言葉には言霊というのがあって、言葉を他人に投げつけることで、その人の行動を長期に渡って支配する事が可能です。これを良い方向に使うのが“祝福”であり、悪用したのが“呪い”です。で、この呪いによって行動が支配された状態を“呪縛”と言います。
誰もが“意識している/していない”に関わらず“誰か/何か”に支配されて、呪縛を受けているものです。呪った人が、親であれ教師であれ友人であれ、人が人として生きているならば、それまでに関わった幾人もの人たちに受けた言葉に支配されているものです。そうでない人がいるならば、それはよほどの、唯我独尊タイプの人と言えるでしょう。
さて、私もたくさんの呪縛を受けています。その多くは、私自身が気づかないままに私を今も支配しているのだと思いますが、幾つかの呪いに関して、私自身が呪いに気づきながらも、なかなかその呪縛から自由になれずに困っていたりします。
歌に関する未解決の呪縛もいくつか自覚しています。
分かっちゃいるけれど、そこから逃れらない呪いは幾つもありますが、ほんと最近気になるのが「歌の出だしは、もっとはっきり歌いなさい」という呪いの言葉です。
この呪いをかけた人は、私の小学3年の時の担任の先生(仮にT先生とします)です。
小学校の音楽の時間の時に、斉唱をするじゃないですか? 先生がピアノを弾いて、それに合わせてクラスのみんなで歌うのですが、ある時の授業で斉唱をした時に、歌の歌い出しが、なんともフワッとした感じだったんでしょうね。そこに業を煮やした先生が「歌の出だしは、もっとはっきり歌いなさい」と、ちょっと怒りモードで徹底的に指導したわけです。
当時小学3年生だった私は、実に素直にその指導を受けました。
歌の出だしをはっきり歌うために、何をしたと思います?
実に簡単な事ですよ。
1)息をノドにぶつける
2)ノドを絞って力を込めて歌う
…です。いわゆるノド声で近鳴りの声で歌う事でした。いやあ、そういう声で歌えば、先生はご満悦なんだから、小学校教師なんてチョロいもんです。ちなみに、私の通った小学校には、音楽の専科の先生なんていませんからね。T先生も音楽が専門ではない方でした。
おそらく、クラスの子たちがフワっと歌っていたのは、一つには歌に対する自信が無くて、ちょっと周囲を見回しておずおずと歌っていた事実はあるだろうけれど、息に乗せて柔らかく歌っていたから、フワッとした感じになっていたとも言えます。
つまり、良い歌い方をしていた小学生を、ご自身の無知による間違った指導で、間違った歌い方に矯正ってか、悪い方向に導いてしまったわけです。
まあ、歌い方なんて間違っていても問題ないです。別に命が取られるわけでもないのですからね。
でも、この先生がかけてくださった呪いに、何十年も悩まされてきたのが私です。ほんと、私のノド声は、この先生の呪いによって作られたと言っても過言じゃないですからね。で、未だにその呪縛から解き放たれてはいないのです。いやあ、罪深い先生です。
さすがに半世紀にも渡ってかかり続けてきた呪いは、そうは簡単に解けないのですよ。困った困った。
P.S. 算数が得意だった私が、いきなり算数嫌いになったのも、T先生の何を言っているのかよく分からなかった授業のおかげです。大学出たての若いお嬢さん先生でしたが、ほんと、この先生にはたくさんの呪いをかけられました。困ったものです。幸いな事は、この先生、すぐにご結婚をなされて、先生を辞められた事かな? 被害が広がらなくて、よかったよかった。今思うに、先生になるには、力不足だった方なんだと思います。
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コメント
先生ねた、算数ねた、なので、書かずにいられません。
中学1~2年の頃、私、数学、得意でした。
ただ、数学に限らず、自宅学習は復習のみ。
予習は全くやっていませんでした。
中3になり、数学の先生が新しく、中年の男の先生になり、
最初の授業で曰く、
「毎日、必ず、3ページ、予習をしてきなさい。」
「それが宿題です。」
真面目な私は、その日から、毎日、一生懸命予習をして、
数学ができなくなりました。
予習というのは、習っていないことを自分で能動的に勉強すること。
それまで、私は、まず学校で新しいことを、受動的に習い、
(まあ、ぼんやり聞いていることが多かったのですが)
家に帰ってから、ぼんやり聞いていたことを復習していました。
この方法が自分に向いていたわけです。
全く不向きな予習を1学期(4月~7月)やっていて、
成績は急降下。
夏休みを契機に、予習を止めて、復習に復活し、2学期は急上昇。
ただ、まあ、気の弱い中3の私にとって、
中年の男の先生の「宿題」をやらない、という決断は、
なかなか勇気の必要な決断で、ストレスを感じたものです。
生徒は1人1人、個性・適性が異なるのですから、
勉強方法も1人1人の個性・適性に合わせるべきですが、
学校の先生もお忙し過ぎて、とてもとても、
1人1人の個性・適性にあわせることはできないでしょう。
しかし、十把ひとからげ(って言うんでしたっけ?)
