まず、昨日のクラシックコンサートは無事に終了しました。とにかく、今は腑抜け状態でございます(笑)。しばらくして気持ちが落ち着いたら、記事を書いて音源をアップしたいと思いますので、しばらくお待ちくださいませ。
さて、よく声楽関係者と話をしていると、声が有るとか無いとか、そんな話になる時があります。でも「声が有るとか無いとかって、どういう事?」って言われると、何となくは分かるんだけれど、うまくは説明できませんでした。
だってね、別に「声が無い」って言っても、声が出ないわけじゃないし、普通に会話できるし、歌だって合唱を歌う分にも何の問題もないわけです。つまり「声が無い」と言っても、それは「独唱に適した声が無い」ってだけで、普通に歌えないわけでもなければ、別に音声障害でもなんでも無いわけです。
それにそんな“声が無い”と言われるような声の持ち主だって、マイクを使えば、普通に歌えるだろうから“独唱”と言っても、それはクラシカルな声楽に限った話になります。
じゃあ「独唱に適した声」って何ですか?って話になりますが、ざっくり言っちゃえば“オペラ歌手のような声”って事でしょ?
では“オペラ歌手のような声”って何ですか?って話になりますが…簡単には言えないよね。まずは、大きな声である事でしょ。何しろ、マイク無しでホールで歌えるんだからね。あと、極端に高い声や低い声が出せるって事でしょ。それに声が美しい事かな? 少なくとも、ダミ声はダメだし、割れちゃう声もダメだし、怒鳴り声もダメだもの。悲鳴は…かろうじてアリかもしれないけれど(笑)。
そんな事を考えてしまうと、簡単に声が有るとか無いとかは定義できないなあ…なんて、最近まで思っていたのですが、先日、ふと思いついたのです。声が有るって…案外、簡単な事なのかもしれないってね。
それは… 無理せずに楽に大声で歌える事 …です。
大切なのは“無理せずに”と言う部分です。正確に言えば、実は無理をしていたとしても、無理しているようには聞こえないという事が重要なのかもしれません。
無理せずに、楽に、大声で歌えるならば、それは“声が有る”と言っても良いし、そうでない人は“声が無い”って言えるんだと思います。
「高い声や低い声が出せる事は必要じゃないの?」
「声は美しくないとダメでしょ?」
うーん、声の高低は、声の有無とは関係ないかもしれないって、最近の私は考えます。と言うのも、普通に歌を歌う分には高い声や低い声が出なくても、中音部分にある程度の音域があれば、それで十分でしょ? 学びを続けていくうちに、やがて高い音や低い音が出るようになれば、それでいいんだと思うし、声だって、最初はあまり美しくなくても、やはり学びを続けていくうちに、声が磨かれて美しくなればいいんだ。そんなふうに考えるなら、譲れないのは「無理せずに楽に大声で歌える事」じゃないかなって思うんです。
と言うのも、無理したり、力んだりすれば、誰でもある程度の大声は出せるようになります。これは筋肉の問題であって、筋肉は鍛えれば発達するからね。でも“無理せず”“楽に”なんて条件を付けられちゃうと、筋肉が発達したからと言って出来るようになるわけではないのです。じゃあ何か大切なの? って考えると…骨格かな? 共鳴腔の容積の問題…具体的に言えば、口腔の容積の問題になってくるんじゃないかって思うわけです。
要するに“デカいクチ”を持っている事が声の有無には関係しているのではないかと思うし、クチのデカさってのは、アゴの骨の大きさや形状だったり、アゴの開閉能力だったりするわけで、それって先天的な要素が強いんじゃないかしらね? 大人になってから後天的な努力を積み重ねても、どうにも出来ない事柄だよね。
もちろん、骨格的に恵まれただけではダメで、さらに呼吸筋などが人並み以上に強い必要はあるけれど、この部分は後天的に鍛える事ができるから、あまり考えなくても良いかもしれません。
ってわけで、声が有るというのは「無理せずに楽に大声で歌える事」であり、そのためには生まれながらに骨格的に恵まれいる事が必要条件になってくる…と私は考えます。
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