る価値はないけれど、今回のメトの上演版は、音楽以外の部分があまりに素晴らしいので、見るべきです。特に、舞台制作にかけているアメリカ人の愛情が素晴らしい…と私は思いました。

 キャスティングは最高です。カウフマン、いいですよ。ディック・ジョンソンは彼ぐらいのイケメンじゃないと説得力ありません。ミニーを演じたエヴァ=マリア・ヴェストブルックのような美人さんはオペラには必要不可欠です。とにかく、このオペラ、実質的にミニー以外はすべて男声なわで、掃き溜めに咲く花としては、これくらいの美人じゃないと物語は成立しません。

 まず、他の歌劇場では、これだけの歌えるイケメンと美女を揃えることが難しいでしょう。さすがメト…と言っておきます。

 やっぱり、オペラって、金食い虫なんだと思います。

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