「全員、予習=宿題!」という指導も、いかんのではないか?
と思う、今の私です。
おしまい
こんばんは。
> なかなか呪縛から解き放たれません
以前よく読んでいた内田樹の抜粋からです。
他の方のサイトの抜き書きからの引用です。この本は断片をつなげたようなものです。
突然でてくる次のポパーの引用だけでも読む価値がありました。ドイツ的アイロニーでしょうか。
http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/26605
「自分の偏見を除去したと確信している者が最も偏見に満ちた者であるというのが日常的経験ではないだろうか」
この対偶をとってもメチャ面白いです。毎日TV放送をみていると、とてもコメントできません。
小学生ねたとして
私が4年生の頃、新任の男の先生が着任しました。
宿題を忘れるなどでその先生が怒ると
顔を真っ赤にして、グーで生徒の頭の頂点にげんこつが落ちてました。
その内先生自身の手が痛いと、クラスの中から竹林のある子に
長さ1メートル直径10センチ位の生の孟宗竹を持ってこさせまして。
その日からげんこつから、”ししおどし”の要領で
孟宗竹が頭上20センチぐらいのところから落とされるようになりました。
その重量と硬さでちょっとした脳震とうが起きてました。
そのせいでこの年から私は引っ込み思案になってしまいました。
ちなみに竹を持ってきた子は宿題忘れの常習犯で
毎日の様に竹が落とされ、ある日頭から血を吹く事件となりました。
あのころは体罰の許されていたとらうまの時代でした。
operazanokaijinnokaijinさん
生徒の適性も異なりますが、そもそも教科特性って奴もあるんじゃないかな…なんて思います。予習が必要なのは、語学ですね。英語とか高校の古文や漢文とかね。こう言った科目は、予習をしておかないと、授業が理解できません。しかし、数学などは、下手に予習をしてしまうと、授業がつまらなくなるんじゃないかな…なんて思うんですよ。何事にも、初見の楽しみってあるじゃないですか? それを生徒から奪っちゃいけない…なんて考える私です。
まあ、本当は、生徒が予習せずとも、きちんと分かって理解できて、なおかつ楽しい授業をするのが、本来の教師の役割だと思う私でした。
tetsuさん
つまり、言い古された言葉だけれど「人を呪わば穴2つ」って事になるのかな…。昔からの呪縛にがんじがらめな私だけれど、一方では、知らず知らずのうちに、誰かを呪っている、あるいは、呪いをかけている事になるわけです…な。
まあ、そうかもしれない。いや、きっとそうなんだろうと思う。それこそ、呪いが呪いを生み出している…わけで、呪いのスパイラル現象って奴だったりして。
名無さん
竹を横にして叩くのではなく、縦にして叩いている…って事でしょう。
例え昔でも、それって許されたのかな?
>毎日の様に竹が落とされ、ある日頭から血を吹く事件となりました。
これ、絶対に、頭蓋骨が骨折して陥没しているよね。いくらなんでもやり過ぎだよね。許されたのでなく、知られなかった…だけだと思います。
今は情報の伝播が速いから、隠し事もうまくいきませんが、昔は情報の伝播が遅くて、情報が伝わっているうちに、うやむやになってしまう事が多かったと思います。うやむやになっているうちに、許されてしまっていただけだと思いますよ。
怪我をした子に、障害が残らなかったかどうか、まじで心配です。
あーすいません。
事が大事にならぬ前に追加説明を。
竹は横で打っています。
先生が竹の片方を持って、もう片方を
生徒の頭上20センチぐらいから自由落下で
棒を倒すって感じです。
それでも肉厚の孟宗の生竹ですので
かなりの衝撃でしたよ。
今思うと主さんがおっしゃる通り、何で大事至らなかったんだろう
と思いますね。(^^;)
ちなみに血を吹いた彼は、その後も
筋金入りの常習でした。
名無さん
ああ、よかった。竹は横なんですね。縦と横では大違いですからね。でも、アタマから出血とは、尋常ではありませんって。
>その後も筋金入りの常習でした。
つまり、体罰は何の効果も無かった…って事ですね。悲しいなあ、せめて体罰で教育効果がてきめんだったら良かったのに。これじゃあ、殴られ損だよね。